ナヲミが行方不明になって二日目。
は午前中の仕事を済ませてから捜索へ向かった。
信じていないわけではないが、昨日、別の所員が調べた場所を捜すことにする。
けれどもナヲミの姿も痕跡も見当たらない。
は泣きたい思いを堪えながら研究所に戻った。

 重い足を引きずりながら自室に戻っていると、エレベータの扉が開いた瞬間に声が聞こえた。
声の主はミカサだとすぐに分かった。そして彼の話し相手がミュウであることも。
どうやら彼らは屋上へ続く階段の踊り場で話をしているようだった。

「――ミュウ、貴方はどうかしています。
 自分の望みの為に関係のない人間を巻き込むんですか!?」
「そうだよ。ここには必要なものしかいらない。
 この世界がどうなってもボクは構わないし、見かけがどんなに壊れていてもボクにとって必要な人がいれば、それでいいんだ」
「……おかしいと思ったんです。
 どうして僕だけナナミのことを覚えていなかったのか。
 どうしてこの世界のおかしさに誰も違和感すら抱かないのか。
 ナナミに似たナヲミと言う女性が急に現れ、突然消えたことも、
 貴方は表面上は心配しているくせに実のところはナヲミを全く捜していないことも。
 …今、からくりが全部分かりました。
 貴方は子どもの頃の箱庭ごっこを場所を変えてしているだけだ!!!」

 は二人の不穏な会話を隠れて聞いていた。
ミカサが何を言っているのかには理解できなかった。
世界がおかしい?ミュウがナヲミを心配していない?箱庭ごっこ?
何故あんなにもミカサは怒っているのだろう、とは不思議でならなかった。

「――この世界に必要な人とは彼女のことですか?」
「そうだよ」
「彼女はここに、貴方の傍にいるべきではありません。
 僕が助け出します」

 ミカサの言葉には顔を上げた。
彼女、とは誰のことだろう。
これまでの文脈から考えるとナヲミのことではないように思えた。
何故ならナヲミが必要なら今頃必死でミュウは探し回っている筈だから。
だとしたら残りのミュウの交友関係で考えられるのはナナミかのことになる。
ナナミは既に死んでいるが、“ナナミのAL”ということならば合点がいく。

「そんなことはさせないさ。
 それにそもそも君には無理だよ、ミカサ」

 そう言ったミュウはミカサに背を向けた。
こちらに来ると思ったは慌ててその場から離れようとする。

「……君には感謝してる。
 ボクの為に傍にいてくれて、力になってくれたから。
 でも、もう君の力は借りないよ」

 は急いでエレベータの方へ音を立てないように走った。
背後からはミュウが階段を下りてくる音が聞こえてくる。
丁度、その場に留まっていたエレベータのボタンを押して扉を開いたはそれに飛び乗り、四階を押して扉を閉めた。
 の胸はざわついていた。
ミカサとミュウが言い争いをすること自体が珍しいのに、
ミュウがどこか悪者めいた話し方をしていたのもには意外なことだった。
何より、ミカサのことを突き放すような言い方をすることがには信じられない。

 はミカサに詳しい話を聞く為、四階の休憩室で待つことにした。
彼が言っていたことをもっと詳しく聞きたいと思ったからだ。
 がミカサ宛に四階の休憩室で待っている、とメッセージを送ると、返事はなかったがすぐにミカサはやって来た。
そして先程ミュウとミカサが話していたのを聞いてしまったことをは詫びながらも
詳しく話してくれないだろうか、とミカサに懇願する。
彼はに座るように促した。話が長くなると思ったのだろう。

「…、この研究所に来てから違和感を覚えたことや不思議だと思ったことなどはありませんか?」
「違和感ですか…?」

 そんなものあっただろうか、とはこれまでのことを回想してみる。
そう言えば思い当たることは数点あった。

「そうですね…人の名前を覚えられないことが増えました。以前は細かなことまで覚えられていた気がしましたが。
 後は自分の顔でしょうか。数日前に鏡を見た時、自分の顔がどこか違うというか…見慣れないものになっているような」
「なるほど。君にもそれらしいことはありましたか」
「ですが別に困るようなことでもないので今まで特に気にしませんでした」

