昔を思い出した私は夕食後にトウノハマへ行くことにした。
そこからは海に沈んでいく夕日の全景が見えて非常に美しいのだ。
私は海で泳ぐことは好きではないが、トウノハマから見る夕日は好きだった。
 夏場に早めに食事を済ませ祖父が連れて行ってくれたのを思い出す。
時折、漁師が洗った網を干す為に岬一面に黒い網が敷き詰められていることもあり、その時は足を取られないように歩いていた。
網が干されている時はいっそう海の臭いがきつく感じられて舌打ちしていたような気もするが、
網干していない今は思った程潮の臭いを感じない。寧ろ懐かしさすら覚える。
苦手な臭いでも郷愁を誘う程度には親元を離れての大学生活が今の私の日常となっているのだろう。

 そんなことを考えながら岬へとやってきた私は岬の先端に立つ人影を見つけた。
先客がいるとは思っていなかったので咄嗟に引き返そうかと思ったが、
相手と目が合ってしまったのですぐに踵を返すのは戸惑われた。
仕方なく私は軽く頭を下げて形だけの挨拶をすると、相手も同じように会釈を返した。
散歩にしても少しは岬を歩かないと不自然な気がするので燈篭のあるところまで歩いて行くことにする。
 岬の先に立つ人は日に焼けていてTシャツからは逞しい腕が覗いていた。私と同年代くらいだろうか。
この町の人だとしたらもしかすると名前くらいは知っている人かもしれない。

「…もしかして、ゆきちゃん?」

 聞いたことのない声の方へ顔を向ける。
先程会釈を交わした彼は私を知っているらしいが私はすぐに思い出せなかった。
けれどある人物の可能性が浮かぶとそれは次第に確信へと変わっていく。
随分正反対の成長をしている為、かつての面影と一致するのが遅れてしまったが彼はもしかしたら、いや、きっと――!

「マキくん…?」
「うん、そうだよ。まだそんなふうに呼んでくれる人がおったなんてなぁ…。
 ホントに久しぶりやね、ゆきちゃん!」
「わぁ、ホントにマキくんやった!!」

 私は彼の方へに走り出していた。彼も笑顔で駆け寄ってくる。
子どもの頃、ここで待ち合わせをしていた時のように。

「思い出の中のマキくんとは随分違ってたから気づくの遅れたわ」
「あはは、そうやろ?昔はどちらかというとインドア派やったもんねぇ。
 今は水産大で端艇…カヌー部に入っとるんよ。やけ日焼けもしとるし筋肉もついとるやろ?」
「水産大やったんだね。カヌーって外国の川でやってるような沢山の人が一斉に漕ぐ長いやつ?」
「そうそう、あんなのをイメージしてくれたらいいよ」

 私もそうだが変わらず方言を交えた話し方をする彼に安心感を覚えた。
何年も会わなかったが共通の言語と思い出があるというだけで時間の流れを感じずに話すことができた。
 私たちは暫しわあわあと騒いだ後、近況を報告し合った。
私は中学まで地元の市立学校、高校は市外の県立高校に通い、現在は二つ隣の県の私大の経済学部に所属していて
テーブルゲーム同好会に入っていること、
年の初めに祖父が亡くなり初盆の為に今年は早めに帰省したこと、
突然会えなくなったマキくんのことがずっと心に残っていて
それからは色白の男の子とばかり付き合ってきたことなど、冗談を交えながら話した。
 最後のことに関してはマキくんは驚いた上で茶化して笑ってくれたけれど、
そのことをきっかけにして、あの日彼に何が起こったのか聞くことができた。

 私たちが一緒に泳いだ最後の日、マキくんは帰宅後シャワーも浴びずに母親から家を出て行くと告げられ、
勉強道具やほんの少しの衣類をまとめると母親に連れられて駅まで行き、そこから電車に乗って母親の実家へ向かったらしい。
そして今後はそこで暮らすのだと言われ、そのまま高校卒業まで暮らした。
祖母が独り暮らしをしていた為、母子は歓迎されて家を出て行く時に想像していたよりもずっと幸せに過ごせたようだ。
ただ規模は小さいながらも農家をしていたので時間があれば農作業を手伝っていた為にいつの間にか体育会系の身体つきになったそうだけれども。

「それでもどうして水産大にしたん?農業系の勉強はしようと思わんかったん?」
「うん、農業もいいなと思ったんやけど、進路を決める時に本当にやりたいことは何かって考えてたら
 ふっとここで見た夜光虫のことを思い出したんよ」

