の為に刺す  (前編)




 あれは手先が悴む小雪の日のことでした。
瞳子さん――ええと、貴女のおばあさまね――らしき女性が閉まっている吉野屋さんから
顔を隠すようにコートの襟を立ててそそくさと出てきたのを偶々見かけたのです。
 おや、と思いましたよ。何故ならお師匠様である吉野の奥さんの寿美さんは遠くの親戚の法事で昨日から家を空けていて、
お店も絽刺し(ろざし)の教室もお休みだと瞳子さんもご存知だったからです。
 その時、私は察しました。吉野さんのご主人と瞳子さんの関係を。
吉野さんのご主人の志乃介さんは昔気質の頑固なところがあったものの、
世話焼女房の寿美さんとはうまくいっていると思っていたのですけれどね。
 恐らく教室に来ている瞳子さんを見て心を奪われてしまったのでしょう。
本当に瞳子さんは上品で綺麗なお顔をされていましたものね。
生娘そのものな愛らしくて庇護欲を掻き立てられる女性でしたから、志乃介さんも夢中になってしまったのでしょう。
 その日以来、私は瞳子さんをお見かけしていません。
ですが風の噂で早急に婚姻が決まり、遠くへ嫁いでしまったのだと聞きました。
きっと志乃介さんとの関係をご両親に知られてしまい、
寿美さんに知られる前に強引に引き離されたのだろうと思いました。
その後、瞳子さんの御両親も引っ越しました。御商売がうまくいって、首都の方へ住まいを移すとのことで。
 しかし暫くして別の噂も耳に入ってきました。
瞳子さんのお母様の故郷で瞳子さんらしき若い女性が子どもを産んだらしいと。
そしてその子どもは養子縁組で別の親御さんに引き取られたらしいとも。
 私はまたもおや、と思いました。
もしかしてその生まれた子は志乃介さんとの間にできた子どもなのではないかと。
 ――本当に、田舎は嫌ですねえ。
耳を閉ざしていても勝手に色々と噂が入ってくるのですもの。
特にその場にいない人の話なら尚更ね。
貴女のおばあさまの若い頃のお話をしようと思っていたのについこんな話になってしまってごめんなさいね。
もうやめましょうか、こんな悲しい話。
 …え?その生まれた子どものことですか?
そうですね、その子の話も何となく耳にしていますよ。
うふふ、至る所に絽刺し仲間がいるものでね、自然と。
なので寿美さんもどこかで知ってしまっているのでしょうね、きっと。
けれど表には出さずにずっと志乃介さんを支え続けたそうですよ。
 さて、話を戻しましょうか。
生まれた子は女の子で、春実といったそうです。
 春実さんは引き取られた先で大切にされたそうですよ。
瞳子さん似の可愛らしい子だったらしく、子どもに恵まれなかった両親は実の子のように育てたそうです。
けれど父親の事業が失敗してからは苦労したようですね。
無理がたたってご両親は早死にしてしまい、十代半ばの春実さんは下働きとしてあるお屋敷に引き取られました。
そこのご息子と恋に落ちて駆け落ちしたのですが、結局相手は家に連れ戻されてしまい、
二人は完全に縁が切れてしまいました。
 けれど春実さんのおなかの中には赤ちゃんが宿っていたのです。
誰にも相談することもできず、彼女は一人で産み育てることにしたそうです。
臨月手前まで町の食堂で調理をし、子どもが生まれてからは針仕事でその日その日を凌ぎ、
働ける頃になると赤子を背負って色々な仕事を掛け持ちしてその子を育てていたそうですよ。
 そんな彼女の噂を聞きつけた瞳子さんは母子を呼び寄せ、家で奉仕の仕事をさせることにしたそうです。
瞳子さんと春実さんが親子であることは瞳子さんとご主人の左衛門さんしか知らないようで、春実さん本人も知らなかったそうです。
 春実さんは誠心誠意、瞳子さんと左衛門さんに尽くしました。
元々真面目で誠実な方だったので他の使用人ともすぐに打ち解け、
瞳子さんだけでなく事情を知る左衛門さんにも信頼を得ていたようです。
 久しぶりに瞳子さんからお葉書が来た時、随分嬉しそうでしたもの。
傍にいて甲斐甲斐しく世話をしてくれる彼女をとても褒めていましたし、彼女が連れていた男の子が日々成長していく姿がとても愛らしい、とも。
 勿論、貴女の生まれた時も大変喜んでおいででしたよ。
貴女の櫛入れ用に新しい絽刺しの作品を作るつもりだ、と。
絽刺しは本来、手間もかかれば絹糸代もかかるお金持ちのお嬢様や奥様の趣味だったのですよ。
今は糸も手に入れやすくなって気軽な気持ちで始めて続けられますけれどね。
昔の人は大切な人へ贈る為に心を込めて一目一目刺していたのです。
だから私は瞳子さんが貴女の誕生をこの上なく喜ばれていたのが目に見えるようでした。

