彼の為に刺す  (後編)



 次の日、卒業式が終わった後は友人と一頻り大衆的レストランで語り合い、
また近いうちに会おうと約束して別れた。
彼女たちと出会えたのも明彦が必死に働いて学費を稼いでくれたからだ。
本当は卒業と同時に彼からも卒業して自立して今までの分を給料の中から返して行けたら良かったのだけれど、
まだ働いていない学生だけで借りられる物件がなかったのだ。
明彦に言ったら反対されてしまうのは目に見えていたので、相談もできなかった。
それに仕事を始めたばかりの身で確実に家賃を払えるか自信もなかったので。
 少しずつ明彦にお金を返しながら独り暮らしをするお金も貯めていこう。
明彦には深夜の仕事はできるだけ早めに辞めてもらって身体を大事にしてもらおう。
料理も交代で作るようにして私は料理を覚え、明彦は自分の時間を増やしてもらいたい。
これまで私の為に時間も体力もお金も使わせてしまったから、明彦には今後自分の為に生きて欲しい。

「全部美味しかった。ごちそうさま」
「そう言っていただけると腕を振るった甲斐があります」
「後片付けは私がする。
 もう社会人になるんだし、そもそも皿洗いは普段短期仕事先でしているのよ?
 今更手が荒れるとか関係ないことでしょう」
「いいえ、お嬢様。家のことは私にお任せください」
「明彦、私は高校を卒業した時点で自立しなければと思っていたの。
 とはいえ、すぐにはできないことは自覚しているつもり。
 でもいずれは自分の力で生きていかなければならないのだから、
 一人で生活する術を学びたいと思うことが何故いけないの?
 ――これまで何度も言ってきたけれど、私の父が死んだ時点であなたは使用人ではないのよ。
 それなのにあなたは私をずっとお嬢様扱いしてくれて、育ててくれた。本当にありがとう。
 これからはもうそんなことをしなくていいの。今後はあなた自身の為に生きて欲しい」

 私がそう言うと明彦は急に青ざめた顔をして黙ってしまった。
確かにこれまでしていたことをしなくて良いというのは酷なことかもしれない。
けれどいつまでも明彦に依存するわけにはいかないので、これだけは譲れない。
 想像していたよりも場の空気が冷えてしまったが、
私は印鑑入れを明彦に渡すべく鞄から箱を取り出した。

「明彦、今まで本当にありがとう。
 これは私が作った物だけど…よければ使って」
お嬢様・・・こんな、私などに――」

 彼は最初酷く恐縮していたけれど、私の視線に気づいてそっと包み紙を剥がし、小さな箱をゆっくりと開けた。
そして大事そうに中の印鑑入れを取り出す。

「これは・・・絽刺し、ですか?」
「ええ、そう。お婆様が刺していたのを思い出して、先生を探して習ったの。
 初めての作品だからその道の人が見たら粗があるかもしれないけれど」
お嬢様が私の為にそこまでして・・・。ありがとう、ございます」

 明彦は印鑑入れを指先で撫でた。私の刺した一目一目をなぞるように。
何故だか私自身が撫でられているようにくすぐったく感じる。

「――お嬢様、お話があります」

 印鑑入れを丁重に箱に戻した明彦は、改まって私を見据えた。
相変わらず顔色は悪い。
もしかして明彦に黙って習い事をしていた為、怒らせてしまったのだろうかと私は内心びくつく。
けれど、明彦は椅子から飛び降りるように床に膝をつき、頭を下げた。

お嬢様、申し訳ありません」

 私は急に土下座される覚えがないので慌てて明彦の傍に駆け寄った。
彼の傍らに膝をつき、どうしたのと彼に問う。

「私は、私は・・・火事の時、榮太郎様を見殺しにしました。
 お助けしようと思えばできました。けれど、私は・・・あの人が好きではなかった。
 あの人は・・・私を・・・」

