「あれ、真田は来てないの?」

日曜日、俺が待ち合わせの電車の車両に乗り込むと、そこには香川しか乗っていなかった。

「うん。【今日はやめとく】ってメールが来た。本人が行く気がないなら仕方ないよね。 2人で楽しみましょ」

そう言う香川は濃いピンクのニットカーディガンと白のキャミソール、濃紺のデニムスカート姿で、
赤い縁取りのあるデニム生地のミュールが良く似合っていた。
一見可愛らしく見える服装なのだが、大人っぽい彼女が着ると落ち着いてそれらしく見えてしまうのは俺だけだろうか。
そんな俺たちは博物館前の駅で降りた。
この辺は開発化が進められている地域で、駅の周辺に大概の施設が建っていた。
今から行く博物館と美術館は5分程歩くと見えてくる場所にある。


 「うわぁ、綺麗ね」

声のボリュームを下げて香川は感嘆する。
俺たちは美術館の2階にいた。香川が「上の階から作品を見ながら降りていこう」と言ったので賛成したのだ。

「これ、何か静けさが伝わってこない?俺、鳥肌が立ってきた」
「私も私も。凄いよね、私もこんな絵が描けたらなぁ」
「香川さん、絵、上手いじゃない」

事実、香川の絵は上手かった。特に静物画。
俺と彼女は美術の授業を選択しているのだ。したがって2年の時から何度も彼女の絵を見ていた。
本当に高校で初めて油絵を習ったのかと思う程、彼女の絵には油絵独特の躍動感と迫力があった。
彼女の感性の鋭さと多彩な才能を知ったのは、そんな彼女の絵を初めて見た時だ。
それまでは彼女のことを軽くて煩い女子と同類に見ていたが、それ以来、彼女が真剣に絵を描いている後姿が何だか神々しく見えた。

「絵を描くのが好きだから褒められると照れちゃうなぁ」

そう言うと香川ははにかむ。

「でもさ、絵でも小説でも、詩でも音楽でも、何でもいいから人の心を動かすような、
 温かくできるような、そんな物を創造したいなっていつも考えてはいるの。だけどやっぱり難しいよね」

微笑むと彼女は違う絵に目を移す。

「俺は香川さんの存在に感動してるんだ」

と小さい声で、何度も見てきた彼女の後姿に向かって呟いた。



 美術館を堪能した俺たちは、隣にある博物館へと向かう。
博物館は世界各地の遺跡からの出土品が展示されていた。
香川は俺に向かって笑顔を見せて、小澤くん、これ知ってる?と興味津々に尋ねる。
俺は頭にある記憶を振り絞り説明した。以前、テレビで見たり本で読んだりしていたものだったのだ。
香川は一応、俺の説明で理解できたようだ。
特に、南アメリカ大陸で出土された翡翠の原石の塊が気に入ったらしい。

「こんなに大きい石をさ、どうやって小さく砕いて、あんな加工を施して、綺麗な装飾品にしたんだろう」

そう言う香川は子どものように無邪気に目を輝かせていた。
そうして散々あちらこちらを歩き回り、少し足にダルさを感じながら出口に向かうと、
出口のすぐ側に小さな翡翠の指輪を売っている店があった。

「今日のチケットのお礼」

俺は急いで買ってきた指輪を香川に渡すと、想像通りやはり彼女は断った。しかも物凄い勢いで。

「いやいや悪いよ!だって私が誘ったんだもん!!」
「別に気にしないでよ。俺の勝手な気まぐれだから」
「え、でもさぁ…」

このようなやり取りを2分近くして、やっと香川は厚意を受け入れてくれた。

「ごめんね、買わせちゃって」

そう言いながらも、博物館の外に出た彼女は嬉しそうに袋に入った翡翠の指輪を空に掲げている。
しかし突然足を止めた。向かいの図書館から出てきた2人組を呆然と眺めている。
その2人組は男と女、だった。
俺は男の方を知っていた。同じ学校の同級生で、俺たちのクラスと体育が合同なので何度か話したことはあったと思う。
確か、香川と同じ中学出身だった筈だ。
その男が俺たちを見つけて、一緒にいる女にちょっと謝るようにしてから香川の方にやって来た。
香川も俺に断りを言って男の方に少し歩み寄る。
そうして男が彼女に何かを話すと、彼女の明るい声が聞こえてきた。