「それがあんなことが起こってしまって・・・瞳子さんがとても気の毒です。
 貴女も、ご家族全員を失ってしまうなんてね・・・何と申し上げたら良いのか。
 何年前のことでしたっけ?」
「6年経ちます」
「そう・・・貴女も苦労したでしょうね。
 元はと言えば犯人の方は貴女のお父様のご厚意で返せる見込みのないお金を借りていたのでしょう。
 それで更にもっと貸して欲しいとお願いに行って断られたのを逆恨みして放火してしまうなんて・・・その人は本当に短慮でしたね。
 まさかあんなに炎上して沢山人がお亡くなりになるとまでは思っていなかったのでしょう」

 嫌なことを思い出させてごめんなさいね、とその老婆は私に頭を下げた。
そして今日で最後となる絽刺しの教示を始める。
 私が絽刺しに興味を持ったのは先程師匠が言っていたように櫛入れに絽刺しの作品が使われていたからだ。
その櫛入れは火事の際に失われてしまったけれど、記憶を辿り、単なる刺繍とは違う縫い方だったと調べていった結果、
縫うのでなく刺す絽刺しという手法なのだと分かった。
その後、絽刺しを教えているという女性を探し、私は教えてもらうことにしたのだ。
その人は私の顔を見てある女性を思い出したと言った。
話を聞くと、その女性は私の祖母であると分かった。
 祖母は優しい人だった。そして頑固者で短気だった祖父に一切逆らうことなく穏やかな笑顔で支え続け、添い遂げた。
けれど私は祖母のことや伯母である春実のしたことを完全に理解することはできなかった。
妻を持つ男性と恋に落ち関係を持つことも、後先考えず駆け落ちすることも、激しく恋心を燃やした先にあったのは誰かの不幸だ。
そこまでして人を愛してしまう血は私の身にも流れている。
私はそれが少し嫌だった。

 火事の後、会ったこともない親戚がやってきて両親の生命保険や火災保険などのお金を全て奪われてしまい、
私だけ引き取られず焼け野原に残された。
そんな私に差し出されたのは火事の時と同様に明彦の手だった。
 春実の息子の明彦は私の生まれる6年前に誕生し、家の使用人として育てられた。
礼儀作法や料理、掃除などの家事技能だけでなく、
会社を経営する私の父の秘書としての役割もいずれ担ってもらう為に勉強も子どもの頃から叩き込まれた。
 けれどそんな明彦もあの火事で母親と住む家と安定した将来を失った。
それでも焼ける家の中で呆然と佇んでいた私の手を引き、私の命だけは助けてくれた。
更には親戚からも見放された私を見かねて彼が引き取って育ててくれた。
何も持たないただの薄汚い少女となった私をずっと「お嬢様」と呼び世話を焼いてくれ、
朝から晩まで働いて私を高校にまで通わせてくれた。
私は独りになることを恐れ、彼の優しさにずっと甘えてしまっていた。

 明日は高校の卒業式。
ここまで育ててくれた彼にせめてものお礼をと、私は絽刺しを習い始めた。
その為のお金を稼ぐ為に放課後に短時間働きたいと言った時、明彦はとても渋りなかなか許可してくれなかったが
高校卒業後に働くことになるのだから経験しておきたいとそれらしい理由を言うと
夕食までには絶対に帰宅するよう約束させられてやっと許可が下りた。
 二時間しか働けないので雇い先を探すのに苦労したけれど、
私の境遇に同情してくれた小さなガラス工場の社長が社員寮の食堂で雇ってくれた。
下準備をしたり使用した道具を洗ったりするだけではあるが、
明彦がくれる毎月のお小遣いと合わせたら、印鑑入れ制作キットと絽刺しの下地となる生絽(きろ)、
絹糸数色を買い揃えられる額になった。
 男性に絽刺しの印鑑入れだなんて喜ばれないかもしれないけれど、明彦は頭が良く才能溢れる人だ。
今までは給料の良い深夜の仕事と昼間の工事現場の仕事を掛け持ちして働いていたけれど、
これからは彼のやりたい仕事に就いてもらいたい。
私が自立すれば、もっと広い家を借りることもできるだろうし、車を購入することだってあるだろう。
仕事以外でも何事かの契約時に私の絽刺しを目に止めてくれたら、私の感謝の気持ちを伝えられたら。

 私は生絽に想いを込めて刺していく。
男性が持っても浮かない柄と色を選んだつもりだ。
青海波(せいがいは)柄は未来永劫、平安な暮らしを祈る意味を持つらしい。
 私は、私を守り育ててくれた明彦がこれから先、幸せで穏やかな生活を送って欲しい。
そっと刺してきた模様を撫でる。
刺繍とは少し違い、表面は極端にでこぼこしていない。
絹糸を使っているので繊細でしっとりとしたような手触りだ。
遠目から見ると織物のようにも見える。

