城のバルコニーにいる男は目を閉じて佇んでいる。
少し毛先に癖のある漆黒の髪は、彼の褐色の肌を撫でるように揺れた。
昼間だというのに、辺りは恐ろしく静まり返っている。
城下町のざわめきや、南部に広がる森林地帯に棲む鳥たちの声も聞こえない。
かといって全く人の気配がないわけではなく、ピンと糸が張ったような緊迫感が城周辺から感じられた。
――瞬間、背後に気配を察知した男はゆっくりと目を開ける。
揺れる前髪の隙間からちらちらと見えるのは赤い瞳。
褐色の肌に漆黒の髪をもつバーン人の中でも、赤い瞳を持つ者は現時点では彼しかいない。
それというのもアークバーン大陸には赤い瞳は人ならざる者の証と言われ、忌むべき者とされてきた風習がある程に稀な存在であった。
「失礼します」
背後から呼びかける声。
その声に男は振り返らず耳を傾ける。
「使用人、並びに民間人の希望者の地下への退避、完了しました。
それ以外の民間人の退避もほぼ完了。
研究所所見では、最後の船団は明日にもサウスランド南部に着くとのこと」
王付きの近衛兵で隻眼のレノンは淡々と報告を続けた。
兵士にしてはあまりにも華奢で中性的な雰囲気を醸し出す彼だが、その腕は軍に入った頃から突出しており、
一目で王であるカルトスに気に入られ、城内の誰よりも信頼されている人物である。
「――津波がこの大陸に到達するのは、二日後未明だと」
「そうか。予測していたよりも少し早いな」
カルトスはバルコニーに手を置き、遠くの空を見つめた。
「……ということは、今朝の日の出が最後になるかもしれぬのだな。
もっとじっくり拝んでおけばよかった」
そう呟いた彼は瞼を閉じ、穏やかな表情を浮かべる。
黙ってカルトスの後姿を見つめるレノンの不揃いな銀髪が風で揺れた。
「アーク国軍は?」
「予想していた数より少ないものの、城の東西に展開。
今夜中には包囲されるかと」
「そうか」
覚悟を決めたようにカルトスはすっと目を開けた。
城の周りは変わらず緊迫感が漂っており、淡々とした会話をしている二人の周りだけ時間が進んでいるような感覚である。
残された時間では全ての者を救うことまではできぬな――そう思い、カルトスは再び目を閉じた。
ふと、昨晩のレイラの姿が思い出される。
「――どうして、このようなことになってしまったのでしょうか」
そう言って彼女はバーン国に来て初めて涙を流した。
レイラと結婚してから二年経った頃、それまで資金援助と人材提供という条件でアーク国とは国交を続けていたが、
津波を防ぐ手段として魔動機器を使うことをアーク国は頑として拒否し、また、二年経ってもレイラに子ができないことを理由に資金援助を打ち切った。
バーン国は人材の解放を求めたがそれもアーク国が拒否をし、アーク国でレジスタンスを計画したとでっちあげてバーン国からやって来た者たちを拉致監禁した為、
バーン国民の怒りを買って協定は破棄、結果として津波を防ぐ手段を失った両国は、自暴自棄にも思えるような勢いで交戦の準備を始めたのだった。
そんな中、最後までカルトスは宣戦布告することを嫌い、アーク国から受けた資金を使い切って大船と地下施設の建設を急いだ。
そしてアーク国に気付かれないように少しずつバーン国民を北西のサウスランドへと退避させることにしたのである。
宰相や大臣はそんなカルトスの夢物語を実現させるのは無理だと言っていたのだが、想像以上にバーン国民の団結力は強く、
こんなことならもっと早くに戦争を仕掛けていれば良かったと大臣らに思わせる程であり、
そんな報告を聞いたカルトスは課題を早く終わらせた子どものように満足そうに笑ったのをレイラは今でも覚えている。
「貴方様は最後まで私を傷つけないという私の父と交わした約束を守り、国の全てを投げ打って民の為に尽くしてきました。
こんな状況でなければ、数年後にはアーク国と分かり合えたかもしれません。
ですが、このような未来になってしまいました。
……残念ながら、この状況は私の父が考えていた通りの未来なのです。
貴方様とバーン国を苦しめたのは、私にも責任があります。
私がこの国に来なければ、バーン国はアーク国につけ入れられることはなかったのに……、ごめんなさい…カルトス様」
「お前のせいではない。お前がこの国に来てくれたお陰で津波対策ができた。
