モラトリアム狂想曲(カプリッチオ) 〜前編〜
今日は非常に蒸し暑い。
そんな中、密室状態のピアノ棟の一室で2時間程ピアノの練習をしていた私の集中力は弾けたように途切れ、
開いていた楽譜をバタバタと鞄に詰め込みピアノの蓋を締めると重い扉を開けて外に飛び出した。
動く空気の流れに思わずホッとする。
微かな風でもありがたい。
胸の間を汗が流れていくのを感じながら、無性にアイスが食べたくなった私は売店に一目散に向かう。
売店が閉店するギリギリの時間なのは気づいていた。
いつも本日のお勧めの弁当を教えてくれる優しいおばちゃんが片づけを始めているのが見える。
既に頭の中で買いたいアイスは決めていた。
2本1セットになっているパックに入ったアイス。
実際食べた感じはアイスというよりも柔らかいシャーベットなのだが、あのアイスの味はまさに私の大本命で甘さも食感も後味も全て私好み。
2本1セットなだけあって一度に全てを食べるのは量が少し多いけれど、個別パックになっているから家で食べれば保存もできるし、
友達と分けて食べたらとってもお得なのでかなりお気に入りのアイスだ。
「おばちゃん! ギリギリでごめんね、これください!!」
「全然構わないよ。はい、126円丁度ね。ありがとう」
おばちゃんの笑顔と手に入れたアイスに癒されながら、私はゼミ室に向かう。
ひとまず汗が引くまでアイスを食べながら一休みしようと思ったのだ。
「――ん…」
「あ……」
私はゼミ室のドアを開けて数秒固まる。
そこには入学してから2年は経つのに話をしたことのない男子――の姿が。
私と彼が所属している教育学部の総合文化教育課程文化芸能コースは一学年の定員が20名。
他の学部に比べると少ない方だが、基本的に定員10名のコースばかりである同学部内では比較的人数の多い学科である為か、
学科全員が仲良く一緒に教室移動したり食事を取ったりするようなことは滅多になく、少人数でバラバラに行動するのが常である。
したがって仲の良い友達2〜3人でいつも行動する自分は、最初の顔合わせや学科の新入生歓迎コンパなどで挨拶はしたことがあっても
世間話などしたことがない人も数人いるのだった。
くんはその中の1人。
端整な顔立ちとスマートな体型、そして無口で自分からはあまり人に話しかけることがないので、
女子たちの間ではクールで話しかけにくい人物として扱われており、外見的な人気はあるものの彼の周りは基本的に彼の同性の友人が数人いるだけである。
私も彼を遠巻きから見ている一人で、折角同じコースになったのだから挨拶くらいはしたいなと思っていた。
それに、真剣に授業を聞いている彼はとても凛々しくて格好いいので……できたらお近づきになりたい、という下心も少しはあるのだ。
「…ぇっと……お疲れ……」
唐突に目が合ってしまったので思わず挨拶のような言葉を発した。
言い終わった後にもう少し愛想を良くすればよかったとか、もっと気の利いた会話の続く言葉にすればよかったとか、
瞬時に頭の中で後悔と反省が渦を巻いたが、目の前の彼はそんな私の気をよそに穏やかな表情を浮かべる。
う…わ……っ笑った?
驚きを顔に出さないようにしていると、彼はノートパソコンに繋げているマウスから手を離して大きく伸びをする。
「お疲れ。こんな時間にどうしたん?」
「え、あ…えっと……今までピアノ棟でピアノの練習してて。
凄く暑いもんだから売店に走ってアイス買って、立ち食いもなんだしそのままここに……。
――あ、良かったらくんもどう?」
初めて彼と話したことと、彼が方言らしい言葉を発したことに動揺し過ぎて考えるより先に言葉が出てしまった為、非常に分かりにくい受け答えをしてしまった。
そんな恥ずかしさを隠すそうと私は持っていたアイスの袋を破り、2つセットになったアイスの片方を彼に差し出す。
「え、いいん? 食べるつもりやなかったん?」
「ううん、2つも一度に食べれないもん。
嫌いじゃなかったら食べて」
「わぁ、ありがと。暑いなぁっち思っとったんよ。
かといって、冷房はまだ入れられん時期やし」
彼ははにかみながらアイスを受け取った。
どこの方言かは分からなかったが、彼と少し話しただけでクールでとっつきにくいという印象がこちらの固定観念だったと分かる。
「あー美味しい」
「ホントやね」
「……ねぇ、くんは何をしてたの?」
私は窓を開けてそのまま窓辺に立つ。
立ち食いも…と先程言ったくせに、見事に今立ち食いをしているなぁと心の中で突っ込みながらも
彼と落ち着いて話せるベストポジションが分からなかったのだった。
「俺? 俺は調べ物……?
