彼女の場合 第八話
自転車置き場で自分の自転車を確認して二種類の鍵を解除する。
太くて赤いフレームに籠が大きい自転車で使いやすそうだ。
早速籠の中に重たくなったバッグを入れる。
「お待たせ」
「コンビニは少し行った先を左に曲がったところにあったよ。
奏お姉ちゃんは大学前のコンビニにも行ってたみたいだけど」
「じゃあ、両方行ってみようか。
まずは近い方に行って、帰りに大学前に行こう」
三人分揃ったので、今度は自転車で移動する。
響士に先導され、私と初音がついて行った先に目的のコンビニがあった。
広い道に面しているが私は初めて通る道で、向こうの世界でここに立ち寄ったことはない。
店内には私たちのように授業に出る前に寄ったと思われる同年代の男女が数人いた。
大学前にあるコンビニよりも面積が狭いようだが、周りにアパートが多いので時間を問わず客も多そうだ。
とりあえず皆で分け合えるような個別包装されたチョコレートやガムを探し、
世間話のように何味が好きかなど聞いて購入するものを決めた。
奏が冷蔵庫に入れていたカップケーキも一応チェックしてみる。
確かにこのコンビニで購入したもののようだ。コンビニのオリジナルブランドのマークがついている。
私が節約の為に自分一人の時はお菓子を買わないようにしているのもあって理解が及ばないのだが、
彼女はいつもデザートを買いに来ていたのだろうか?安いものではないのに。
それとも昨日の分は自分へのご褒美とか気分を上げる為だとか何か理由があったのだろうか。
昨日は彼女にとっては良くも悪くもストレスのかかる日だった筈だ。
響士の告白を受けるにしても拒否するにしても緊張することになっただろうし、
その前に清亮に会おうとしていたのは奏自身だ。何か余程の用事があったのだと思う。
だとしたらご褒美というよりもお疲れ様という意味で購入していたのかもしれない。
「いらっしゃいませ」
綺麗なオリーブ色をした髪の青年が笑顔を向けた。少したれ目ではあるが、響士に負けず劣らず爽やかだ。
同年代のようなので同じ大学に通っている人かもしれない。
「その服、初めて見ますね。いつもと雰囲気違いますけど似合ってますよ」
「えっ…ど、どうも」
随分と気さくな人らしくバーコードを読み取りながらさらりと話しかけてくる。
格好良い人に話しかけられ尚且つ褒められたので気分は悪くはないが、無意識にいつもの悪い癖を発動していた私は少し驚いてしまった。
私が無意識に見ていたのは彼の指。袋に商品を詰める彼の左手の薬指には何もない。
勿論、アルバイト中なのでアクセサリーは禁止ではあろうが、結婚指輪だったら許可しているところも多い。
ジッカラートは男女ともに18歳が成人であり社会人に限り親の許可がなくても結婚できる。
高等学校に通う学生は卒業するまでは認められないことになっているが、高校卒業後にすぐ婚約、結婚する者が多く
そのまま大学に進学し数年休学して子どもを産み育てるカップルもいるので、大学生と言っても既婚者だったり既に子どもがいたりする者もいる。
なので指輪チェックはとても大事なのだ。
それというのも私は高校時代、ある人に恋をした。
自他ともに認める程の猛烈なアタックを繰り返し、卒業したらすぐに告白して結婚してやるという気持ちではあったが、
高校三年生の三学期の始まりに私は失恋する。
相手にはずっと前から結婚を約束していた人がいたようで、それに気付かず私は勝手に重たい片思いをしていたというわけだ。
その日、私は心に決めた。二度と相手のいる男に惹かれたりしない、と。
なので指輪チェックが癖になってしまう程に男性のアクセサリーには敏感になってしまった。
「ありがとうございました」
ひとまず今の彼は両手に指輪はなし、ネックレスにして首から下げているわけでもないようだ。
…と言っても本気で気になっているわけではないですよ、と私は心の中で誰にともなく言い訳する。
ちなみに昨日ファミレスで話していた時も響士と清亮の手をしっかりチェックはしていた。
響士は細くて先の尖った綺麗な指で、清亮は少しごつごつしたような丸い指先で厚い手をしていたのを覚えている。
どちらの手も好きだと思った私は指輪チェックというよりも手のフェチなだけかもしれない、とも思う。
その後、私に声をかけたレジ係は後に続く男性にも「いつものでいいですか?」と気安く声をかけ、
後ろの棚から有名な銘柄の煙草を二箱取り出していた。
話しかけられるのを嫌う客もいるだろうが、接客業に向くタイプだろうなと思った。
ただ彼が親しげなだけなのか、それとも奏の元々の知り合いか、もしくはコンビニを利用することで親しくなったのか、
まだそれはよく分からないけれども。
「おはよう」
「おはよう、楳澤くん」
1コマ目までもう少し時間があったので大学の食堂でカップケーキを食べるという名の時間潰しをしていた私たちの元へ清亮がやってきた。
