翌朝、は並べた椅子に横たわった状態で目が覚めた。
奥に仮眠用のベッドがあるのに何故こんなところで眠っていたのだろうか、とは首を捻る。
「でもまあ、いいか」と思った時、の胸は急に速く脈打ち始めた。
それと同時にどうしてか焦燥感のようなものが湧いてくる。
「まあ、いいか」では許されない何かを感じるのだ。
――何か大切なことを忘れている?
気持ちを落ち着けるべく、はコーヒーをサーバーで抽出しミルクと砂糖をたっぷりと入れた後、
椅子に座ってゆっくりと口にした。
うんと甘いコーヒーというよりもカフェオレに近いその飲み物を飲んだ時、
の頭にきらりと星のようなものが瞬いた感覚がする。
――以前、誰かと一緒にこんな甘いコーヒーを飲んだことがあった気がする。
自分が入れたのか、それとも相手が入れてくれたのか。
あれこれと考えてはみたものの、は思い出せなかった。
そのことでよりいっそう焦りが強まる。
こんな仕事に関係のないことなど思い出せないところでどうでもよい筈なのに、
頭の片隅で「考え続けろ」と命令する自分もいるのだ。
けれど一体何を――と首を傾げながらもは空の紙コップを片付け、
完全に頭を覚醒させる為に朝食を摂ろうと考えて売店へと向かった。
「おはよう、ちゃん。今日はどうするんだい?」
「おはようございます。今日もいつもの……」
売店にいる女性といつものように挨拶を交わすが、
はいつも購入しているサンドイッチに目を向ける途中で動きを止める。
「アップルパイ……」
「今日はアップルパイも買うかい?」
「はい…、一つください」
妙にスティック状のアップルパイに気を惹かれたので
はいつものサンドイッチと野菜ジュースはやめて、アップルパイと紅茶を購入することにした。
売店のアップルパイは研究所に勤め始めてから今まで食べたことがなかった気がするのに、どうしてこんなに興味を惹かれてしまったのだろうか。
そんなに美味しそうに見えただろうか、とは手元のアップルパイをじっと見つめた。
端の方を一口齧ってみる。
本格的なものとは少し違って、風味づけにリンゴジャムが使われたアップルパイだ。
もずっと昔に食べたことがある有名メーカーのものである。
味が悪いわけではないが、特別気を惹く何かがあるようには思えない。
それでもこのアップルパイを食べていると先程の焦燥感が強まる気がした。
このアップルパイも、カフェオレのようなコーヒーと同様、何かを思い出す為の鍵のようである。
けれど一向に答えは見つからず、は仕方なく午前中の仕事に集中することにした。
仕事に一区切り付き、は昼食を摂ろうと席を立つ。
一人で食事をするのも味気ないので誰かと…と、携帯端末を操作しようとして立ち止まる。
自分にはミュウしか友人がいないのだから、誰か、なんて考える必要などないのに。
変だな、と思いつつもは隣のミュウのブースに向かった。
衝立の前で声をかけると返事があったので遠慮なく中に入る。
彼はまだ仕事の最中のようだ。
「もうちょっとで切りがよさそうだから待っててくれる?」
「はい、いいですよ」
そう言ってはミュウのブースにあるソファに腰かけた。
彼が向かっている画面の向こう側にはブラインドがいつも閉まった窓がある。
機器類が置かれているので直射日光を避ける為にそうせざるを得ないのだが、
ふとはあの窓の向こうはどうなっているのだろう、と思う。
「――ミュウ、たまにはブラインドを掃除していますか?」
「ううん、全然してないなぁ。目に見える埃だけささっとハンディモップで取るくらい」
「私もです。たまにはブラインドを開けて窓枠や桟も拭き掃除した方がいいかもしれないですね」
「そうだね。この仕事が一段落したら掃除しようか」
「そうですね。
…そう言えば、埃対策とはいえここで窓を一度も開けたことがなかったんですけど、外の景色ってどんな感じなんでしょう。
この研究所の周りって…どんな建物がありましたっけ?」
は外の風景を思い出そうとするが思い出せなかった。
ここのところずっと研究所で過ごしてきたせいで外の景色も忘れつつあるなんて忌々しきことだと溜息を吐く。
「面白味もない普通の街の風景だよ。同じような高層の建物が立ち並んでるさ」
「ああ、そうだったですね」
ミュウがそう言うと、そんな風に思えてきた。
確かに研究所の周りは同じような縦長の建物ばかりで無機質なイメージのする街だった気もする。
――しかし、は「あれ」と声を上げた。
そう言えば、自分は最近、窓の外を見なかっただろうか?