進路どうしようかなっち思って」
「へぇ…今から準備してるんだ。偉いね」
「またまた。そう言うさんこそピアノ棟におったってことは、保育士試験の実技の練習しよったんやろ?」
「えっ、何で知ってるの?」
私は思わずアイスの容器を握りしめる。
「さんっち、コースの中で結構、有名やもん。
保育士資格取る為にこの学科には関係ない幼児教育コースの授業も積極的に受けよるって。
更に大学の授業にない科目は教材を取り寄せて自学して実技のピアノも空いた時間に練習しよるっち、皆知っちょうよ」
「そうなんだ、知らなかった……」
「あは! 当事者なのに何も知らんやったとか。意外と鈍いトコあるんやね」
「そうかも……」
くんが私のことを知っててくれていたことが何だがとても嬉しい。
恥ずかしくなった私はアイスをモリモリと食べる。
「そこまでするんやけ、さんっち保育士になりたいん?」
「ん……いや…うん、なりたいといえばなりたいのかな……」
何気ない彼の一言で、私の心は急にズンと重くなる。
「高校の時、進路を凄く迷ったんだ……。
一番なりたかったのは保育士だったんだけど、学芸員にも憧れててね」
私はあまり自分に関する深い話をするのが得意ではない。
感情が入る為か、どうにも順序立ててうまく説明ができないのである。
「……両親が世間体を結構気にする人でさ、古臭い思考の持ち主で。
ランクが上でなくてもいいからとにかく国立の大学に入れって言われちゃってさ。
……私、昔から両親に対して自分の意見とか言えないんだ。
厳しい人達だから何か……怖くって。
それに学費とか生活費とか殆ど払ってもらうわけだから……大人しく国立狙うことにしたんだけど。
だけど、国立の大学で保育士資格が取れるところは偏差値が全然足りなくて。
それで保育士は諦めて、学芸員になる方法を探して……
そしたらこの大学のこの学科なら学力的にもなんとかなりそうだったから受験したの。
実際、大学で色んな勉強をしたら学芸員の方に興味が湧いてきたんだけど、
でも、幼児教育コースの人から大学に2年以上在籍して62単位以上を修得したら保育士資格の試験を受験できるって聞いたら、
将来どうするかはまだ決められないけど、資格だけでも取っておきたいなって思ったんだ。
私なりの両親に対するちょっとした反抗…っていうか、意思表示?みたいなものなの」
もっと分かりやすい文章で話せたら良いのだけれど、と思いながらこれまでのいきさつを話した。
すると静かに話を聞いていた彼はうんうんと数回頷く。
「さんっち真面目やね。あ、良い意味で。
俺とか何も考えずに、そこそこの努力で入れそうな大学選んで、何となく授業受けてるだけやもん。
最近は流石にいい加減ヤバいって思い始めたんやけどさ……。
――でも、本当にやりたいことが何なんか、分からんのよね」
少しくんの表情が曇る。
何となくだけれど、彼の言う言葉の意味が分かる気がする。
勿論、私は学芸員という職業を目指しているつもりだけれど、学芸員でも美術系だとか歴史系だとか細かい分野まではまだ決められないし、
本当にこれが自分のしたい仕事だろうかと思うことは多々あって、何より求職があるのだろうかという現実的な不安もある。
大学時代はモラトリアムという言葉を何かの授業で聞いた気がするが、確かにそうだ。
いつまでも授業はそこそこで遊びやサークルに全力投球している人もいるし、大学院進学を目指して勉学に勤しむ人、
入学した時からバリバリとアルバイトをして社会人並みの収入を得ている人など様々だけれど
世間的にも、自意識的にも、自分たちは誰かしら何かしらの擁護のベールでうっすら包まれているような気がする。
これからは責任感を持て、何でも人任せにせず自分で行動しろと大学最初の新入生セミナーで言われた為、そのように行動しているつもりだが、
それでもどこかで最後の学生生活なのだから楽しまなければという自分も存在するのも事実。
それが不安定で青臭い、まさにくんや自分が抱えるモヤモヤした気持ちを生じさせるのではなかろうか。
その迷いこそがまさに猶予期間の証である――と、思わず自分の中でまとめてしまう。
レポートを書いているような気分になったので、私は慌ててアイスを絞り出し現実に意識を戻した。
「……でも、何となく授業受けてるって言ってたけど、くんって成績良いんじゃないの?
