夜光虫の消えた海



 7月31日は御祓いの日。この町では御祓いの日に海で泳ぐと悪いものが祓われ1年間風邪を引かないと言う。
そしてこの日だけは親から「オンバライに行ってきなさい」と暗い夜の海に送り出される。
 本来7月31日は神社で夏越祭が執り行われる日だ。
夏越祭とは夏の暑い時期を無病息災に過ごせるように願う神事である。
その際に汐汲みをして身を清め、竹筒に汐を入れて参拝するのが古来からの習わしらしい。
恐らく汐汲みで身を清めるということが単体で意味を持つようになり、“オンバライ”となったのだろう。
けれども子どもたちは誰もがそんな由来を知らずに普段行かない夜の海に行くことを楽しみにしていた。
私を除いて、ではあるが。

「今でも御祓いってやっとるん?」
「流石にもうやってないわ。あんたたちの時代が最後やなかった?
 あんたも海で泳ぐの嫌がって御祓い以外はプールに行ってたやないの。最近の子どもはもっと嫌やろ。
 それにずっと工事してた発電所があんたが大学入ってすぐの頃に完成したんやけど、
 それで岸辺の形も変わったし潮の流れも変わったから海で泳ぐのは危ないって暗黙の了解になってるんよ。
 夏越祭はずっと行われてるけどね。折角だから明日、行ってみたら?」
「興味ないわ」

 祖父の初盆の為に夏休みになってすぐ大学の下宿先から帰省し暇を持て余していた私は、
暇つぶしとおやつ購入目的でコンビニエンスストアへ行く道中、夏越祭のポスターを見つけたのだった。
 そして母親から夏越祭の由来を聞き、漸く御祓いの裏側で行われていた祭りの存在を知った。
上記の夏越祭の情報は全てポスターと母親から得たものだ。
夏越祭という単語を二十歳を過ぎて知ることになったのは恥ずかしいことかもしれないが、
これまで全く神仏に興味がなかったものだから仕方がないと開き直っている。
特に祖父の葬儀の際に有り難い話でもしてくれるかと思っていた坊主が
突然童謡を高らかに歌い出したことに腹が立った私は仏は絶対信じないと決めていた。
憎いのは人の葬儀を自分の歌のお披露目会のようにしてしまったあの坊主だけれど、
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというわけで仏様まで憎らしいのだ。
 その祖父は優しく働き者で、家族に「おじいちゃん!おじいちゃん!」と惜しまれて亡くなった。二度目の脳梗塞が原因だった。
それまで身近な人を失ったことがなかった私にはショックが大きく、夜に突然涙が出て止まらなくなる日が続いたりもした。
祖父は昔から誰よりも私の味方だったのだ。
胸がもやもやするような出来事があると決まって部屋の隅で背中を丸めていた私を一番最初に見つけてくれるのも祖父だった。
そして皆には秘密だと言って飴を一つくれた。「魔法の飴やけな、誰にも言ったらいけん」と言って。
その飴の美味しかったこと。
 黄金に輝く宝石のような飴は十分に甘いのにしつこくはなく、
勿体ぶって味わうように舌の上で転がすとほんのりほろ苦いような感覚がした。
その飴が溶けてなくなってしまう頃には不安なことや怖いことなど忘れてしまっていた。
 そんな魔法の飴の存在を思い出した私は祖父亡き後、最寄りのスーパーで飴を購入して涙が溢れる夜に一つ口に入れてみた。
すると祖父との思い出が溢れ返っていっそう涙が零れたものの、暫くするとすっきりとした気持ちになれた。
祖父は私をとても大切に想い愛してくれていたことを思い出したのだ。
ありきたりな言葉ではあるが、祖父は私の中で確かに存在しているのを感じた。
祖父がくれた温かな時間や思い出、優しさを私はずっと胸に抱いて生きていこうと思った。
 それから私は祖父に対する悲しみの涙は流さなくなった。
黄金の飴は私にとっては本当に魔法の飴だったのである。

 そんな魔法の飴でも取り除けなかった不安があったのを私はふと思い出す。
祖父、魔法の飴、7月31日の御祓い、と連想ゲームのように浮かんだのは夜の海を泳ぐある人の面影。
あれは10歳の時だった――

