第10話 ラスティア山にて
こんなにも夜明けを恐ろしく感じたことはあっただろうか。
いつもならばキラキラと輝く朝露を愛しく感じ、少し肌寒い空気の透明感を心地よく感じていたのに、
今は時間を刻む時計の針の音に怯えながら手紙を書いている。
別れの言葉を綴ったこの手紙をレジェンスの部屋で書くことは安奈にはできなかった。
そこで彼が寝入ったのを見計らってそっと部屋を抜け出し、自分の部屋に戻ることにしたのだ。
しかし、誰もいなかった部屋は空気が冷たく今にも闇に呑まれそうに思え、酷く安奈を不安にする。
それでも恐怖に震えてばかりもいられなかった。
自分の命はもうすぐ消えてしまうとしても、この大陸で生きているレジェンスたちはこれから先も生きていかなければならないのだ。
それも近い未来には自然災害が起こることになっている。
最悪の未来を変える為には、伝説の力をあてにするだけではダメだ――安奈は胸に手を当てる。
まだ私は生きていると自身の鼓動を感じながら頷き、感じていることをそのまま文章に残すことにした。
自分の存在についてと大陸の未来の為に何をすべきかということ、そして愛しい人に別れの言葉を。
便箋を折る手は微かに震えて涙は静かに頬を伝うが、手紙に封をする時には安奈の心は凪いでいた。
死の覚悟ができたわけではない。だが、自分がすべきことは全て頭の中に入っているし、手紙も完成して準備もできた。
あとは、両国の行く末を見守るだけ――安奈は部屋を出る前に鏡に向かって笑った。
そして再びレジェンスの部屋に戻り、できるだけ優しい声で彼を起こそう、と思った。
緊張感を持って慎重に登ったからか、それともそこまで険しい道ではなかったからか、
ラスティア山の頂上には安奈でも余裕を持って到達できた。
もしかすると伝説の宝玉を納める台座があるというだけに、この山自体に何か神聖で特殊な力が存在するかもしれない。
そんなことを考えていた安奈の前には既にバーン国の者たちが並んでいる。
「来たか」
「待たせたようだな」
静かにカルトスとレジェンスが口を開くと、周りにいた男たちから殺気のようなものが発せられ辺りの空気は凍りついた。
しかし、敢えて安奈は対峙しているレジェンスとカルトスの間に割って入る。
「――無礼を承知で言います。もう一度、きちんと話し合ってもらえませんか?」
彼女の突然の行動に男たちは驚いた様子であったが、安奈は構わず話を続けた。
無礼でも世間知らずでも構わない。自分が動いたところで世界を変える歯車を回すこともできないかもしれない。
しかし、何もしなければ絶対に未来は変わりはしないのだ。
アークバーン大陸の未来を変えることはレジェンスたちの生きている世界をも変えなければならないということ。
変化させるには大きなエネルギーが必要であり、正当法でも良いが時間もない今となってはイレギュラーな存在が必須だ。
その為の宝玉であり、安奈自身だと彼女は思っている。
イレギュラーな自分が関わることで世界が変わる可能性を安奈は信じたのだ。
「こうやって縁あって国の偉い人が顔を合わせているんですから、
これからのことや相国における対処法など宝玉のことだけでなくてもっと前向きな話もできると思うんです」
そう言って懇願するような表情で二人を見つめた。
そんな彼女の顔を見たレジェンスは何かを考えているのか視線を落として沈黙している。
「――俺はできれば話し合いで済めば良いと思っている」
先に口を開いたのはカルトスだった。
穏やかな口調だけれど堂々とした威厳ある佇まいはやはり王たるが故のものなのだろうか、と安奈は思った。
「大陸全土の危機を前に戦などする余裕が両国にある筈もない。
できれば早めに同盟を結び共に事にあたるべきなのであろう。
しかし、アーク国には未だバーン人に対する差別意識が強く且つ魔法奨励国家であり我が国の魔導機器には否定的だ。
アーク国がバーン人の人権を尊重し魔導機器に理解を示してもらわねばこちらも協力などできぬというのがこれまで平行線を辿っていた理由だ。
しかも数年後に訪れる津波は計算上、両国が今持つ最大の力を結集しても回避できそうにないという規模らしい。
したがって宝玉に頼ることになったわけだが、宝玉では1つしか願いが叶わないという。
更にいうと本当に宝玉がそのような力を持つのかすらわからない。
その宝玉をバーン国を毛嫌いしているアーク国に委ねるのは不安があるので素直には渡せない、というのがバーン国の現状だ。