 それ以上、明彦は口を開かなかった。私も問いただしはしなかった。
彼にとって非常に苦痛であり屈辱的なことをされたのだろうと想像がついた。
恐らく彼は私の感情も慮って口を噤んだのだと思う。
自分の父親の不名誉な話は聞きたくないと。

「――火事の時、榮太郎様は書斎にいらっしゃいました。
 しかし、ソファで深く眠り込んでいました。
 窓辺にいた私は屋敷の使用人部屋が燃え上がっているのに気づきました。
 そこで私は榮太カ様をそのまま起こさず、
 榮太カ様が机に入れていたお金や金目の物を探しだし持って逃げました」

 あの火事の時のことを私はあまり覚えていない。
私は夜中にふと目が覚めて手洗いに行った後、何故か煙の臭いを感じた為にそのまま廊下に立ち尽くしていたと思う。
どのくらいそうしていたのか、もしかすると辺りをうろついたりしていたのかもしれないが
気がつくと暗いはずの廊下の奥が明るくなっていた。けれど煙で視界は悪い。
そんな時に書斎から出てきた明彦と目が合ったのだった。

「書斎を出てお嬢様に出くわした時、どきりとしました。
 私の罪を全て見ていらっしゃったのではないかと。
 けれどあなた様は私を見てほっとしたように笑った・・・。
 するとすぐ後ろで書斎から物音が聞こえた気がしました。
 私は榮太カ様に金品を盗んだことを咎められることを恐れ、目の前にいたあなた様を連れて逃げました」

 私は自分の手の指先が凍るように冷たくなっていることに気づいた。
そして腕に全く力が入らず全身脱力状態になっており、その場から身動きすらできなかった。
 あの火事は深夜に起こった為に多くの者が犠牲になった。
眠りが浅く睡眠剤を常用していた祖父母や、丁度その時風邪を引いて寝込んでいた母だけでなく
火元に近かった使用人部屋で休んでいた使用人たちも。
私が助かったのは火元から遠い手洗いに行っていたからなのと、あまり煙を吸わなかったからだ。

「何故、憎い男の娘を引き取ったの・・・。
 ――いえ、いいわ。聞かなくても分かる」

 私は明彦が父を助けようとしなかったことやどさくさに紛れて盗みを働いたことよりも、
私を引き取り育てた理由に思い当たりショックを受けていた。
 ――ああ・・・彼は、明彦は、父を見殺しにした罪滅ぼしの為に私を育てていたのか!
私は自惚れていた。
同情もあるだろうが、彼が私を育ててくれたのは家族のように思ってくれているのだと思い込んでいた。
亡くなった両親の代わりに妹を育てるような気持ちなのだろうと思っていた。
それは全部、私の願望に過ぎなかったのだ。
 今すぐに消えてしまいたかった。
私の存在は彼にとって足手まとい以上のものだった。
火事や父のことを嫌でも思い出させ精神的に苦痛を与え続ける私という存在を彼は自分への罰として受け入れているのだ。
 私は両手で顔を覆った。
堪えきれない涙で顔中が濡れていた。
何も知らなかった自分がひたすら憎らしく愚かだった。
 
「――明彦、ごめんなさい。
 あの時、私があの場にいなければ・・・あなたは自分のお母様を助けに行っていたかもしれない。
 それに私をずっと育てることもなかった。
 私の顔を見る度にあなたは・・・父のことを思い出したのでしょう。
 ・・・ごめんなさい」
「そんなことはありません!何故、お嬢様が謝るのですか!?
 私が・・・榮太カ様を起こしていれば美世子様も助けられていたかもしれない。
 あなた様は親戚一同にあんな酷い仕打ちを受けず、一人になんてなっていなかった・・・!」

 顔を覆ったまま明彦に何度も頭を下げる私を明彦は必死に止めようとする。
けれど私はごめんなさいと唱えるように繰り返した。
彼の言葉を聞きたくなかった。
肯定であれ否定であれ、彼が後ろめたい気持ちで私を引き取ったことには変わりがないのだから。

