幸せはここにある −1−


 桃子という少女は真面目で明るく、しかしお節介で友人の想い人を呼び出して「この子が好きって言ってるよ」と代わりに言うような
お節介を通り越して余計なお世話なことをしていた女子高生であった。
 そんな彼女も自分のことに関しては殊更奥手で、人生で初めて好きになった先輩への想いを伝えることがなかなか出来ず、
彼の家まで行って告白しようとしてバスに乗ったが、結局最寄りのバス停で降りることが出来ず、そのまま終点までバスに揺られた。
 その先輩とはそれから先もどうこうなることはなく、桃子は高校を卒業して小さな工場の事務員として働き始めた。
そこで出会った男に心から愛され、「君を幸せにする」ではなく「君と結婚したら俺が幸せになれる」という理由で押し切られ、結婚した。
 夫の潔は真面目で昔気質の弱きを助け強きを挫くタイプであったけれども正義感が強すぎたが故に子どもの頃からいじめっ子や贔屓するような教師が許せず、
真っ向からぶつかって行くタイプだったそうで、逆に目立ちすぎて色んな者から喧嘩を売られ、気づけばその地区一帯の一番の悪ガキとして有名になってしまった。
 成人してから煙草は吸うが酒は飲まず、麻雀やパチンコは好きだが女遊びや他のギャンブルはしない。
工場で働いている間は仕事に励み、高卒ではあるが物知りで甲種危険物取扱者の資格試験にも合格し、社長からの信頼も厚かった。
それでもその工場が閉鎖することになったので商業科を卒業していた桃子は簿記の資格を生かすために会計事務所で勤め始め、
潔は丁度その頃地元の知り合いの知り合いが参議院選挙に出馬するというので、顔の広さと博学なのを買われて私設秘書として働くこととなった。
 その仕事はやはりハードで、潔はストレスと多忙さで糖尿病を悪化させ入院するほどであった。
しかし、家では全く仕事の話はしなかったという。
 その後、議員が無事に当選してからは私設秘書の仕事を辞めたが、今度は友人が市議会の議員に出馬するというので
その秘書や相談役を務めることになり、友人が当選後は周辺地域の人々との顔つなぎや人々の悩みを聞き報告するというような活動をしていた。
 そんな彼は早めの50歳の時には仕事を一切辞め、55歳の時に肺癌で亡くなった。
桃子は65歳で仕事を辞める予定で、仕事を辞めたら夫婦で古都のお寺巡りをしようと夫と語り合っていた。
それなのに桃子が50歳にもなる前に潔は死んでしまったことを酷く残念がった。

「――愛されて結婚するのが幸せっていうのは本当よ。
 私はお父さんと結婚して幸せだった」

 父が亡くなった後、母は色んな思い出を語ってくれた。
最初で最後の恋の話から父との馴れ初めまで。
そして先程の言葉で締めた。

 一人っ子の私は父に愛された。
母は一度流産を経験したらしく、その4年後ようやく授かった子どもだったということもあり溺愛といっても良いほどに。
だから父の死後、尚更私の中の彼の思い出は良いものばかりだ。
 それでも彼女の話を聞いてから、私は高校生の母の見た景色が何故か頭に浮かぶようになった。
母が好きな人を想いながら無言で終点まで乗ったバスの窓から見た外の景色を。
 彼女が情景を語ったわけではないのに私にはその空が毒々しいほどの鮮やかな夕焼けだったように思えるのだ。
残酷なまでに美しいその空が、今でも母の胸と記憶に焼き付いて時々胸をちりちりと焦がす時もあるのではないかと。
 ――あの後、母はどうしたのだろうか。
終点まで行ってしまった母はどうやって帰ったのだろう。
バスで帰ったのか、それとも暗くなった道をとぼとぼと歩いて帰ったのか。
帰りのことを母は言わなかったが、私は歩いて帰ったのではないかと思っている。
臆病な自分を悔やみ泣きそうになりながら俯いて帰ったのか。
それとも涙を堪えるために天を仰いで帰ったのか。
もしくは告白しなくて良かったと安堵する気持ちもあったのかもしれない。
母のことだから「今日が駄目ならまた明日」と前向きな気持ちで帰途についたのかも。

 私はそんな青春時代の母を想うと涙が出そうになる。
恋い焦がれた相手を諦め、別の男に愛されて結婚し、一児を授かって幸せな家庭を築いた。
夫が病魔に侵されてからは仕事を辞めて看病に努め、入院した後彼が意識を失ってからも毎日訪れて話しかけ、
顔や手にマッサージを施し続けては反応があると花のような笑顔で喜んだ。
そして彼亡き後、彼女は夫の棺にかつて彼から貰ったというラブレターを一緒に入れて内容は永遠に二人だけの秘密にし、
20歳になった娘には夫と結婚して幸せだったと噛み締めるように言う。

 母は父に愛され愛し返した。それは素敵なことだ。
彼らのおかげで私は生まれたし、二人の子どもで私も幸せだ。
母が父を最期まで大切に想い愛したことは私も嬉しい。
 ――-しかしその想いは熱烈な恋ではなかった。
夢見がちな私は父に申し訳ないと思いつつ、自分の想像の中の景色と同じような夕焼けを見る度に
「心の底から恋しい人と結ばれたらもっと幸せだったのではないだろうか」とふと思ってしまうのだ。

 



 




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