お前が多くのバーン国民を救ったのだ。
感謝している、レイラ」
「……カルトス様……」
顔を覆って泣いているレイラが気の毒過ぎてカルトスは抱きしめてやることができなかった。
レイラが子を宿さなかったのは自分の責任なのだ。
何故ならそのような行為自体しなかったのだから、子ができなくて当然である。
したがって今回のことは自分のせいであるとカルトスは重々承知していたし、自分の理想に皆を巻き込んでしまったことを酷く気に病んでいた。
しかしながら、最後までそれを貫く覚悟はアーク国と協定を結んだ時からできていた。
最初からカルトスもこんな未来になるような予感はしていたのだ。
だが、未来を変えることはできなかった。
そこで自分の立場を思い出した彼は、大陸全ての者の幸せな未来は捨ててバーン国民のみを救う未来を選ぶことにしたのである。
「――ん、髪はどうした?」
ゆっくりと振り向いたカルトスはレノンの姿に目を止めて問いかける。
先程まで肩の下まである髪を一つに結んでいた筈なのに、目の前にいる彼の髪は短く切られていたからである。
「両親に渡しました」
レノンはこれまでと全く調子を変えずに静かに口を開く。
そんな彼の言葉を聞いてカルトスの表情は今日初めて曇った。
「――そういえば、お前の両親は地下シェルターにいるのだったな。
今更遅いが……本当に良かったのか?」
そう言い、カルトスはレノンに歩み寄り彼と並んだ。
そうして彼の肩にポンと手を置く。
「いくら研究所が総力を挙げて設計して造ったといえど、完全に安全かどうかは分からぬ。
最悪、津波の勢いに耐えきれず壁に亀裂でも入ったら、ただの拷問部屋になってしまうのだぞ?」
「それを承知の上で残ることに決めたとのこと。
それにバーン国が自分たちの居場所故、死んでもサウスランドには行きたくないと」
カルトスの言葉にレノンはゆっくりと瞼を閉じたが、特に表情は変えない。
高く昇り始めた太陽が彼の美しい顔に影を落とす。
「……そうか。ならば何も言うまい。
兵によろしく言っておいてやろう」
「お心遣い、痛み入ります」
「――では、そろそろ城の兵士達も気づかれぬように移動させるか。
それからレイラとヤンにも手伝ってもらわねばならぬな」
「は」
そうしてカルトスとレノンは玉座の間へと向かった。
そこには既にレイラとヤンの姿がある。
「……レイラ、すまぬな。
お前を本当は第一に避難させるべきなのだが……許してくれ」
「いいえ、構いませんわ。
民を救う為の時間稼ぎならいくらでもいたします」
「国民を代表して感謝する」
カルトスはレイラの眉間にキスを落とした。
目を開けた彼女は暫く離れようとせず、彼の瞳を見つめている。
透き通った緑の瞳は宝石のように煌めいて、今にも零れ落ちそうな程に揺れていた。
「……心配するな。俺も命は惜しい。
時間さえ稼げば、あとは予定通り退避する」
「それならいいのです。
貴方様は約束を守る方ですから」
そう言うとレイラは安心した表情でカルトスの後ろに下がった。
「――ヤン、転送装置は万全だろうな。今更、不完全だといわれても困るが」
「ええ、何の問題もありません。実験でも100%成功しています。
一応、説明させていただきますと、私の持っている遠隔操作装置のボタンを押すと、この魔法円の中にいる者を研究所地下のシェルターに送ることになっています。
しかし、物体を瞬間的に送ることはできません。まずこちら側の情報を受信側に送って複製、というよりも物質を再合成するところから転送が始まります。
その後、全て複製し終わると受信側に転送されます。その複製完了まで約5分くらいかかります」
ヤンはそう言うと床に特殊なインクで描かれた魔法円を指差した。
「そうか。頭に入れておこう。しかし、玉座の間が台無しだな」
「すみません。津波をやり過ごした後、ちゃんと直しますから」
「城ごとなくなっているかもしれぬぞ?」
「その時はまた一から作り直しましょう」
「そうだな」
そう言ってカルトスは穏やかに笑って見せた。
レイラもヤンも、それまで無表情だったレノンでさえも微笑んでいる。
それはアーク国軍到着前のひと時の安らぎだった。
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