はずっと昔のことを思い出していた。
祖母に引き取られる前のことだから2歳から3歳までの間だ。
 壁も床も天井も、全てが真っ白で無機質な研究所で計画的に誕生したは、そこではsubject008と呼ばれていた。
記憶力を向上させる遺伝子操作がなされ、身体的優性処理をされて誕生した研究所内における八番目の被験者だったらしい。
 現在では人型のアンドロイドは禁じられているけれども、ネープル帝国では一時期、アンドロイドの製造が盛んだった。
けれど人間にアンドロイドのような完璧さを求める者が増え、数年前から優性処理についての研究が解禁されていたのだ。
 しかしながらこの研究所では人間における遺伝子操作という領域まで研究を進めていた。
倫理的な話し合いが全く行われていない中での研究の続行に、非人道的だと記者が押しかけることもあった。
けれど、成功すれば国の為になると思ったのか軍部も皇帝もその研究を見て見ぬふりをしていたのだった。
 その研究所内ではあらゆる情報を詰め込まれる。
最初は文字の読み書きや計算という普通の子どもと同じ学習方法であったが彼女がすぐにそれをマスターしてしまうので、
次第に色々なジャンルの辞書や辞典類、研究論文、世界史と帝国史の本を与えられ、
世界的に有名な文学・芸術作品に触れ、マナー、機械操作などの訓練も受けた。
世界の料理や調味料を食べ比べて味覚における記憶力のデータを取ることもあった。
 そんな中では研究者が期待した通りの結果を出す。
機械に答えを出させるよりも早く情報を引き出せるので、はデータの照合や整合性などを求められるとその能力を発揮することになった。
興味深いのはは記憶力を向上させる操作はされたけれど、成長するにしたがって演算能力も向上したことだった。
恐らく環境が整備されていたことでその能力も引き上げられたのだろうが、
身体的優性処理がされていたは、学習したことをすぐさま反映できるだけの身体能力も持っていたのだった。
 そうして毎日膨大なデータを与えられ、必要に応じて提示するという生活を送っていたは、
後に名前が付けられる原発性下垂体臓器硬化症に共通の初期症状があることを指摘する。
その発見により、不定愁訴で片づけられることの多かったその病の真の病巣を研究者たちは突き止めることができたのだった。
 そうして治療法が研究されるうちに研究者たちは臓器移植以外の方法での完治を求め始める。
遺伝子操作によって下垂体異常は治せる可能性が高まったが、既に硬化した細胞を再生することは当時の技術では難しかった。
そこで幹細胞の自己複製機能と分化能力に目をつけたは人工細胞の作製を提案するのだった。
 それに目をつけた研究所は「遺伝子操作と人工細胞が不治の病をなくす」という触れ込みで資金を集めようとしたが、
倫理に反すると民衆から猛反発を受けることとなった。
そして倫理学会や反対デモが至る所で行われ、国も干渉せざるを得ない状況になり、
研究は凍結、研究チームも解散させられ、研究所も他の研究所と合併することが決まる。
 そんな中、subject008であるやそれ以前に誕生した被験者たちも国の監視下に置かれることになる筈であったが、
篤志家で有名な元弁護士の女性を中心とした人権団体が政府に「誰もが人として生きられる当然の権利」を求めた署名と嘆願書を提出し、
被験者たちはそれぞれ信用のおける者のもとで普通の生活を送ることとなった。
 また元弁護士の女性は、研究所解体に伴い不治の病の人々が絶望することがないように
政府が取り組んでいる指定難病治療研究事業や民間団体に財産の殆どを寄付したらしい――と、
気動車内で見かけた男が折り曲げて持っていた週刊誌の一ページに書いてあった。
 は研究所での生活は苦ではなかった。
寧ろ大人たちからは自分の存在を喜んでもらえて誇らしくもあった。
けれど道具のような接し方をされているのは子どもの目から見ても明らかだったと回想する。
しかしながら自分はそれを不快には思わなかったし、それが当然なのだと思っていた。
 それよりも、大金を支払って手に入れた被験者をほぼ放置している祖母の方がずっと不可解だった。
何か役立つから、得になるから連れてきたのではないか?なのにどうして学問から引き離そうとするのだろうか。
もしくは本当に被験者の人権を守りたかったのなら、もっと関わってくるのではないか。
結局、世間体を考えて引き取ったものの邪魔になったのかもしれない――そんなことを考えると、尚更からは祖母に近づけないのだった。
 はマナーや会話法などは学んだが、人間らしい触れ合いは経験してこなかった。
なので祖母と呼ぶようになった新しい家族に対してどう接すればよいのか分からないのだ。
けれど、祖母をどこか疑いながらも、には淡い期待もあった。
以前研究所で見た温かな親子の様子が描かれた絵画作品のような関係をいつか築けるかもしれない、
一緒にいればいつか彼女やこの家が自分にとって大切な居場所になるかもしれない、と。


 が目覚めたのは病院の一室だった。
原因は不明だが、約2週間程眠り続けていたそうだ。
眠り続けることになった前日やそれ以前に何かなかったかと医師や祖母に聞かれたけれど、
何一つ普段と違う特別なことは起こっていない、とは答えた。
 それから寝ている間どんな夢を見ていたか覚えているかと聞かれたが、は全く覚えていなかった。
けれど何故だかとても長い夢を見ていた気がした。
そして無性に人恋しくなったは自分が目覚めた時に涙を流して安堵してくれた祖母を見て、
これからは素直に甘えたいという気分になっていた。




ミュウENDへ


ミカサENDへ




メニューに戻る