いつも試験前は皆に囲まれてる気がするけど」
「ああ……まぁ、そう言えばそうやね。テスト期間限定でモテ期がくる感じやか。
俺も意外と根は真面目なんよね。やけ、授業は無意識に真面目に受けてしまうんよ。
テスト前に一夜漬けする方法は俺に合ってないみたいやし、俺はコツコツ頭に入れてくのがいいらしいけ。
でも、勉強自体はどの分野でも好きやけ苦にはならんのやけど」
「勉強が好きって……凄い才能だと思う!
くんって私よりも学芸員に向いてるんじゃない?
もしくは研究職とか、あ、ここ高校教諭の免許も取れるから先生にも向いてるかも」
「………っ」
私が色んな彼の将来を想像しながら言葉を発すると、彼は一瞬驚いたような顔を浮かべたが、すぐに吹き出した。
「さんってホントに真面目で良い人やね。
何か急にそれらの職業に興味出てきたし。俺って現金やなぁ」
彼は肩を揺らして笑っている。
そんな彼の姿に驚くものの、何だか悪い気はしなかった。
彼の笑い顔が可愛いとさえ思う。
「あ…外、暗くなってきた。わっ、もうこんな時間とか。
日が長くなると時間の感覚が分からんわぁ」
「そうだね」
彼はアイスを食べ終わり私に御馳走様と言うと、ごみ箱に捨ててパソコンの電源を切る。
私も空になったアイスの容器を捨てて、携帯で時間を確認した。
「――そうだ。
ちょっと行きたいところがあるんやけど、良かったら付き合わん?
帰り、送って行くし」
「あ……うん、いいけど」
突然の誘いに思わず心臓が飛び出そうになる。
今日は心の準備がないままに物事が進んでばかりだ。
「チャリで来た?」
「ううん、歩き」
「俺も今日は歩きなんよ。
急にパンクして困ったちゃ」
「えっそうなの!? 私も一昨日パンクしてさ。
近所の自転車屋さんが閉店しちゃってから、他の自転車屋さんが分かんなくて放置してるの」
「ああ、そうなん。もしかしてチャリ、○○スーパーで買った?」
「そうそう。入学前に安売りしてて」
「俺も安売りで買ったんよ。
でも、すぐにパンクするしブレーキとか錆びて凄い音がするんよね。
俺が全く手入れせんからかもしれんけど」
「分かる分かる!」
そんな話をしながら彼はどんどん歩を進めていく。
偶然にも私の帰る方向と同じである為、周りは見慣れた景色である。
しかし、いつも自分が曲がるところで彼は真っ直ぐの道を選んだ。
「私、いつもあの道を通るの」
「そうなん? 俺もそっち通って帰ることあるよ。結局、向こうで道が繋がっとるんよね。
こっちの道の方が早いけ、いつもはこっち通るんやけど。
――あ、俺んちってここを真っ直ぐ行って突き当たりを左に曲がった所にある自販機のすぐ傍のアパートなんよ」
「え、私もあの自販機の近くだよ!