「――時間が経つほどに私はあなた様に軽蔑され拒絶されることが怖くなった。
 許される想いではないのは分かっています。
 けれど、素直で気高いお心を持つあなた様が年々美しく成長される姿に私は・・・、
 私は、自分のしたことも忘れてお嬢様に恋い焦がれるようになってしまった。
 ですから・・・このままずっとあなた様の傍にいられたらと、
 使用人としてならずっと傍に置いて貰えると浅ましく思って今まで真実を話さずにいました」

 明彦は徐に立ち上がり、夕食の後片付けを始めた。
そして「私はこの後出て行きますが、お金は毎月お支払いするので心配しないでください」と私の方を見ずに言う。
 先程の彼の言葉でほうけていた私は急に頬を叩かれたような衝撃を受けた。
明彦は手早く皿洗いを済ませて今度は自分の荷物をまとめ始める。

「――いや!行かないで、明彦!」

 私は彼の背中にすがりついた。
私はこんな形で自立したかったのではない。
彼に一人前と認められるようになりたかっただけなのに。
こんな別れ方をしたら二度と彼に会えなくなってしまう。

お嬢様を慕う気持ちを抱えている私がこれ以上一緒にいることなどできません。
 何より・・・あなた様が気持ち悪いでしょう。父親を見殺しにした男に慕われるなど・・・」

 彼は抱きついた私の手をやんわりと引き剥がした。
けれど私と目を合わさないように顔を背けている。
私はそんな彼の両腕を強く掴んで揺する勢いで彼に迫った。

「そんなことない!
 私は・・・私が早く自立したかったのは明彦に一人前だと認めてもらいたかったから。
 明彦と対等な関係になって一人の女性として見てもらいたかったからなの」

 明彦は身体を硬直させぎこちなく顔だけを動かし、ようやく私の顔を見た。
私はしゃくり上げて言うことを聞かない喉から絞り出すように彼に言った。

「明彦、私は・・・あなたを愛しているの」
「――お嬢様、私は・・・私は・・・」

 私はもう一度、行かないでと言って彼の手を握った。
明彦は戸惑いながらも私から目を離せずにじっと見つめている。

「しかし、私は・・・榮太カ様を・・・」
「・・・私は許すわ。あなたの心情は理解できる」

 私に流れる恋に生きる血がそうさせたのか、父の明彦への仕打ちに失望したからなのかは分からない。
けれど私は明彦を責める気持ちにはなれなかった。
確かに手を伸ばせば届く位置に父はいて、声をかけていれば助かったかもしれない。
けれど亡くなった人は帰ってこないし、何より一番罪なのは放火犯だ。
明彦が咄嗟に憎い人間を放って逃げたことを誰が責められよう。

「――お嬢様・・・傍にいたいです。
 あなた様とずっと一緒に生きていきたい」
「ええ、私も」

 ようやく明彦は私の手を握り返してくれた。
今から私たちの新しい関係が始まるのだ。


 その後、私たち・・・というか主に明彦に関して決めごとをした。
明彦は私をお嬢様扱いしないこと。
家賃および生活費は明彦が、将来必要になった時の為に私は貯金すること。
明彦は深夜の仕事は辞めて、自分のやりたい仕事があったら私に遠慮せずに挑戦すること。
家事は分担すること。