「できた・・・」
「ああ、綺麗に刺せましたね。ではそれを芯地に布用のボンドで貼り付けましょう。
 角に皺が入らないように目打ちを使いながら中央に布を寄せて、折り代全体を押さえて。
 その後は反対側に裏地を貼ります」

 私は慎重に生絽を貼り付ける。
ここで模様にボンドでもついて汚れてしまっては台無しだ。
裏地の合皮も皺のないように息を潜めて貼り付ける。

「口金を開いて上に向けて隙間にボンドを少し入れます。
 爪楊枝があるので、これで均等に伸ばして下さいね。
 それができたら本体を口金の溝の奥に押し込むように差し込みます。勿論、片方ずつですよ。
 はみ出さないように目打ちで生地は入れてしまってね。
 綺麗に差し込めたら当て布をして口金の下部分をペンチで押さえて固定します」

 自分の絽刺しが一つの小物として息を吹き込まれた瞬間だった。
今すぐ印鑑を入れて使ってみたくなるが、
師匠が「ボンドが完全に乾くまで開け閉めしてはいけませんよ」と釘を刺した。
明日になったら使っても良いらしい。
とはいえ、実際に使うのは明彦なので、私は動作確認程度しかしないけれども。

「喜んでいただけると良いですね」
「はい。先生、ありがとうございました」
「どういたしまして。また新しいものが作りたくなったらいつでもいらっしゃい」

 師匠に謝礼を支払い、印鑑入れを丁重に箱に入れて明彦に気づかれないように鞄に仕舞った。
宝物を手に入れたような高揚感を抱きつつ、私は街灯の照らされた道を小走りに家へと帰った。

「お帰りなさいませ。今日は遅かったですね」
「ごめんなさい。話が長引いて」
「明日は卒業式ですものね。ご友人と話し込むこともあるでしょう」

 門限ぎりぎりに頬を赤くして帰宅した私を見て、明彦は急いで帰ってきたことを察したらしく
明日が卒業式ということもあって大目に見てくれたらしい。
私が友人たちと会っていたと思い込んでいるようなので、私もあえて訂正しない。
 食卓には既にサラダが並んでいた。
私はうがいと手洗いを済ませて荷物を置き、制服の上着をハンガーにかけ、
明彦が作った料理を食卓に運ぶ手伝いをする。

「明日はご馳走を作りますね」

 鯖の味付き缶詰と大根を出汁で煮たものと鶏肉の団子揚げ、そしてサラダを見つめて明彦は苦笑した。
私は今日のメニューも好きだよ、と言うと彼は嬉しそうに穏やかな笑みを浮かべた。
明日は牛肉のワイン煮を作りましょうと彼が言うので奮発しなくても良いよ、と言ったら
お祝いですから、と彼は頑なに譲らなかった。
それなら楽しみにしていよう、と私は思う。彼の料理は何でも美味しい。
特に彼の母直伝の牛肉のワイン煮は特に肉が軟らかくハーブの香り豊かで、
濃厚なソースにつけて食べると贅沢で幸せな気持ちになれるのだ。
 明日はその食事をいただいた後で、今日完成した印鑑入れを渡そう。
包装紙や飾りも既に用意している。
明日学校に全部持っていって、印鑑入れの動作を確認してから包もう。

 その後、食事が終わるとばたばたと後片付けをして彼は仕事に出て行った。
後片付けくらいは私がするのに、と言っても彼は手が荒れたら大変だと言ってやらせてくれない。
いずれ仕事をして収入が安定したら私も独り暮らしをするから関係ないのに。
きっと明彦は独り暮らしなんてとんでもない、と反対するのだろうけれど。
 彼は私が高校卒業後、仕事に就くことも最初は反対していた。
成績が良いのだから大学へ進んで好きなことを学びなさいと先生も交えて何度も説得された。
けれどこれ以上学びたいこと自体がなかった。
どちらかというと、絽刺しのように手を動かす仕事をしたかったし、何かを作ることは好きだった。
それで私は気になっていた鞄工房に何度も挨拶に行き働きたいと申し出て、卒業後はそこで働くことが決まった。
明彦は私が自分で職場を探してきたことで説得を諦めたが、どこか寂しげに見えた。
もしかすると大学に行きたかったのは明彦だったのかもしれない。
だから私に彼の夢を叶えて欲しかったのかも・・・。
だとしたら気の毒ではあるが、それでも私は自分の手から小物を生み出す職人になりたいのだ。
明彦以外何もかも失い何も持っていない私でも何かを生み出せるのなら、私にも生きる理由があると思えるから。








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