じゃあ、私もこれからこっちの道通って帰ろうかな……」
「それは止めた方がいいと思うなぁ。
ここ、街灯も家も少ないけ暗いやろ? 一人で帰るんは危ないよ」
「そっか……じゃあ今まで通りに帰ろうっと」
「うんうん」
こんなにも気さくに話ができる人だったのだなぁ、と嬉しく思いながら私は彼の隣を歩く。
こんなことならもっと早く話しかけておけば良かったと思ったものの、やはり自分には無理だなと思い直し、
これからは仲良くなれるように頑張ろうと思った。
「今日もおるといいけど……」
辺りに小川の流れる音が聞こえる。
それまで道の両側はアパートだらけなのだが、緩やかなカーブを曲がると溝を少し広くしたような川と小さな山が右側に現れるのだった。
「なに? 動物?」
「んー……まぁ、そんなトコかな」
そう言うと彼は歩く速度を落とすので、私も彼の後をついていくようにゆっくりと歩を進める。
「――あ!」
薄暗い中、じわりと点滅する緑のような黄色のような光。
「蛍だ!」
思わず私の声が大きくなる。
蛍を見るのは何年ぶりだろうか。
「良かった、今日もおった」
「うわー、こんなところに蛍がいるんだね」
「あんまり多くはないけどね」
辺りを見回すと、ゆっくりと点滅したり宙にすぅっと線を引くように移動する蛍の光が見えた。
「そう言えば、おばあちゃんが“蛍はもわっとした暑い夜によく出るんだよ”って言ってたな。
寒い日とか雨の日は出ないって」
「へぇ、なるほど……」
「蛍って5月末でも出るんだね」
「そうやね、ここ数日蒸し暑いけかも。
うちの地元は6月上旬に蛍祭りって祭があるし……ホントはもう少し遅いんやろうけど」
「へぇ、そんなお祭りがあるんだ!」
「そんなに大規模やないけどね。
綿菓子とかイカ焼きとかちょっとした店が出て、ダンスとか歌とか催し物があったり。
それで、蛍を見るには会場から出て田んぼのあぜ道を通って少し離れた川岸に行くんよ。
丁度、蛇も出る季節やけ、短パンとかサンダルとか草履は履いたらいけんっち子どもの頃から親に言われてね。
蛇だけやなくて川に落ちんように足元には気をつけるんやけど、でも、蛍を捕まえようとして大概水に濡れるんよね」
「わぁ、楽しそうだね」
「田舎ならではって感じやろ?」
「うん、そうだね。
歩いて行けるところにそんな良い場所があって羨まし――あ…こっち来た!」
私は近くに止まった蛍にそっと近づく。
そして一歩踏み出して手を伸ばそうとするが、反対の手をガッと掴まれた。
「ちょっ…あんまりそっち行くと落ちるよ!?」
「あ……っ…ご、ごめん」
力強く握る彼の手の感触を感じながら私は慌てて道路に戻った。
「……さんっち、目の前のことで精いっぱいな感じやね」
「…よく言われる。不器用で要領悪いの」
「完璧な人っち思っとったけ、ちょっと安心したよ。
要領良過ぎるよりもちょい不器用な方が可愛いやん」
「…そ、そうかな」
「うん」
手はまだ繋がれたまま。
恥ずかしくて彼の顔が見れない。
何だか体温が急上昇した気がする。
それにやたらと心臓の音が煩い。
「――じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「…うん……」
互いに繋いだ手のことは何も言わずに再び歩き始める。
彼とはついさっき初めて挨拶を交わしたというのに、どうしてこんなに胸がドキドキするのだろう。
「――あ、私のアパート着いた」
「あ、ここなんやね。俺んトコの裏やん」
「お家、通り過ぎたのにわざわざ送ってくれてありがとう」
「すぐそこやし。じゃあ……」
そう言うと私たちは同時に繋いだ手に視線を下ろした。
「――その……ごめん。
俺、何か……ずっとさんと話したいっち思いよったけ……ちょっと調子に乗った」
思わずバッと顔をあげた。
彼は顔を赤くして俯いている。
「…あの、私も……くんとずっと話したいって思ってた、よ……?」
私がそう言うと今度は彼が顔をあげた。
きっと私の顔も今、真っ赤だと思う。
「――じゃあさ、今度……近いうちにでも、一緒に自転車屋に行かん?
俺、案内するし」
「あ、うん。是非……」
そう言ったら彼はホッとしたように笑った。
一瞬、胸がキュウっと締めつけられる。
「それじゃ……また明日、学校で」
「うん、またね」
どこか離し難い気持ちをよそに手が解放される。
汗ばんでいて恥ずかしい気もしたが、きっとお互いそれどころじゃないと思った。
手を繋いでいたせいか、今、彼の気持ちとシンクロしているような気分だ。
この気持ちは、嬉しくて、楽しくて、少し気恥かしい、そんな感じ――
「おはよう」
「お…おはよ!」
1コマ目の授業が始まる前、既に席に着いていた私に教室に入って来たばかりのくんが声をかける。
昨日のことは夢じゃなかった、と改めて実感すると共に昨日のドキドキが蘇ってきた。
「、くんと仲良かったの?」
隣に座っていた友達が驚いた様子で問いかける。
「仲がいいって言うか……昨日、たまたまゼミ室で会って少し話しただけなんだけど。
でも、話してみたら凄く気さくで親しみやすい人だったよ」
「へぇ〜、私も話しかけてみようかな」
そんな話をしていると教官がやってきて授業が始まった。
――何だろう、何となく優越感。
彼がこの教室内で挨拶したのは私だけ。
私しか知らない彼のことを、本当は誰にも話したくなんてない。
でも、クールで近寄りがたいなんてイメージをずっと持ち続けられるのも嫌だなと思って。
それでも昨日のことは――蛍を一緒に見て、手を繋いで帰ったことは、二人だけの秘密にしておくんだ。
――って、二十歳過ぎてるくせに。
なに一日話しただけで恋に落ちてんだ、乙女かよ!?