「よかったね、おめでとう」

確かにそう言っていた。そして2人で俺の方をちらっと見ると、香川は男の肩をパシっと軽く叩く。
男は手を振って香川に背を向け、待たせていた女のもとへと走って戻って行った。
香川は2人が立ち去るのを見守ると、綱の上でも歩いているかのようにゆっくり歩いて戻ってきた。
その目にはかつて俺が見た涙が溢れていた。

「どうしたの?」

そう言って俺は香川に駆け寄る。
彼女はゴシゴシと、目の辺りを擦って悲しそうな目をしながら少し笑った。

「つい3日前に彼女が出来たんだって、あいつ。凄く幸せそうだった…」

それを見て俺はわかってしまった。

「好きな人ってあの人だったの?」

そう言うと彼女は小さく頷き、後ろを向いた。

「中学の頃からずっと好きだったのにね。全然気づいてくれなかったな」

香川は空を見上げていた。そして

「かなり鈍感だよね」

と言いながらクルッと飛び跳ねて振り返る。
俺はそんな強がる彼女を見ていれらなかった。

「しかもさ、あいつ
――
「もうやめなよ、強がるの」

そう言うと香川の表情が止まった。
俺は構わず話し続ける。

「凄く好きだったんだろ?何時も話してたじゃない。 ずっとずっと好きだったんだろ、悲しいに決まってるよ。
 悲しい時くらい、強がるのやめて泣きなよ。 香川さんが泣いたって、誰も笑ったり叱ったりしないから。
 香川さんの気の済むまで俺、一緒にいるから。 俺の前くらい、弱い自分出しなよ」

言っていて自分も泣きそうになってきた。
静かに空を見つめる大人っぽい香川、友達の前では無邪気で明るい香川、
好きな人の話をする時はとても可愛らしく奥手な香川、強がって涙を隠そうとする香川
――俺はそんな彼女が好きだ。
そして、今俺の腕にしがみ付いて赤ん坊のように泣き叫ぶ香川も。

「馬鹿だな、俺」

そう心の中で呟いた。俺だって香川と同じ境遇なのだ。
約1年間ではあるが、俺は彼女を想ってきた。
今日、彼女の好きな人を知って、それが自分ではなかった時点で俺は失恋だ。
確かに彼女より衝撃的ではなかったけれども。
しかし彼には現在彼女がいて、彼女も失恋した。
こんなに悲しい2人組が他にこの世界のどこにいるだろうか。
神様も酷である。突然こんな学校以外の場所で香川たちを会わせなくてもいいのに。しかも俺のいる前で。


 「泣き疲れちゃった。どこかで座って何か飲まない?」

暫く泣いた後、目は赤かったが大人の顔で香川が言った。
駅に小さな店があったことを思い出して俺たちは歩く。
お互い無言だった。しかし、沈黙が言葉よりも有効な時もある。
俺にできる唯一のことは黙って彼女の傍にいることだけだった。

「アイスプレートください」

香川はウエイトレスに丁寧に言う。
俺はアメリカンコーヒーを頼んだ。勿論冷たい方である。

「パフェじゃないの?」

女の子=パフェと思い込んでいる俺は彼女にそう言うと、彼女は顔を近づけてコソッと

「ここのパフェ、あんまり好きじゃないの」

と言って微笑んだ。
注文したものが来るまでの間、彼女は俺がプレゼントした指輪を眺めていた。

「小澤くんは、いい人ね」

はっきりと、そしてゆっくりと言う。
俺はどう返せばいいのか分からずに、彼女を見つめ返すしかなかった。

「あの人、私との約束だけはいつも忘れてたの。
 “今年は誕生日プレゼントやるよって、絶対忘れないから”って約束してたのに案の定忘れてたわ。
 その前のクリスマスも。…どうして他の女友達のは覚えてるのに、私のは覚えててくれなかったのかな。
 やっぱり女と思われてなかったんだろうね。何だか私ばっかり沢山プレゼントして、勿体無いことしちゃったな」