「私から一つだけ、いいでしょうか?」
「ええ」

 その丁寧な話し方もやめて欲しいと言うと、明彦は恥ずかしいので明日の朝から、と照れくさそうにしていた。
そう言われてはもう何も言えないので私は黙って話を聞く。

「あなたにはもっと甘えてもらいたいのです。
 これまでずっとお嬢様は――」

「――・・・は、その・・・恨み言も悔やみ事も言わずに過ごされてきました。
 恐らく私の立場を思ってのことでしょうし、その志は立派なことです。
 ですが、本当につらい時や不安な時は頼って欲しいのです。
 勿論、何でも話せというわけではありません。
 私に話すことであなたが楽になるのなら、私はあなたの不安を分かち合いたい。
 ・・・率直に言うと、ただ私は可愛いあなたの我が儘を聞きたい・・・ということなのですが」
「分かった。ありがとう、明彦。
 ――では早速だけど、牛肉のワイン煮の作り方を今度教えてくれる?
 私も作れるようになりたいの」
「ええ、喜んで」

  
 
 仕事にも慣れてきた頃、私は小さな絽刺しの作品を二つ作り始めた。
そろそろもう少し広い部屋を借りようという話が出たので、新しい鍵につけるキーホルダーを作ろうと思ったのだ。
今度は色違いの七宝模様。明彦の分は昨日完成した。
 いつものように夜のひとときは明彦が読書をする横で作業をする。
少し目が疲れたなと思うと明彦の肩にもたれて休憩し、
本から目を離した彼と目が合ってにこりと微笑み合うこの瞬間が最高に幸せだ。

、お茶を入れてこようか?」
「いいえ、もう少しこのままがいい」

 明彦は穏やかな笑みを浮かべて私の頭をそっと撫でた。
私はしばしその感触を味わう。

「いつか大きな家を買って、の工房も作りたいね」
「明彦のカフェの横にね」

 私たちは顔を見合わせて微笑み合った。
そうして彼はお茶を入れに席を立ち、
私は再び「円満な家庭になりますように」と想いを込めて糸を刺す。 




―完―




サイト12周年記念です。(間に合いませんでしたが)
タイトルを見てミステリもしくはサスペンスか?と思って期待した方がいましたらすみません。

また記念作品なのに、少し人を選ぶような設定にしてしまい、申し訳ありません。
相手役が父親を見殺しにしたとか許せない方もいるのではないかなとか、不倫とか駆け落ちとか使用人とか。
この話を書こうとした時、重めの話にしたいと考えていたのとこういうレトロな世界観を書いてみたかったということもあり
こんな話になってしまいました。
地雷の方がいましたら本当に申し訳ありませんでした。

以上のような点があったので私自身もどうやって彼らの設定を書いたら良いか、
できるだけ読む方が不快に思わず物語に浸れるにはどう書けば良いのか分からなくなってしまい、何年も手が止まっておりました。
ですがやっとこさ書き終わり、とてもホッとしております。
この話の主人公さんはとても強い人ではありますが、明彦という存在があっての強さです。
私も悔やみ事など言わないようにしたい・・・。自分で書きながら己を反省しています。


ちなみに、この話を書こうと思ったのはだいぶ前で。
二年前だったか、仕事先で知り合った方から絽刺しの個展に誘われて行ったら
その繊細ながらも重厚で荘厳な雰囲気を持つ絽刺しにすっかり魅了されてしまい、絽刺しが出てくる話を書きたいと思ったのでした。
とはいえ、どんな柄にでもできる自由さも絽刺しにはあって、ポインセチアやクリスマスのリース、鯉のぼりなんかの作品もとても可愛らしかったのを覚えています。

↓は個展で写真を撮らせてもらった絽刺しの柄見本です。
私の写真技術がない&ガラケーで撮ったのでピントが微妙に合っていないし色味が悪いのが本当に悔やまれる。



絽刺しについてもっと知りたい方は 絽刺しとは で検索すると沢山ページが出てきますよ。
ここからはサイト名をご紹介しませんし、リンクも貼りません。
ここは特殊サイトなので相手にご迷惑がかかっては悪いですから。


というわけで、全体的に暗くて一方的な話ではあるのですが、
ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。
12周年を迎えたR⇔Rですが、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。



吉永裕 (2017.11.5)




メニューに戻る