「……とか心の中で突っ込みつつ、試験に関係ない“乙女の祈り”を弾いてしまう私であった……」
4コマで今日の授業が終わり、いつものようにピアノ棟に向かった私はピアノを弾きながら独り言を呟く。
あれだ、恋に恋してる感覚なのは分かっている。
でも、自分でも不思議なくらいに“嫌”じゃなかったのだ。
彼に手を握られたことも、ずっと話したかったと言われたことも。
彼の独特な喋り方、照れた顔、笑顔、何だかどれも新鮮で頭から離れない。
『コンコン』
曲を弾き終わると、ドアをノックする音が聞こえた。
ドアの方を向くと、ガラスがはめ込まれた部分から見えたのは今まで頭の中を占領していた人、くんの姿。
動揺して思い切り音を立てて立ち上がってしまう。
とりあえずピアノの片隅に置いていたハンカチで顔を拭いた。
そんなことをしても、汗やら皮脂やらで大変で残念なことになっているのは変わりそうにないが、ひとまず気持ちを落ち着けてドアへ駆け寄る。
「……どうしたの?」
重い金属製のドアを開く。
するとくんははにかんだ表情を浮かべた。
「さんがピアノ棟に入ってくのを見かけて……。
昨日、ピアノ棟が凄く暑いっち言いよったけ…休憩がてらにどうかなと思ってアイス買ったんやけど……
その…良かったら一緒に食べん?」
「え…あ……うん、食べる。ありがとう!」
「良かった…あ、でもちょっと溶けとるかもしれん。
さんの演奏、邪魔したらいけんっち思ったけ、曲が終わるの待っとったんよ」
「そんなに気にしなくてもいいのに! じゃあ、急いで食べよう」
そうして、ピアノの椅子半分ずつに腰掛けた。
お互い、微妙に身体を外向きに傾けるが、肘が少しぶつかる。
「昨日のと同じ味で良かった?」
「うん! 私、この味が一番好きなの。毎日食べても全然飽きないし」
彼はアイスを切り離して私に手渡す。
両手に冷たい感覚。まさに極楽気分。
「俺、初めてピアノ棟に来たわ。結構……適当な部屋なんやね」
「そうそう。純粋にピアノしかないの。
まぁ、国立の教育学部が所有する建物だから仕方ないかもしれないけど。
それにしても、もうちょっとピアノを大事にして欲しいんだけどなぁ…」
ピアノ棟は窓もないコンクリートの壁、ガラスの入った重い金属のドア、そしてピアノと椅子しかない無機質な小部屋で構成されている。
したがって夏場は地獄のように暑く、冬場は極寒である。
「それにしてもさんってピアノ上手いんやね。
ずっと習っとったん?」
「……うん。
小学校の中学年頃から始めたんだけど、自分でお金を稼ぐようになるまで続けるならって条件で習わせてもらった手前、
大学入ってアルバイト始めるまでずっと辞められなくて……。
……なんか私って何事も消極的活動でしょ? ピアノも大学選びも保育士試験も……」
「消極的でもやるんやけいいやん。 やりたいなって口で言うだけで行動せんよりいいやろ。違う?」
「それもそうか」
不思議だ。くんと話してると穏やかな気持ちになれる。
勿論、心臓はドキドキしっぱなしなのは変わらないけれど。
「さんっちさ、自分語りが結構苦手なタイプやない?」
「うん、そうみたい。昔から自分に関することを順序立てて話すことが苦手なんだ。
……でも、くんは私が話し終わるまで待っててくれるから…そこまで緊張しない。
ありがとう……」
「いや、俺は特に何もしとらんし……」
「……あはっ!」
「え、何なん? 俺、おかしいこと言った?」
「ううん、何て言うか……くんって第一印象とだいぶ違うんだもん。
もっとクールで近寄りがたい王子様みたいな…」
「ちょ、王子とか有り得んし! 普段の俺、そんなに偉そう?」
「いやいや、偉そうとかじゃなくて。純粋に女子たちの憧れの的って意味だよ。
ほら、無口でクールだと生活感がないし、何か神秘的な感じするじゃない?