「オンバライとか好かんわ。夜の海とか気味悪いし潮の臭いも嫌やもん」
「近所の子たちが皆行くのにあんただけ行かんわけにはいかんでしょ」

 私は子どもの頃から川の横に住んでいて満潮時の川を見てきたので普段どんなに綺麗に見えても海に入りたいとは思えなかった。
灰色の泡の塊が川面を埋め尽くし岸辺に向かって皺ができるように泡が溜まるし、
誰かが捨てたのであろう空き缶や発泡スチロールなどのゴミまで巻き込む川は汚いことこの上なかった。
だから海も体積が大きくなり汚れの濃度は下がるとはいえ汚いものは汚いのだとどこかで思っていた。
 それに満潮という自然の変化が恐ろしかった。
それまで立っていたところに徐々に水が差し迫って来ていずれ水嵩が自分の背程までになるのだ。
満ち潮に気づかず磯で遊び続けそのまま逃げ遅れでもしたら呑み込まれてしまう、と想像し私はひっそりと恐怖していた。
満ちる海は私にとっては不気味で汚い化け物のような存在だった。

「ほら、お風呂沸かしといてやるけ行ってらっしゃい」
「…はぁい」

 外に出ると月が出ていた。思ったより暗く感じなかったのは満月のせいらしい。
今年は満月が暗い海を照らしてくれるので心強い気がした。
 泳げるようになってからは毎年恒例になってしまったオンバライへ10歳の私は向かう。
川に沿って少し歩いた先にある燈篭の立つ岬の浜辺、通称“トウノハマ”へ。
 燈篭に火が燈り薄ぼんやりと辺りの景色や人影が浮かび上がっている。
近所の子どもたちとその保護者や区長らしき大人が数人集まっていた。
燈篭以外の人工的な光源は大人の持つ懐中電灯のみだ。
満月の下とはいえ夜の海はやはり暗く、生臭いような臭いが鼻先を掠める。

「ゆきちゃんやー、こんばんは。遅かったやん」
「マキくん、こんばんは。
 この前皆でプール行った時は風邪引いてるって言ってたけど大丈夫なん?」
「もう平気。夏に風邪引くって最悪やね、しんどかったわ」
「そうやろうね、暑い時に熱出すとかつらそう」

 保育園の頃から仲の良いマキくんは虫と泥団子作りと本が好きな少年だった。
身体を動かすよりも一つのことに夢中になってそれをひたすら追い求めて極めるタイプだ。
 一方、自分で言うのも何だが私は万遍なく何でもできる子どもだった。
人がしていることで面白そうだと思ったことは躊躇なくその輪に飛び込み、
一定の成果を上げて満足するとまた別のことを始める、といった具合に。
つまりはミーハーなのだ。熱しやすく冷めやすい、飽きっぽいタイプとも言える。
 なまじっかあれこれこなす程度に理解力もあれば応用力もあったので器用貧乏でもあった。
その割には満ち潮を怖がる臆病者ではあったのだけれど、対人に関しては怖いものなどなかった。
家族に愛され大切に育った為に“私を拒否する人がいる筈がない”と当時の私は思いこんでいたのだろう。
ああ、無知のなんと恐ろしきことたるやと今の私は思う。
 そんな私ではあったが、マキくんとは何故か気が合った。
気が合ったというか彼が合わせてくれていた、と言った方が正しいのかもしれない。
私がすぐに飽きてマキくんにしては完成度8割程度の泥団子を預けても嫌な顔せず受け取りその後ピカピカに仕上げてくれたり、
私が捕まえたバッタを最後まで飼育してくれその上観察日記までつけて経過を見せてくれたり、おすすめの本を教えてくれたり。
 それらのことから明白ではあるが、マキくんは優しい子だった。
私のやりたいこと(運動系は除く)に文句も言わず付き合ってくれるマキくんが私は好きだったし、彼の選んでくれる本も好きだった。
尚且つ向こうからも積極的に関わって来てくれたことも嬉しかった。
これが一方的なものだったら私が振り回していただけの関係になってしまうが、
そうではなかったことから彼も私に対して親愛の情を抱いてくれていたのだろうということは自負している。

「そう言えば、皆もう準備体操終わったけどゆきちゃんも早くした方がいいんやない?もうすぐ入るって」
「じゃあ準備してくる」

 すぐに脱げるように被るだけのワンピースを着て来た私は燈篭の傍にタオルの入ったバッグを置き、服を脱いでその上に置いた。
水着は既に着ている。帰りもタオルである程度拭いたらそのままワンピースを着て帰るつもりだ。
どうせ帰ったら風呂に入るし洋服も水着も洗濯機行きだ。
濡れていようが汚れていようが関係あるまい、そう思いながら私は形だけの準備体操をする。大人たちが煩いもので。

「つめたー」
「わー」

 先に海に入った子どもたちが声を上げていた。
夏の海だけれど風呂よりも水温は勿論低いわけで、海に入る瞬間は覚悟がいる。
 私を待ってくれていたマキくんもゆっくりと足を波に伸ばした。
仕方なく私もすり足で波打ち際に立つ。