 がそう言うと、ミカサは「そこがこの空間のおかしいところなんです」と口を開いた。
この空間、というのはどういうことか不明ではあるが、ミカサの話の続きを聞きたかったのでは黙って耳を傾ける。

「僕もおかしいと感じたことはいくつもありました。
 まず僕だけナナミの記憶を失っていること。同時に君と出会った時の記憶もないこと。
 それから僕は覚えていて君が覚えていないミュウの事故のこと。
 その事故からここで働いている現在までの間の記憶が細切れになって
 年表みたいに事項ごとに思い出されて詳しい内容は全然思い出せないこと。
 過去を思い出そうとすると頭痛がするので次第に思い返さなくなること。
 ――まだまだありますよ」

 ミカサは更に続ける。

「研究所という場所に急にピアノが置かれたこと。それを君は全くおかしいと思わないところ。
 …そして最もおかしいところは研究所の外の世界が存在しないこと」
「外の世界、ですか?」

 はその言葉の不穏さに少し青褪めながら首を捻った。
するとミカサは休憩室の窓に近寄り、鍵を解除し一気に開放する。

「君にはどう見えますか?」

 彼が明けた窓の先にあったのは暗い空間だった。
真っ黒な雨雲が空を覆い、辺りには霧が立ち込めて光は全く存在しない。
けれどはそれがどうしたのだろう、と思っていた。
外の景色はこんなものではなかっただろうか、と。

は知っている筈です。
 本物の空は自然のキャンバスのように様々な色が広がり、世界はもっと鮮やかに輝いたものであると」

 は思わず「あっ」と声を漏らした。
辿っていった記憶の中に青く澄んだ空と色とりどりの花が植えられた庭が存在した。
何よりナナミたちと出会い、遊んだのはその庭だったではないか。

「覚えていますよ。皆で遊んだ庭は綺麗な花が咲いていました。空も晴れていて」
「いや、ナナミと一緒にいる記憶では駄目です。
 僕らやナナミの存在しない記憶、君だけの記憶を思い出してください」

 ミカサにそう言われ、は再び記憶の海に潜る。
ナナミたちと出会う前と言うと、祖母に引き取られてすぐの頃だろうか。
 あの時は――空は曇っていた。
今程真っ暗ではなかったが、厚い雲に覆われた空が今にも落ちてきそうな気がしてどこか不安だった。
祖母に手を引かれ気動車のステップを降り、あの街に降り立った私は
オブジェのように並んだ店や家を興味深く見ながら祖母について行った。
そうして漸く立ち止まった祖母に「今日からここで貴女も暮らします」と言われて足を踏み入れたのは塀に囲まれたお屋敷で、
その屋敷の庭に植えられた木や花の美しさには目を奪われたのだ。
それまでは個々のケースに入った研究用の植物しか見たことがなかった為、植物の力強さや生命力の輝きを目の当たりにして新鮮な感動を味わったのである。
 
「ミカサ、覚えています。
 私の知っている世界はもっと……美しいもので溢れていました。
 私はいつからそれを忘れてしまったのでしょうか…?
 以前はもっと思い出していたように思えるのに」
 
 ミカサは顔を上げたを見て「よくできました」と言わんばかりに柔らかく微笑む。
けれどすぐに真剣な顔に戻った。

、今ここで僕が全てを話しても恐らく君は明日になったら忘れてしまうでしょう。ここはそういう場所だから。
 だから、真実は自分で気づいてください。
 自分の中で生まれた違和感をどうでもいいと流さず、しがみついて答えを見つけてください」

 ミカサはの両肩をしっかりと掴み、彼女に強く言い聞かせる。
そんな彼には頷いて見せるが、すぐにでも彼が遠くに行ってしまうような気がして不安だった。

「ミカサ、私、ちゃんと考えて答えを見つけますから。
 だから…どこにも行かないでください。
 貴方ったらこの間からいなくなってしまいそうなことばかり言うんですもの。
 そんなことになったら私…どうしたらいいか……。
 ――お願いです。どこにも行かないと約束してください。
 そしたら私はきっと貴方が以前言ったように誰よりも強くなれます」