……ただ、俺たちの方にもアーク国に対して偏見を持っていたのも事実だ。
彼女に出会い、大陸を守る為に共に旅する者たちの話を聞いて
アーク国の者も自分たちと同じように考え行動するものなのだと当たり前のことであろうことに感じ入った」
極めて理路整然に話すカルトスの言葉に安奈は安心した。
彼ならば恐らくレジェンスと冷静に対談ができるし、アーク国側の対応にもよるが
この若い王と次期王となる王子はきっと話し合えば歩み寄れるだろう。
安奈は争いの歴史が変わる瞬間が見られるかもしれないと期待しながらレジェンスとカルトスを見つめる。
「俺は過去の因縁と極端な反機械化運動を唱えるアーク国の王には不信感がある。
したがって記録係のいないこの場所でレジェンス殿と約束を交わしても意味をなさないと考える。
しかし、レジェンス殿。彼女が心から信じている貴殿は信用に値する人物だと思っている。
たとえそちらに宝玉が渡っても貴殿の手元にあるならば悪いようにはしないであろうと信じられる」
「カルトス殿…」
「だが、バーン国の王として簡単に宝玉を渡すことはできぬ。
無条件に宝玉を渡したとあらば後の外交に支障をきたす恐れがあるし、何より俺が大臣から大目玉だ」
そう言ってカルトスは軽く口角を上げた。どうやら彼なりの冗談のつもりらしい。
しかしすぐに表情を真剣なものに戻してレジェンスを見据えた。
「――したがって、レジェンス殿。我らと闘っていただきたい。そして負けた方が宝玉を差し出すと約束していただきたい。
記録係のいない今日起こった出来事に国は一切関与しない。
自分たち以外は誰もいなかったとし宝玉は偶偶手に入れたものとしてこの場で即座に使うという寸法だ。
……これは貴殿らを信用しての申し出だ。この条件付きの決闘を受け入れていただけないだろうか」
「そうは仰いますが、我々の方はそちらを信用しておりません。
もしこちらが宝玉を渡すことになったとしたら、貴方は自国だけでなくアーク国も救おうとしてくれるでしょうか?
……確かに先程のカルトス殿の言葉には少々驚いております。
バーン国王があのように率直な気持ちを聞かせてくださるとは思ってもいませんでした。
その点においてバーン国とは交渉の余地があると思っています。
ですが、それは今後年数をかけてのことであって即座にというわけにはいきません。
カルトス殿が仰ったようにアーク国は魔法推奨国家であり統治の仕方だけでなく国の成り立ちからして違いますし、
魔導機器という異質なもので土地や人間を焼き払われた過去を持つこちらとしては
その力を警戒するのは当然のことです。
その不信感や恐怖心が拭われることなく未だに対立しているのですよ、すぐさま信用する方が無理というものです」
「シャル、下がっていろ。……お前は本当に見た目と違い攻撃的だな」
「長年バーン人を奴隷として使い続け国家を繁栄させたアーク国の者に道理を説かれる筋はない」
「エド、やめろ」
レジェンスは苦笑いしながらシャルトリューを下がらせカルトスに部下の非礼を詫びたが、シャルトリューの話した内容については触れなかった。
レジェンスもシャルトリュー同様にバーン国の者を信じることはできないと思っているのだろう。
一方、カルトスも皮肉るエドワードを制した。
こんな状態ではやはり話し合いなど無理なのかもしれないと安奈は不安になってくる。
やはり戦うしかないのだろうか。各々の大切なものを守る為には戦うことも勇気の一つなのか。
しかし戦いの後には何が残るのだろう。負けた方は遺恨なく宝玉を手渡すことができるのか。
決闘と言った時点で勝った方が負けた方の宝玉を奪い取ることは双方暗黙の了解であろうが、
安奈には奪い取って集めた宝玉では願いは叶わないように思えた。
「レジェンス……」
懇願するように安奈はアーク国の王子の名を呼んだ。
彼女の信頼に応えるかのように彼は瞳を真っ直ぐ見つめ返してくる。
「アンナ、そなたは彼らのことをどう思う?」
「――両国の皆がそれぞれ国や身分のくびきからやすやすと解放されることはないものと十分承知しているつもり。
でも、私から見たら同じ人間だわ。私がレジェンスたちと初めて出会った時と同じように彼らは私を助けてくれた。
私は個人としての彼らは信頼に値する人物だと信じてるし、きっともう少し時間さえかければ分かり合える筈よ」
安奈の言葉を聞き、レジェンスは暫し目を閉じていた。
きっと真剣に考えてくれているのだろうと彼女は察する。
けれど、彼のグリーン色の瞳は安奈の方を向いてはくれず、カルトスへと真っ直ぐ向けられた。