昨日の話の通りであるならば彼は私たちの後をつけて来ていた筈だ。
私は先程購入したお菓子をテーブルに広げて彼らに振る舞う。
「怪しい人は見つかった?」
「いや、それらしい奴は見なかった。そっちは何かあったか?」
「…残念ながら詳しいことは分からなかったわ。
カレンダーを見る限り、貴方たち以外の異性の友人もいなかったみたいだしね。
気になることは何点かあるけど…上手く言葉にできない程度の違和感というか」
そう言って私は美容整形の本とおまじないの本があったことは伏せて留学のことを話した。
清亮も奏が留学を考えていたことすら知らなかったらしい。
知らなかったことをあれこれと想像していても仕方がないので、授業へ向かうことにした。
初音は昼休みにゼミで必修となっている合宿の話し合いがあるらしく本日は一緒に昼食を取るのは無理らしい。
帰りは合流できるようなのでまた携帯端末に連絡をするように伝えて別れた。
その後、私は響士と清亮に連れられて法学部の一階の教室へと向かう。
初めて入る法学部に興味を引かれてきょろきょろしていると響士に笑われ、
怪しまれるからやめろと清亮からはやんわりと注意を受けた。
確かにそうだと思い、私はできるだけ自然に振る舞うことにする。
授業のある教室に入った私は彼らにできるだけ後ろの席に座ることを提案した。
そこで奏と親しかったであろう女友達を教えてもらうのだ。
とりあえず昨日のうちに奏の携帯端末に来ていたメールを大変恐縮ながら拝見したのもあって名前はある程度頭に入っているし、
メールの文面からその人となりは何となく掴んでいた。
後は顔と名前を一致させ、正しい呼び方を教えて貰っていたら数日は何とかなる気がする。
現に何人かに声をかけられたが、無難に対応できた筈だ。
授業後、問題が発生した。
授業内容が全くもって頭に入らなかったのだ。
自分が全く関わったことのない分野であることと難しい内容なのもそうだが、
どうやって犯人を見つけて捕まえようかということが何よりも先にあったもので。
できるだけ安全に、確実に、そして警備隊にも信じてもらえるように証拠を手に入れなければならない。
そうなると事前にある程度犯人の目星をつけておかねばならないし、準備が必要不可欠だ。
とは言え、確固たる証拠や根拠がなければ犯人の目星もつけられない。
――こんな状況では当分の間、授業内容が頭に入ることはないだろう。
「お疲れ、どうだった?」
「授業にはついていけそうにないわ。
今後の授業を全て欠席したいくらいよ」
次の教室へ移動しながら話しかけてきた響士に私はお手上げのポーズをしてみせる。
最初の授業からぐったりしてしまい、今日一日過ごすことをとても億劫に感じていた私には、
今後、法学部生としてやっていく自信は全くない。
なので先程アパートで考えてしまった“最悪の場合”が頭を過る。
「次の授業はどんな授業?
さっきの授業みたいに出席するだけでなんとかなりそう?」
「次も先生が一方的に話す授業だからなんとかなるだろうけど、
評価は学期末のレポート提出で決めるから、それまでに入れ替われるといいな」
「…うん」
奏に非常に申し訳ない気持ちになりながら私は頷く。
もし幸運にもレポート提出日までに戻れたとしても、奏が授業を受けていないのでレポート自体を書けないかもしれないではないか。
私は授業で話される内容が全く分からず何が大事なのかもぴんと来ない。
なので板書をそのままノートに書いているけれど、奏がいざ見た時に要点が分からずレポートにできない可能性が高い。
奏が人に聞いたり、自習してなんとかするかもしれないが…とはいえ、今は5月の初め。
学期末まではあと2ヶ月程ある。
前向きに考えようと思い、私はとにかくノートだけは真面目に記入しておくことにした。
向こうの奏も私の出る筈だった授業に出ているのだろうか?
いや、もしかすると怪我をしているのでまだ入院しているかもしれない。
どの程度の怪我なのか分からないが、意識が戻っていないことも有り得る。
向こうは授業どころではないか、と私は肩を竦めて次の教室へ入室した。
その後、授業を終えた私は頭痛を抱えながら響士と清亮の3人で昼食を取り、午後の授業もなんとかこなした。
一日目で既に限界が近い。自分はポジティブで勉強家な人間ではないことが大いに分かった。
これまで知的好奇心が旺盛な方だと思っていたが、全く興味のなかったことに関しては駄目らしい。
とはいえ、六法全書を眺めるのは結構楽しいとも思う。
これまでサスペンスもののドラマや小説に触れてきたので漠然と知っているものもあったが、色んな法律があるのだなと改めて勉強になる。
こういう趣味的な面から攻めていったら法学部の勉強を好きになれるかもしれない、と
何だかんだでタフな私は少しだけ前向きに考えることにしたのだった。
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