「ゆきちゃん、海嫌いなん?」

 海に入りたくなさそうにしていた私に気づいたマキくんが戻ってきた。
足首まで浸かった私はその場から動かず水面を足でかき回す。

「嫌い。臭いし汚いし、満ちた海って怖いやん」
「満ちた海?何で?」
「だってそれまで水がなかった場所なのに満ち潮の時は私くらいの身長まで水がくるやん。
 逃げ遅れたら溺れて死んでしまうやろ」
「そんなにすぐ満ちたりせんよ」
「それでも怖いの」
「泳げても?ゆきちゃん、プールではいっぱい泳げるよね」
「普段と逆向きに流れる海とか上手く泳げる気がせんわ。それに泡やらゴミやら押し迫ってくる中で泳ぎたくないもん」
「ゆきちゃんがそんなに怖がりとは思わんかったわ。
 じゃあ早くオンバライ済まさんとね。今日はあと2時間せんうちに満ち潮になるけ」
「うそ!」

 私はぞっとして一歩下がってしまった。
嫌だ嫌だと海に入るのを躊躇していてはいずれ海の方からやって来て呑まれてしまう。

「ほんとほんと。家出る前にテレビで見てきたもん。
 今日は日の入りが19時17分で、満潮は21時36分って」
「それなら早く泳がんと」
「そうやね。ほら、行こ」

 マキくんの差し出した手を私は見つめる。
普段は私が引っ張っている手が今日は私へと向けられているのは些か面白くない気もするけれど、
迎えに来てもらえることは悪くない気もしていた。
そう「私と踊っていただけませんか?」と王子様が誘いに来た時のシンデレラのような気持ちだ。

「今日は満月やけいつもより明るいよ」
「それでも海の中は真っ暗の真っ黒けやん」
「そんなことないよ。見て、ゆきちゃん!」

 彼はそう言うとずっと先の方まで泳いで行っている子どもたちの方を指差した。
すると海が青白く光っている。

「夜光虫やったっけ?」
「そう!」

 一昨年マキくんから教わったプランクトンの名前だ。
オンバライの時期に偶に見れる不思議な現象で、水の中で手をかくとその周りが蛍光色に揺らめき、波紋と共に広がって薄くなっていく。
そして泳いでいるうちに全身が青白い光に包まれる。
 遠目から見る分には幻想的ではあるが、実際にその中を泳ぐとなると不気味だ。
夜光虫という生物から何やら汁のようなものが出ているのではないかと不安になり、それを纏いながら泳ぐのは気持ちが悪かった。
とはいえ、夜光虫の光を見て高揚しているマキくんにはそんなことは言えなかったけれど。

「凄いなぁ、ほんとに。
 海の中に星雲があるみたいやね」

 子どもたちが起こす波によってあちらこちらにちらつく青い炎のような光をマキくんは嬉しそうに見ていた。
そして顔を上げたままの平泳ぎでどんどん浜から遠ざかっていく。
私は急に心細くなって彼に続いた。
 スイミングスクールに通い始めて4年程経つのでプールで泳ぐことは得意な私だけれど、海においては初心者同然だった。
波で思うように進めないし、気持ち悪い蛍光色をした水に顔なんてつけたくないのに水しぶきが飛び跳ねてくるので泳ぎに集中できない。

「ゆきちゃん、こっちこっち!」

 必死に泳ぐ私に向かってマキくんが手招きする。彼は海の中に立っている鉄塔の台座に上っていた。
海の水嵩が増えている状態だと丁度台座の部分に腰かけられるのだ。
 浜からこの鉄塔まで泳いで引き返すのがオンバライの決まりごとである。
ちなみに引き潮の時は陸地までも見えるので四本の柱のような台座が丸見えとなる。
 私はこの鉄塔の台座も嫌いだった。
コンクリートに貝がびっしりとついていて見るからに気持ちが悪いのだ。
棘のようにも見えるその貝まみれの柱はむやみに近づくと怪我をしてしまいそうなくらいだ。
昼間にも海に遊びに来る他の子どもたちはこの台座から海に飛び込んで遊んだりもするらしい。
オンバライの日しか来ようとは思わない私はその時ばかりは遊びの誘いを遠慮する。

「マキくん、早過ぎやし」
「あぁ、ごめんな。早く海も空も見たかったけ気が急いたんよ」

 私は貝を触らないようにして腕の力で体を持ち上げ台座に上った。
他の柱にも先客がいて、先程見たテレビの話や明日の予定について話しているようだ。

「ゆきちゃん、見て」

 そう言うとマキくんは台座の側面についていた貝を摘み、水面へと投げ入れた。
目の前に夜光虫の発する光の波紋が広がる。
 彼はすかさず二つ目、三つ目の貝を投げ込んでいった。
私たちの足元に幻想的な青白い花が咲いていく。それはどこか儚げで悲しげだ。
刺激を与えられた夜光虫が慌てふためき逃げ惑いながら目眩ましの為に放つ光のように見えるからかもしれない。