 私はおかしくなって笑った。
マキくんは外見は爽やかで健康的な青年になったけれど、中身は全然変わっていなかったのだから。

「マキくんは昔も今も夜光虫を追いかけとるんやね。
 変わってなくてなんか安心したわ」
「そうかな…自分としては結構変わったような気もしたけど、でもそうゆきちゃんに言われたら確かに変わってないかもしれんね。
 ゆきちゃんは全然変わっとらんね」
「そうやろ。私、全く変わってないもんね。
 昔からふらふらしてたけど今もふらふらしててさ、何がしたいのかよく分かんなくて漠然と経済学部選んじゃって。
 同好会は好きな時に行けばいいから気に入ってるんだけどさ」
「ゆきちゃんは器用やけ基本的に何でもできる人やったもんね。
 これっていうのに出会ったら強そうなんやけどな」
「そうなんよね、これっていうのにまだ出会っとらんのよ。大学時代が半分過ぎようとしとるのに…大丈夫やろか」
「大丈夫やって!ゆきちゃんはどこでも何でもやっていけるわ。
 ゆきちゃんの良さって器用さ以上に性格にあると思うんよ。
 正直で裏表ないしさっぱりしとるやん。それって大人になった今となっては凄く貴重やって思うわ」
「でもこの年になると流石に我儘って言われることもあるよ」
「勿論今後社会人になる上で社会性が必要なのは間違いないけど、結局は人と接するやん?
 その時にこの人は信用できるかどうかって顔見たら何となく分かるんよ。
 ゆきちゃんは嘘は吐かんしできんもんはできん、って言えるやろ。
 そういうのって人と接する上では大事なことやと思うわ。
 第一、ゆきちゃんを我儘って言う人がいてもゆきちゃんのこと激しく嫌ったり憎んだりする人っておらんくない?
 なんかね、ゆきちゃんって愛されオーラが出てるっていうか、
 “ああ、この子は大切に愛されて真っ直ぐ育ってきたんやな”って感じるんよ。
 そういうところが憎めんしちょっとの我儘くらい許してしまおうってなるんよね」
「ええー私にそんなオーラある?言われたことないわ、そんなの。
 でも、マキくんがそう言うとそうなのかなって思えてくるわ、不思議」
「本当やって、自信持ちよ。…俺、ゆきちゃんの無邪気な笑顔が好きやったんよ。
 ”あ、今度はあれやりたーい!”って泥団子押し付けて走っていく直前の笑顔がな」
「なんかそれ、あんまりいい思い出に思えんなぁ。どうみても我儘っ子の記憶やん」

 私はマキくんの一人称が俺だったことに少しだけ驚いていた。
子どもの頃の彼は自分のことを何と言っていたっけ?
 ――ぼく?おれ? 駄目だ、思い出せない。
マキくんはあまり自分のことを話さなかったのだろうか?
自分の気持ちを私のように表に出さなかったのかもしれない。
なんだかんだで当時のイメージでは僕が合いそうだけれど、現在の彼なら俺でもおかしくはないか、と思い至る。

「そういえば、いつまでここにおるん?宿とかは?」
「いや、ここへは偶然立ち寄っただけなんよ。
 電車に乗っててこの辺の景色を見た時にふと子どもの頃を思い出して、ふらふらとここまでね。
 やけもうそろそろ行かんと。夜には向こうに戻りたいけ」
「…そうなんか。残念。
 今日は化粧もしとらんし服も適当やしさ、折角ならバチっとめかし込んだ私を見てもらいたかったんにな。
 そしたら私って分からんかったかもよ?」
「えーそんなに変わるん?ゆきちゃんは素顔でも十分綺麗やん。
 あんまりごちゃごちゃしとるのは見たくないわ」
「あ、心配せんで。そこまでごちゃごちゃせんから。睫毛に何かつけたりアクセサリーとかも苦手やし」
「それやったらなんか想像つくわ。きっと綺麗なお姉さんなんやろうな」
「ふっふっふ、期待しても良いぞよ」

 私の言葉にマキくんが噴き出すと、それが合図のように私たちはお腹を抱えて笑った。
帰省してからほぼ家に引き籠って過ごしていた私は久しぶりに声を出して笑った。
あまりに久しぶりに笑ったので頬や腹筋が痛くなり、地面に座り込んで体を反らし深呼吸する。
その時漸く私は背後にある海岸の形が変わっていることに気が付いた。
 コンクリートの港がぐっと海に迫り出しており、家からでも比較的大きく見える火力発電所の煙突が更に大きく見える。
私たちの中身や関係性は年月が経っても変わらないのに、私たちを取り巻く環境は変わっていく。
大切な思い出という名のキューブの角がほろほろと崩れていくような気がした。
当時と完全に同じ形のまま思い出という宝物を持ち続けるのは難しいことなのだろう。
それでも中心さえしっかりしていれば全て消えてしまうことはないはずだ。

「ねえマキくん、連絡先聞いてもいい?」
「…実は昨日、携帯を壊して今持っとらんのよ。使ってた番号も覚えとらんし」
「そうなんだ、ついてないね。携帯ないと何かと不便やろ。
 …じゃあ、私の一応教えといていい?
 覚えてて気が向いた時でいいから連絡してよ。またいつかゆっくり会いたいもん」
「うん、絶対覚えて帰るわ。新しい携帯になったら連絡するけ」

 そう言い、マキくんは私の言った番号を何度も暗唱していた。
メールアドレスは携帯の番号に携帯会社のドメインを追加しただけだから実質電話番号だけ覚えればいい。
そう伝えるとゆきちゃんっぽいなぁと彼は笑っていた。
彼の言葉が真実なら、きっといつか連絡が来るだろう。
私はそれを信じる。信じるしかないのだ。
これは別に初恋の再燃とかではなく、純粋にこれからも彼と付き合っていきたいと思ったから。

「今日はゆきちゃんに会えて本当に良かったわ」
「私もよ。びっくりの再会やったもんね。また会おうや」
「うん」

 久しぶりの再会は10分程度ではあったが充実した時間だった。
目的の夕日は添え物になってしまったけれど、マキくんを照らすピンクがかったオレンジ色はとても綺麗だった。
私は完全に日が落ちるまでトウノハマにいた。
途中で海の傍を走り抜けていった鈍行列車か特急列車にマキくんは乗っているのだろう、と想いを馳せながら。




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