「――分かった。貴殿の要求を呑み、ここで非公開の決闘を行う」
「レジェンス、私が言いたいのはそうじゃないの、そうじゃないのよ…!」そう安奈の声が悲痛に響いたが、レジェンスは彼女の方を振り向かなかった。
彼も覚悟を決めたのだ。この場にいるバーン国の人間を信じようと。
「話し合いをしても恐らく平行線に終わって時間を無駄に費やしてしまう。
ならば大切なものの為に闘うのみ」
「承知した。こちらの提案を受けていただき感謝いたす、レジェンス殿。
我らも覚悟はできている」
カルトスはヤンに持っていた小ぶりの革製アタッシュケースを少し離れたところへ置くように指示し、これから決闘に参加する自分以外の者を紹介した。
それに倣いレジェンスも宝玉の入った袋をシャルトリューの懐から出させて自分で彼らの持ってきた鞄の横へ置き、
ランにも決闘に参加するか尋ねてから全員の紹介した後、
もしどちらが宝玉を手にしても自国の利益だけを求めず必ずアークバーン大陸全体の利益の為に使用することをカルトスに誓わせた。
ついに戻れないところまで来てしまった、と安奈の鼓動は早まっていく。
もうすぐ自分は消えてしまうかもしれないのに、その不安とはまた別の不安で動悸がしていた。
もしかすると、この中の誰かが怪我をするかもしれない。
以前、ランがシャルトリューの魔力は強くて洞窟で攻撃魔法など使えないと言っていたのを思い出す。
そのような激しい攻撃が飛び交うならば、最悪死の危険すら有り得る。
私はそんな争いを止める為に同行した筈なのに、と安奈は己の不甲斐なさに打ちのめされ、足元に目を落としていた。
そんな彼女の名前をレジェンスははっきりとした声で呼ぶ。
「アンナ、そなたが見届けてくれ。
これは命を奪う闘いではない。けれどそれぞれの意地とプライドがぶつかることになる筈だ。
ここにいる者のうちの誰かが怪我をすることもあるだろう。
……もしそなたがこれ以上の闘いは必要ないと判断した時は言ってほしい。その時、私は剣を下ろすと誓おう。
アーク国の者もバーン国の者も同じ人間だと言えるそなたに止められたなら勝負がついたことを素直に認められる気がするのだ。
――カルトス殿、よろしいか?」
「ああ、それで構わぬ。彼女には証人になってもらおう」
その場にいる青年たちの視線が全て安奈に注がれている。
自分が闘いを止める役目を与えられたのは幸いかもしれない。
けれど決して闘いから目を逸らしてはならないことを意味していたし、
真剣に闘う彼らと同じように自分も命を懸ける覚悟で闘いの終わりを見届けなければならないということだ。
安奈は汗ばむ手でスカートを握りしめた。
いつまでここに存在していられるかもわからない身であるが、だからこそ見届けなければならないような気もしていた。
スカートのポケットに突っ込んだ手紙には、自分の我儘な祈りを書いた。祈りでもあり、意志でもあった。
行きつく先は違ったけれど彼らもまた自分と同じように悩み考えて行動してきた筈であり、その信念は尊重されるべきだと思ったのだ。
目の前の彼らの考えを変えることができなかったことは無念ではあるが、安奈は大陸の明るい未来を諦めたわけではなかった。
大陸を一つにすることできっと奇跡は起こると、安奈は何故か確信にも近い想いを抱いているし、
今日カルトスの話を聞いて彼の人となりを感じ取り、尚更それは可能なことであると思っている。
だから、なのだ。彼らの闘いが無意味であることを彼らは身をもって知らなければならない。
安奈は自らのその残酷な覚悟を受け入れることにした。
「――分かった。皆の闘いは私が見届ける」
最期まで見届けられるようにと願いながら、安奈は彼らに向かってしっかりと頷いて見せた。
約六年もかかったのに決闘にすら始まらなかったです、すみません(>_<)
とはいえ、原作では勢いを優先して簡単に決闘に突入していたので、
本当はもう少し主人公の葛藤を描きたいなと思っていたのでした。
大切な物の為には戦うことも必要だ、と原作では主人公が考えていますし、
闘いを止めたかった彼女が闘うことを受け入れた心の流れとしてこんな過程があったのですよ、と補足したつもりです。
……というわけで今回も忘れた頃の更新となってしまいましたが、
読んでくださったお客様、ありがとうございました!
吉永裕 (2016.9.2)
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