「綺麗やね」
「うん、綺麗やけど…ちょっと可哀想やない?」
「可哀想?何で?」
「夜光虫はびっくりしてるんやない?もしかしたら衝撃で死んだりしてるのもいるかも」
「そっかぁ、そんなこと考えたことなかったわ。ゆきちゃんは優しいんやね」
「そういうわけやないけどさ、何となく思い浮かんだだけ」
「じゃあ、もうやめとこ。夜光虫が光らんでも今日は空が綺麗やもんね」
「そうやね」

 私は膝を抱えて空を見上げた。
空は雲一つなく満月が静かに佇み、普段よりも辺りの景色を浮かび上がらせている。
満月の周りの空間は一際明るく見えてその周囲の星は月の光に負けて存在を薄めているようだ。 

「明日も晴れるやろうね」
「そうやね。マキくんは今年も晴れの日は虫捕りしてるん?」
「うん、セミ捕り楽しいもん」
「他は何するん?」
「昼間は読書感想文用の本を読むよ」
「そう言えば私もまだ読んでないや。感想文は原稿用紙5枚以上やったっけ?」
「そうそう」

 暫くそんな話をしていたら他の台座に座っていた子どもたちの姿がなくなっていた。
恐らく浜へ向かったのだろう。
私たちも完全に潮が満ちる前に浜へと戻ることにする。

「ゆきちゃん、感想文書いたら提出前に読ませてよ。
 去年は佳作やったやろ」
「それはいいけど。去年のも大した文章書いたつもりなかったけどな。
 偶然、審査員の先生らの好みにぴったりやったんと違う?」
「そんな偶然とかあるはずないやんか。実力やって」

 そう言ってマキくんは台座から海に飛び込んだ。
すると彼の周りに青白い波が立つ。
 空からの光と夜光虫の光でぼんやりと白く照らされた彼の顔は笑っていた。
暗がりに浮かび上がった彼は一見薄気味悪そうな青白い色をしていたけれど、その時ばかりは少しも気味悪いとは思わなかった。
私の心が明るく彼を照らしていたからかもしれない。

「まぁ、今回はどうなるか分からんけどね。
 マキくんのも見せてよね」
「うん、いいよ」

 彼の真似をして飛び込んでみる。
私の周りにも夜光虫の魂のような青い炎が揺らめいた。
その後、他愛もない約束に少し心が軽くなった私は身体も軽くなり行きよりもずっと早く復路を泳いだのだった。


 ――その後、その約束が果たされることはなかった。
オンバライの翌日、マキくんと彼の母親が姿を消した。
大人たちの噂では身内で営んでいた工場の資金が回らなくなり父親が自己破産した為、オンバライの日の夜遅くに出て行ったらしい。
 その話を聞いた時、私は夜光虫の光で浮かび上がったマキくんの青白い笑顔を思い浮かべた。
何も知らない彼はよく分からない状態で手を引かれ家を離れることになったのだろうか。
今日は朝からセミ捕りをする予定だったが、使われる筈だった虫取り網やカゴなどは倉庫に置いたままかもしれない。
昨日捕まえた虫は逃がしてもらえたのだろうか?
事後処理に忙しいであろう父親が世話をしている姿は想像し難い。
もしかすると抜け殻となってしまったマキくん宅にある大きめの虫カゴには今頃虫の死骸が折り重なっているかもしれない。
 そんなことを想像するとぞっとして気分が悪くなった。
読む筈の本を開く気にもなれず、私は部屋の隅のカーテンの裾に身体を隠してひとり泣いた。
マキくんにはもう二度と会えないのだ。しかもどこかで不幸な目に遭っているかもしれない。
そう思うと酷く胸が痛み、満潮を怖がる時よりもずっと恐ろしい気持ちで心が支配された。
 優しく私のことを笑って受け止めてくれるような子が、夜光虫の光に夢中になるような彼が、
帰宅と同時に悲しい事実を伝えられて生まれ育った町から出て行くと知った時、どんな表情をしたのだろう。
両親の為に素直に頷いたのか、それとも行きたくないとごねたのか。
私にはその時の彼の様子も彼の気持ちも知ることができないのだ。もう、決して。

 この時ばかりは魔法の飴でも心の痛みは消えなかった。
今でも当時のことを振り返ると胸の奥が凍えるような思いがする。
 マキくんとの突然の別れは私の心に大きな穴を開けたようだ。
あれから私は色白の手足のひょろりと伸びた男しか愛することができない。
私はあの日からマキくんの面影に憑かれてしまったのだ。




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