そう言って彼女は再び笑う。

「それにしても
――

言いかけて香川の目に涙が滲んだ。それを振り落とすかのように彼女は頭を軽く左右に振る。
柔らかそうな彼女の髪の毛がふわふわと揺れた。

「ホントに幸せそうだったな。あまりにも彼が幸せそうに笑うから、
 あの人が幸せならそれていいやって気持ちになってきちゃった。不思議なことだけれど」
「いい人なのは香川さんだよ」

ううん、と言って彼女は首を横に振る。

「私、あの人の優しい目が好きだったの。今日は本当に優しかったわ。
 彼女のお陰よね。私だったら彼をそんな風にできなかった。彼女にしかできないことなのよね。
 もしかしたら彼女といる時のあの人が私の理想なのかもしれない。
 だから私、幸せになってほしいって思えるのかな。
 でもね、あの人ったら小澤くんを私の彼氏だと思ったらしくて、“お互い頑張ろう”だってさ。
 
――馬鹿よね」

彼女が言い終わると、丁度コーヒーとアイスプレートが運ばれてきた。
香川は嬉しそうにスプーンを手に取り、皿に乗った数種類のアイスを少しずつ食べていく。
この砂糖まみれのデザートは彼女の塩辛くなった心の傷よりも勝だろうか。
ヒリヒリと痛む彼女の傷を覆ってくれるだろうか。
料理では塩を砂糖より先に入れると、少しの塩に対してかなりの量の砂糖を入れなければならないらしい。
彼女の心の傷が料理の『さしすせそ』順でないことを祈った。


 まだ夏休みも始まっていなかった。
高校3年生の正念場、夏。
――そんな切迫し、荒涼とした時間の中で俺たちは実に人間的な障害にぶつかってしまった。
それを香川の方が俺よりも先に乗り越えてしまいそうである。
俺はどうすればいいのだろう。
彼女の後についてその壁を乗り越えようか、それとも諦めて座り込むか、または正面から壁をぶち壊すのもいいかもしれない。

電車は間もなく駅に着く。ガラガラの車内は冷房が効き過ぎていて肌寒かった。
香川は目の前の海を眺めている。俺も海に目をやった。広かった。
車内まで海の音が聞こえる筈もなく、俺にはただ広くて静かな海に見えた。
彼女の目に映る海はどんな海だろう。
ふらふらと悲しそうに飛んでいるカモメが自分の心のようで哀れに思えた。

「今日はありがとう」

駅に着く前に、香川が笑顔で言う。

「何もしてないけど」

そう言うと、彼女は芸能人の婚約発表の時のように左手を顔を近くに持っていって、中指の指輪を見せる。
小さな翡翠がひっそりと車内の光を反射していた。

「気にしないでよ」

そう言って開いたドアから俺は出て行く。
後ろを振り返ると彼女がずっと手を振っていた。

「…何もしてあげられなかったけど」

と俺は心の中で呟いた。

――いや、そうじゃない。

「何もできなかった、だな
――






−つづく−

なかなか古めかしい青春チックな内容になってきましたでしょうか。
長々と文字が羅列していてすみません〜。

もっと要点をまとめられたらいいのですが(;´▽`A``



さて、お互いに失恋した2人はどうなっていくのか…。
相変わらず登場人物が少ないですが…どうぞ次回をお楽しみに…^^;


それでは、ここまで読んでくださってありがとうございました!

吉永裕 (2006.7.1)
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