更には研究所の外に出たような気もするが…。
「ミュウ、最近、私たち外に出ませんでしたか?
何か…とても大事な用事で」
はミュウの背中に疑問を投げかけた。
けれど急に頭を締め付けるような頭痛がし始め、は頭を抱える。
――この頭痛もどこかおかしい。
急に現れるところは片頭痛のようでもあり、痛みの特徴からは肩の凝りから来る緊張性頭痛のようにも思えるが、
いつも何かを思い出そうとして頭痛に襲われるのだ。
もしかして別の病気という可能性もあるが…どちらかというと防衛機制のような感じもする。
たとえば、思い出すことによって心身ともに受け入れがたい苦痛を引き起こす何かを自分が記憶の中に持っているとする。
その記憶を思い出しそうになった時、頭痛を起こすことでそれ以上思考することを中断させ、
自我を守ろうとする無意識の身体の働きのことを広い意味で防衛機制と言う。
とはいえ、自分を無意識に守る程にトラウマとなるような過去を持っていただろうか、とは不思議に思った。
寧ろ何らかの大きな力が「これ以上余計なことを考えるな」と圧力をかけているような、そんな気がした。
以前、読んだ文学作品には、悪いことをすると体の一部を伸ばされたり、
身に着けたアクセサリーを締め付けられて懲らしめられる主人公たちもいた。
自分も彼らのように何かしでかして罰を受けているのかもしれない――なんて一瞬考えたけれども、
そんな不可思議なことがある筈はないとは思った。
「そんなことあるわけないじゃない。
ボクらは仕事とナナミのAL作製で忙しいんだから」
「…そう、ですよね。
昨日は変なところで寝入っていたのでまだ寝とぼけているのかも知れません」
そう言ってはその話は打ち切った。
すると頭痛はぴたりと治まるのである。
は何とも言えないこの違和感の正体が知りたいと思い、食堂に移動する間、
ミュウの後ろで携帯端末に“甘いコーヒー”“アップルパイ”“頭痛”“研究所の外”と入力し、最後に“違和感”と付け加えた。
ミュウとの昼食を済ませたは自室に戻り、リップバームの容器を取り出そうと机の引き出しを開ける。
するとそこには白い綿のハンカチが綺麗に畳まれて入っていた。
何故かそのハンカチを見た途端に心がざわつき始め、鼓動が速くなる。
「これは…」
ハンカチの隅には南天の実が刺繍されていた。
それを見た瞬間、の体の底から記憶の欠片が噴き出すように溢れてくる。
――表情が硬くて皮肉屋の甘党で、でも本当は優しくて聡明な人。
真実を自分で見つけろ、違和感にしがみ付けと言って姿を消してしまった――ミカサ、という青年。
別れ際に自分は彼と約束したのだ。
だから違和感に気づくことができたし、彼を思い出すことができた、と
はこみ上げてくる感情を押さえられずに、そのまま時も場所も憚らず泣き喚いた。
ミカサの居ないこの世界に絶望し、この世界の真相に気づいた為だ。
「、どうしたの!?」
の声が聞こえたのだろう、ミュウが慌てて彼女のブースに駆け込んでくる。