 は目の前のミカサの肩に熱くなった己の瞼を押し付け、彼のシャツを握った。
そんな彼女をミカサは優しく抱き止める。

「…、残念ですが約束はできません。
 ここでの僕は無力な存在なんです。でも、できる限り君の力になるつもりです」

 そう言った後、ミカサはそっと体を離しての顔を覗き込んだ。
彼女の目からは涙が止めどなく溢れている。
けれど構わずミカサは話を続けた。

、ナナミのALは完成させてはいけません」
「…どうしてですか?
 ナナミのALは…私たち、皆の夢です」

 は泣き濡れた顔を上げてミカサに尋ねた。
ミカサも失い、自分たち三人の共通の目的も失ってしまったら何の為にここにいるのか分からなくなってしまう、とは思った。

「あれはただのミュウの願望に過ぎません。
 ミュウは自分が寂しい思いをしないように安らぎの場所を求めました。
 自分の好きなものに囲まれて過ごしたいという子どもじみたミュウの願望を形にしたものがナナミのALです。
 ナナミはもう死んだ。なのにいつまでも死者にしがみついて生きるわけにはいかない。
 ミュウだって本当は分かっている筈なのに……君を知ってしまったから。
 独りの痛みを知る君の存在を知ってしまったから、彼は同士を求めてしまったんです。
 だからナナミのいいところだけをプログラムしたALを求め、彼の言うことを何でもきく存在の僕やを求めた」
「――ミカサ、やめてください!ミュウを否定しないで!!」

 えも言われぬ恐怖に襲われ、は思わず叫んでいた。
何か得体のしれないどす黒い感情がどっと押し寄せ、の心を塗り潰しそうになったのだ。
ミカサを消せ、と頭の中で誰かが囁いたのが聞こえた気がしては頭を抱えてその場にうずくまる。
 どうして愛しているミカサに対してそんな風に思ってしまったのか。
何故こんな恐ろしい言葉が頭に浮かんだのか。
は理解できない状況に加え、激しい頭痛に襲われて正常な思考が困難となる。

「すみません、。大丈夫ですか?
 …やはりここでは僕らは無力です。逆らうこともできない」

 ミカサはを優しく抱き起こし椅子に座らせ、水を汲んで一口飲ませた。
喉を流れる冷たい水の感覚がを少し冷静にする。

「ミカサ…私、怖いです。
 傍にいてほしいのに、傍にいたら貴方を傷つけてしまいそうで」
「大丈夫です。僕は傷ついたりしません。
 でも、君に負荷をかけるわけにはいかないので話題を変えましょうか」
「ええ、そうしてくれると助かります」

 ミカサはの隣に座って震える彼女の手に自分の手を重ねた。
その手の感覚と仄かな温かさにの心は少しずつ落ち着きを取り戻していく。
 そんな彼女を見て安堵したように微笑んでミカサはを初めて知った時のことを話すのだった。
“塀の向こうの誰か”が、“塀の向こうの綺麗な女の子”に変わった日の思い出も。

「――本当に綺麗でした。
 君に手から次々に音が生まれていく姿は神々しくもありました」

 この記憶だけでも思い出せて良かった、とミカサは続ける。
当然ながらにはそんな記憶はなかった。
 庭に潜んだミカサを見つけ、彼と最初に出会っていたら自分たちの今の関係はどうなっていたのだろう。
今とは変わっていたのだろうか。どのように?
縁が遠くなっていた?それとももっと深くなっていただろうか?
 ――そんなことをは考えてみる。
けれど、ミカサがそんな風に自分を記憶していてくれたことが何より嬉しかった。

。いずれここを出たら、僕はきっと君に会いに行きます。
 今度はきちんと挨拶をしますから」
「ミカサ…」

 はミカサが明日にはどこかへ行ってしまうのだと察し、彼の手を握り返す。
彼はもう別れの準備に入っているのだ。
は自分は置いて行かれる身なのだと嫌でも分かった。

「…私、ここで真実を見つけます。
 だから、いつかまた絶対に会いに来てくださいね」
「ええ、必ず」

 二人は両手で固く握手を交わした。
そして無言で肩を寄せ合い、最後の穏やかな時を過ごす。
その後、はミカサに凭れたまま眠りについた。
できれば目が覚めた時にミカサの笑顔が見られますように、と祈りながら。




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