外見もいいから尚更それで興味を引くんだよ」
「え、そ、そんなもんなんかなぁ?
ただ俺は男子校で寮生活やったけ、女子に対して苦手意識があっただけなんやけど……。
うちのコース、女子の方が圧倒的に多いやん? やけ、集団やったら迫力も半端ないし…」
「ああ、そうなんだ。
……そうだよね。私も高校の時、女子が多い文系クラスだったけど男子が肩身狭そうだったもん」
では、素の彼は今の彼に近いのか…と私は思った。
今のところ女子の中で彼と普通に話せるのは私だけ。
私だけ――
「あ、そうだ。この後、暇?
良かったら自転車屋さんに案内して欲しいんだけど……。
明日、カテキョのバイトで自転車使うから」
「いいよ、俺もさっきの授業で終わりやし。じゃあ、一度チャリ取りに家帰ろうか」
「了解!」
きっと今の私は心から嬉しそうな笑顔で頷いていると思う。
だって、何だかとてもわくわくするではないか。
わざわざアイスを買ってきてくれて、一緒に自転車のパンクを直しに行って……
多分、いや確実に、嫌われてはいないと思うもの。
自惚れてもいいのかな……。
――良さそうじゃない?
このくらいの年齢の恋の仕方は分からないけど。
こんな風にフィーリングで恋に落ちるのも、モラトリアムの傾向なのかもしれない。
その後、二人で自転車の修理に行き、そのままファミレスでご飯を食べることになって
最終的には家まで送ってもらうことになった。
時刻はもうすぐ19時半。
私たちは家の前で立ち止り、少し沈黙。
「――あ…っと……良かったら、お茶とか飲んでく?
……ってか、今ご飯食べたばかりだからお腹いっぱいだよね!」
何口走ってんの、私ったら……っ。
そこは、今日は自転車屋さんに連れて行ってくれてありがとうとか、ご飯、御馳走様でしたとかでしょ!!
沈黙を打ち破りたくて発した自分の言葉に自分で恥ずかしがる。
くんはそんな私の混乱に気付いているのか、ニコッと笑った。
「じゃあ、ちょっとお邪魔しようかな。
今日の授業、ファミレスで説明してもらったトコ以外にも分からんトコあったし、また教えてもらっていい?」
「う、うん。私で分かることなら……。
じゃあ、汚い部屋ですがどうぞ」
何だかギクシャクしているのを自覚しながら自転車を停めてアパートの自室へ向かい、鍵を開ける。
洗濯物は今日はないし、部屋もそれほど汚くない筈…と思いながらチラッと部屋の状態を確認してから、彼に上がってもらう。
「へぇ、外見も同じやったけど、間取りとか家具もうちんトコと同じっぽいね。
不動産屋が同じやけやろうけど」
「そうなんだ。中身は微妙に違うかと思った。
あ、ソファにどうぞ」
「ありがと。じゃあ、座らせてもらうね」
「麦茶でいい? ジュースとかコーヒーがいいなら自販機で買ってくるけど」
「わぁ、そんな気遣わんで。麦茶で十分よ」
「――あ、缶チューならあるよ」
「ちょ、何でジュースはなくてチューハイ? 酒、好きなん」
「付き合い程度には飲める方だけど、でも一人じゃ飲まないよ?