けれどはミュウの問いには答えなかった。
「――ミュウ、この世界は貴方が創ったものですね?」
の口から発せられた言葉にミュウの表情は固まる。
そんな彼の様子など気にも留めず、は話を続けた。
「以前、ネープル帝国内の原因不明で調査が止まっている症例ファイルに目を通したことがあります。
今の状況はその中の症例に似ている気がします。
――私が見たファイルでは、極限状態に置かれた患者は自我を守る為に精神世界に閉じ籠り何日も睡眠状態が続いたが、
ある時、身内の一人が患者の至近距離にいた場合に精神を同調したことが確認された。
患者の傍で寝た際には患者が見ていると思われる景色を夢で見たり、夢の中で実際に患者と会話をし意思疎通を図ることができたとされており、
後日、患者が目覚めた時にその会話内容を確認したところ整合性が取れたと記載されていました。
結局、何故他人の精神世界に同調できたのか、原因は分からないままです。
けれど患者とその同調者はとても親しかったそうです。
もしかすると患者が無意識にその同調者を自分の精神世界に呼び込んだのかもしれませんし、身内の方が特殊な方だったのかもしれません。
…とはいえ、これはネープル帝国に住む人間を対象にしたネープル帝国の人間が考えた話です。
他の大陸では魔力を持った人間がたくさんいます。
その中には同調能力に優れた者も多くいると聞いていますので、この症例は魔法の一種なのだろうと私は考えます。
ネープル帝国内の人間全員が全く魔力がないとは限りません。
恐らくこの患者は魔力を持っていたのでしょう」
そう言っては青褪めた顔をしているミュウの瞳をじっと見つめた。
眼鏡の向こうにある好奇心旺盛そうな大きな瞳は、今は怯えを滲ませ小刻みに揺れている。
「…ミュウ、貴方の瞳は私たちとは違い鳶色をしていますね。魔力を持つ証です。
貴方なら私たちが想像もつかないようなことを実現させてしまう可能性があります」
「そ、そんなの知らないよ!
、どうしちゃったのさ?急に変なこと言い出さないでよ」
しどろもどろになりながらもミュウはに食ってかかった。
しかしながらは全く表情を変えず、ミュウから視線を逸らさず見据えている。
「貴方が創った世界だと仮定すれば、納得がいくことが多いのです。
私が売店や受付にいる人の名前を覚えないことも、研究所にピアノが突然現れたことも、私はそこまで気にしていませんでした。
そのことに違和感を覚えることもなかったのです。
ミカサに言われるまでは…」
「えっ…、君は……ミカサのことを覚えてるのかい?」
の口からミカサの名が出たことで更にミュウが動揺した為か、
辺りの景色がはっきりと形を保てなくなってきた。
研究所の壁にはひびが入り、辺りには黒い靄が立ち込めてくる。
「――ミュウ、何故ミカサを消したのですか?
貴方にとって大切な存在の彼を、どうして」
は初めてミュウに対してきつく問い詰める。
彼は泣きそうな顔で苦しそうに喉から声を絞り出した。
「邪魔だったからだよ…っ!