友達の誕生日パーティーした時に余った奴なの」
「じゃあ、それ飲む? 一人やったら飲む気せんのやろ?」
「うん、じゃあ飲もうか」
床に直接置くタイプのソファに座り、上半身を捻ってこっちを見る彼は笑顔で頷いた。
くんってお酒、好きなのかなと思いながら冷蔵庫から缶チューハイを取り出す。
そして彼の隣に座り、彼に好きな味を訊ねてそちらの方を渡し二人で乾杯。
「あー、暑い日に飲むと一際美味しい」
「くん、なんかその言い方オヤジくさいよ」
「うわ、ショックやし」
「あはは、冗談だって。私も同意見」
お酒が入ったこともあってか、私の緊張は解けて和やかな気持ちになった。
そうして彼に授業で分からなかったところはどこか聞く。
「ここの意味が分からんくって。
……あの先生っち、何を言いようか分らんくない?」
「うんうん、回りくどい説明好きだよね。
私も意味が分からないことが多いよ」
「やろ? 試験問題も意味分からん出され方されたらどうしよ」
「それかなり困るね」
教官には申し訳ないけれど、私たちはその教官の文句という共通の話題で暫し盛り上がった。
それから私が借りていたサスペンス映画のDVDを見ることになり、
電気を消して二人並んで2本目のチューハイを手に持ち、DVDの再生待ちをする。
「さんってサスペンスとか推理モノが好きなん?」
「うん。でも、これは結構エグいってレビューがあったから、借りたものの一人じゃ見れないなぁって思ってて。
くんがいてくれて良かった。くんはこういうの大丈夫?」
「うん、平気よ。恋愛モノよりもサスペンスとかアクションの方が好きかな。
なんか恋愛モノって恥ずかしくて」
「分かるなぁ。私もなんか人の恋愛覗いてるみたいで敬遠がち」
そうして映画が始まった。
所々、目を逸らしたくなる刺激の強い暴行シーンが出てくる。
「大丈夫?」
「――っ……って、わーーーー!?」
テレビからの光しかない空間だからか、それとも直前のシーンが悪かったのか、
私はすぐ隣から聞こえたくんの声に激しく驚いてしまい、缶チューハイを手から離してしまった。
そして自分とくんに豪快にぶちまける。
辺りは暗いものの、私が着ていた白のホルターネックワンピースと彼の薄いグレーのTシャツの色が変わっているのが分かった。
「ごめん! 大丈夫!?」
「あ、大丈夫大丈夫。それよりさんの方が……」
「私は後でいいよ。とにかく、シミになるからすぐ洗わないと!」
「――っ……あのっ……さん」
そこで私はハッとして静止する。静止するというよりも、固まってしまったと言った方が正しい。
酔っ払っているのと慌てているのとで平常心を完全に失った私は、彼を半ば押し倒すような形でシャツを捲り上げていたのだった。
「ご…ごめん!! 私、なんか酔っ払ってるね……」
「いや…普段見れんさんで可愛いよ」
「……っ」
「…俺も大概酔っとうね」
自嘲するようにそう言うと、彼は私の腰に手を回した。
彼が手にぐっと力を入れると、二人の身体が密着して今にも唇が触れそうな所に顔がある。
チューハイの甘い匂いと、濡れた洋服から伝わる相手の熱、爆発しそうな程に拍子を打つ心臓の音に思考力が奪われて、今にも眩暈がしそうだ。
「あ……あの…ごめん。混乱しすぎて…身体…動かなくて……」
「いや……俺が抱きしめとるけ動かんのよ?」
「え、あ……」
「――放したくないんやけど…ダメやか?」
「………」
間近で聞こえる彼の言葉に答えることができず、私は視線を落とし彼の濡れたシャツをギュッと握った。
彼の右手が頬に触れ、顔が近づく。
「…気がつくと好きになっとったんよ。話したこともなかったんに、一方的に……」
唇が触れるか触れないかくらいのところで彼が微かに口を動かす。
私はゆっくり目を閉じた。
それと同時に唇が重なる。
――私も、好きだ……。
私、くんが好きなんだ。
さっきまでの不安混じりだった胸のドキドキが少し柔らかいものに変わっていく。
長いこと息を止めていられなくて顔を離すと再び捉えられ、またキスの始まり。
彼の方に傾いていた身体は少しずつ押し返され、今度は彼が私の上に倒れ込む形になった。
目の前には彼の顔。
少し荒い息が顔にかかって少しこそばゆい。
「二人してチューハイの甘い匂いがするね……」
「洋服に滲みとるしね。舐めたら美味しいんやない?」
そう言うと彼は私の左手を取って手首をペロリと舐めた。
「んっ…くすぐったいよ」
「ワザとしとるし」
「……くんって…意地悪なの?」
「好きな子に対してはそうかもしれんね」
彼が好きという単語を言う度に胸がキュウっと締めつけられてしまう。
私は彼の背中に手を回して服を強く握った。
「さんの色んな顔、見たいんよ。笑った顔も困った顔も怒った顔も、全部。
俺、自分で思っとったよりもずっと欲深かったみたいやわ」
彼はそう言い、見上げる私の額や頬や顎にキスを落としていき、最後にまた唇を塞ぐ。
顎を少し押されると、口の開いた隙間から舌が入ってきたのが分かった。
私の気持ちを窺うように優しく軽い接触。
恐る恐る差し出した舌先に彼の舌が触れる。
唾液のぬめりで滑らかに動く舌の感覚と口の中に広がる甘い香りに中てられて、私の身体は溶けてしまいそうだ。
「…っふ……ぁ…」
私の唇を解放した彼の唇は少しずつ下がっていく。
顎の形に沿うようにキスをして、首の筋をなぞるように舌を這わせる。
「――っ……」
彼の手がウエストに触れた。
唇は鎖骨に到達している。
「服、絞れそうなくらい濡れとるね。
缶の中身、殆ど零したみたいやね」
「…ぁ…ごめん……。私がひっついたからくんの服、もっと濡らしちゃって……」
「このくらい構わんよ。
――あれやったら…一緒に脱ぐ……?」
「…ん……」
恥ずかしくなって横を向いた私の頭を彼はそっと撫で、髪の上から耳にキスをした。
その傍ら、ワンピースの紐が解かれていく。
彼の手は慣れているようでどこかぎこちない。
そういえば女子が苦手と言っていたから、もしかすると女子と付き合った経験が少ないのかもしれないな――
私はそんなことをふと考えて少しくすっと笑った。
何だかんだで拒むことなくもう腹を決めてしまっている自分が非常に照れ臭い。
それにくんは本当に私を大切そうに触れてくれる。
それが嬉しくて恥ずかしくて、とても愛おしい……。
「…ぁ……」
身体に張り付いていたワンピースが取り払われた私をシャツを脱いだ彼が抱きしめる。
華奢に見えるけれど、触れてみると意外に筋肉質だ。
「下着まで濡れとるね」
彼は身体を少し離すとクスっと笑った。
ワンピース一枚しか来ていなかった為に、ブラジャーやショーツにも酒の被害が及んでいたようである。
「――っあ!」
私の身体がビクッと反応した。
彼の舌が下腹部を這い、手は太ももに伸ばされる。
舌先で軽く舐められる度に背中にゾクゾクとした感覚が走り、足が動いてしまう。
「ちょっとだけじっとしとって?」
勝手に動いてしまう私の太ももを持ち上げて自分の肩にかけるとくんは太ももの内側に吸いつくようなキスをする。
「あっ……待って…恥ずかしい…」
彼に向かって開脚しているようなこの状態が恥ずかしくて仕方ない。
そんな私の言葉が聞こえているにもかかわらず、彼は太ももを食べるようなキスを繰り返す。
「……っ…んっ」
彼の指がショーツの上から私の股間に触れる。
チューハイによって濡れたショーツが肌に張り付き、ぷっくりとした谷間が露わになっているのが彼の手の感触で分かって余計に恥ずかしい。
「――怖くない? 大丈夫?」
彼が触れた瞬間、ビクッと身体を硬くさせた私を心配したのか、彼が耳元で優しく囁く。
「…怖いって言ったら止めるの……?」
「難しいけど、嫌なら止める。怖いだけなら怖がらせんように頑張るよ。
俺、前にも言ったけど女子と関わるの苦手やけ……技術的な面で楽にさせてあげれんけど、その分、誠意を持ってするつもりよ?
けど、理性的には限界きとるんよ。酒も入っとうし」
「くん、正直過ぎだよ」
クスッと笑いが出た。
彼が真っ直ぐ気持ちを話してくれたおかげで緊張が解けた気がする。
「ちょ、笑わんでよ。……さん、自分がどれだけ可愛いか自覚してないやろ。
俺、さんの些細な仕草でいちいちグッとくるんやけ」
「……ありがと。好きだよ…」
完全に肩から余計な力が抜けた私は彼の首に手を回した。
少し上半身を起こして自分から彼にキス。
彼の手がブラジャーのホックを外そうと奮戦している。
その間、私は彼の唇を軽く啄ばむようなキスを繰り返す。
「…すごく…好き」
「……私も…」
彼の身体も私の身体も冷房が必要なくらい火照っていた。
〜後編へ〜