ミカサもみたいに気づいてしまったから、もうここには一緒にいられなかった。
だってミカサはいい子だから、君を閉じ込めようとするボクを許さないもの」
既にミュウは世界の終わりを確信しているようだった。
彼は叱られた子どものように身体を丸めしゃがみ込んで俯いている。
「ミュウ…どうしてこんなことを?」
は彼の横に腰を下ろし、優しく背中をさする。
彼を罵りたいわけではなかった。
ただ悔しかったのだと思う。あんなに仲の良かった二人がこんな別れ方をしてしまったことに。
「…ナナミのいない世界が耐えられなかった。
ボクはナナミのおかげで変われたんだ。なのに、肝心のナナミがいなくなって…ボクは…寂しくて。
だからボクは寂しくない世界に行きたかった」
「それでこの世界が生まれたのですね。
ナナミのALを作るというのは死んでしまった彼女にもう一度会いたかったから…」
「うん。それでこの世界をボクにとっての優しい世界にしたいと思ったんだよ。
大好きなミカサもいてくれたらいいのに、って思ったらミカサも来てくれた。
…君もそうだよ。君に会いたいとずっと思ったんだ。
噂を聞く限りでは、君はボクに似てる気がしたから。
君ならボクの寂しさを分かってくれるんじゃないかって。
……実際、君は優しかった。ボクの気持ちに寄り添おうとしてくれた。
だからにはずっと傍にいて欲しかったんだよ…」
だけど君はボクの想像以上の能力を持ってたね、と言ってミュウは苦笑した。
の能力によってこの世界はこんなにもリアルなものになったのだ、とも。
「本当にびっくりしたよ。
いきなり研究所の建物ができたかと思うと、ボクやミカサは勉強もしてないのにいつの間にか専門知識が頭に入ってるし、
君は難しい病気の研究を始めちゃうし。
…君を呼び寄せた時点でこの世界は君の影響を受けてたんだね。
ボクがアバウトに作ったこの世界の設定に君が肉付けしたようなものだ。
だとしたらボクがどんなに設定を捻じ曲げようとしても歪が生まれる筈だね。
現に君は忘れさせた筈のミカサのことを思い出してしまったんだから」
は静かに頷く。
けれどそれだけがミカサの記憶を取り戻した理由とは思えなかった。
きっと彼が自分に沢山の思い出という宝物を与えてくれたからだろうとは考える。
そして世界の創造主のミュウですら完全に消すことができなかったミカサと過ごした記憶をは大事に胸にしまい込んだ。
彼と出会い、過ごした日々はとても幸せだった。
彼のおかげで自分は弱い自分に気づき向き合おうという勇気を貰えたのだ。
このミュウの創った精神世界が外界の人間からしてみたら単なる夢だとしても、
自分はミカサへの想いを夢で終わらせたくないとは思った。
「――ミュウ、この世界を終わらせましょう。
貴方は独りではありません。貴方にはミカサがいます。
私は…貴方の言うそぶりでは顔馴染みでもなかったようですが…きっとまた会えるでしょう。
その時はまた一緒に食事をしたりお話をしましょう。
皆でどこか見晴らしの良いところにでも遊びに行くのもいいですね。
だから、勇気を出して目覚めてください。
私は貴方の元気で無邪気なところも、時折見せるどこか寂しげなところも愛らしいと思っていました。
きっとミカサもそうでしょう」
そう言ってはミュウの手を強く握った。
彼は彼女の手を握り返してゆっくり頷き、静かに涙を流す。
「…ミカサもね、ボクを変えてくれた一人なんだよ。
ミカサのおかげでボクは世の中には優しい人もいるんだって気づけたんだ。
彼と家族のおかげで温もりを知れたんだよ。
だから…つらかった。
ミカサを消しちゃったことも、ミカサのいない世界でミカサのことを忘れたようにして過ごすのも…。
ボクは、こんな自分が嫌になってた…」
は嗚咽を漏らすミュウをそっと抱き締める。
大丈夫、と何度も繰り返しながら。
「ミカサなら許してくれます。あの人は優しいですから」
「そうだね。ミカサは優しいから。
――ごめんよ、皆。ごめんね、。
ボク、目を覚ますよ」
ミュウがその言葉を発した瞬間、周囲は真っ白な光に包まれる。
辺りの景色は光の粒子となってそのまま空間に溶けていく。
はその光景を見ながら、ナナミのいない世界に戻ってもミュウが希望を持って生きていけますように、
現実世界に戻っても彼らと再会できますように、と祈りながらミュウと手を繋いだ。
手を繋いで光の中心へ歩いて行くとミュウは、子どもの姿に戻っていた。
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