ミカサは白昼夢のような心地がし始めてからずっと頭の中でパズルをしているようだった。
それは明らかにピースの足りないパズルだった。
毎日の生活の中でふとした違和感に襲われることがある。
そしてその違和感を違和感だと思わずに過ごしてしまうことが続いた。
けれどその感覚自体が異質なことであると意識してみると、今の生活が違和感だらけだと少しずつ気づいてきた。
一つずつ、ミカサは過去を振り返ってみる。
ミュウがやってきた時から彼と仲良くなるまでの3歳から4歳までのこと。
10歳になったミュウが事故に遭って入院した日のこと。
それから――今?
ミカサは首を傾げる。
今までどんな風に生きてきたのだろうか、と思い返す。
・ミュウと同じ私立の中等学校に入学
・その後は高等専門学校の機械工学科へ入学
・卒業後、総合科学技術研究所に入社
何故かミカサには箇条書きにされた年表のごとく事柄だけが思い浮かび、
自分が学校でどんな勉強や研究をしていたのか、や学友たちとどのように過ごしたのかは一切思い出せないのだった。
――まあ、昔のことなんてどうでもいいことですが。
次の瞬間、自動的にそう考えて思考を手放そうとした己に気づき、ミカサは自らの頬を叩いた。
これだ。この感覚だ。
都合の悪いことは気にしないという思考の流れの気持ち悪さ。
何か自分は重要なことを忘れたままでいようとしている気がする。
しかし何の為に?
それともやはり脳に異常があるからなのか?
だとしたら自分はいつまでここにいられるのだろうか。
「――ミカサ、お待たせしました」
食堂の机で頭を抱えていたミカサの上からの声が降ってくる。
咄嗟にミカサは顔を上げた。彼女におかしな不安を抱かせてはならない。
「具合でも悪いのですか?」
ミカサの想像した通りは心配そうな顔で彼の顔を覗き込んだ。
そんな顔をさせて申し訳ないと思いつつもミカサの心は温かな気持ちで満たされる。
「依頼された機器の設計図を考えていたんです。
小型化を依頼されたのでなかなか難しくて」
「そうですか。貴方も毎日色んな仕事を抱えているようですね、お疲れ様です」
「君だってそうでしょう。ナヲミのことだって試行錯誤の連続で成果がすぐに現れるわけでもないでしょうし。
あまり根を詰めすぎないように気をつけてくださいね」
「ありがとうございます。気をつけますよ」
そう言って二人は食堂でテイクアウト用のメニューを買った。
最近はいつも四階の休憩室で食べるのでたまには五階で食べようという話になり、二人は目的地へ向かう。
しかしながら、ミカサは休憩室に入ったと同時に目を見開いて立ち竦んだ。
研究所という場所に明らかにそぐわない異質なもの置いてあるのだ。
「ミカサ、どうしました?」
「何でこんなところにピアノがあるんです?」
「さあ、何故でしょうね。いつの間にかあったんですよ。
私はリフレッシュがてら誰もいない時間に時々弾かせてもらっていますが。
…そう言えば、以前ミュウが冗談でピアノを置いてもらおうかなんて話をしていましたよね。
まさか本当に所長に頼んだわけではないでしょうけど。
もしかしたらどこかから不要なものをいただいて置き場所に困ってここに運んだのでしょうか。
とはいえ実際に休憩には役立っていますので、今となっては入手経路なんてどうでもいいことですが」
ミカサは先程の自分の思考に似たことをが口走ったことに驚く。
あまりにも彼女が平然としていることに違和感を覚えたし、どうでもいいなんてが考えること自体が不思議だった。
本来ならばもう少し疑問に思って事務や上層部に問い合わせるなりしたのではないだろうか。
「ミカサ、料理が冷めますよ?」
立ち尽くしているミカサを不思議そうに見ながらは二人分の炭酸水をテーブルに置いて席に着いた。
仕方なくミカサも彼女の隣に座る。
「――そう言えば、はここに入るまではどんな風に過ごしてきたんですか?」
「え?同級生の貴方といつも一緒だったように思いますが…」
は斜め上を見上げた。どうやら回想しているのだろう。
ミカサは彼女の答えを黙って待った。
「貴方がたと出会ってからは私も初等学校に通い始めました。
その後は貴方と同じ私立の中等学校に入学して、その後は高等専門学校の情報工学科に進みましたよ」
「それは君の経歴でしょう?
友人らとどんなふうに学校内外で過ごしてきたかを聞きたかったんです」
「友人らって…私には貴方たちしか……」
は困っているようだった。
そしてミカサは彼女の今の答えを聞いて、求めていたパズルのピースを一つ得たような気がした。
記憶がはっきりしないのは自分だけではないかもしれない、と。
「それなら、の記憶に強く残っている出来事は何ですか?」
「強く残っている、ですか?
それはやはり貴方たちとの出会いの場面と、ナナミが事故で亡くなってしまったと知らされた時のことです」
「ミュウが事故に遭ったのは?」
「え、ミュウが?いつのことですか?」
「僕らが9歳の時です。ナナミが死んだ丁度一年後くらいの時です」
「…そうでしたか?ミュウが事故に遭ったなんてこと全然…知りません。
教えてもらわなかったのでしょうか…私、全く覚えてないです」
「そうですか。まあ、今こうして元気ですから大したことはなかったのでしょうが、当時は驚きましたよ」
ミカサはもう一つピースを手に入れた。ミュウの入院だ。
自分にはあっての記憶にないこの事柄が非常に重要な出来事のような気がしたのだ。
けれど何がどう重要なのかまでは今のミカサには分からなかった。
過去のことを考えると頭痛が始まるのでまともに集中できないからである。
その痛みもあって「まぁ、いいか」と思うようになってしまったのだとミカサは考えた。
いずれはこの痛みと真剣に向き合わなければならないだろう。
何かがおかしい、という感覚は間違っていない筈だから――ミカサは決意を固めながら、
に「過去のことはもういいですから」と言って彼女を思案顔から解放させた。
「それならもっと先のことを考えましょうか」
明るい顔に戻ったがそう提案するが、
ミカサにとって未来について考えることは過去を思い出すよりも難しい気がした。
「ミカサは今の目標を達成したら次はどうしますか?」
「ナナミのALを完成させた後ということですか?」
「はい。ミカサは何かやりたいこととか夢とかないのですか?」
「夢ですか…」
ミカサは自分の望みを思い浮かべた。
そう遠くない未来、自分は病気で今のような生活は送れないかもしれないという考えが浮かぶ。
ナナミの記憶やその他の記憶が曖昧なのはやはり脳のどこか異常があるのだろうと思っているし、
少しずつ頭痛が激しくなるので脳に腫瘍でもあって、それが日々大きくなっていっているのだろうと想像していた。
したがって未来における展望などミカサにはなかったし、夢なんて持てそうになかった。
ミカサにとって大事なのはやミュウと一緒にいられる現在であり、
不確かな未来に対する恐怖はを想うことで忘れられていた。
それでも、もし夢を見ていいというのなら――
「君のピアノが聞きたいです。
のんびりと本を広げてお茶でも飲みながら」
「あら、そんなことならいつでもできますよ」
そう言ってはピアノの前に移動して蓋を開けキーカバーを外した後、姿勢よく椅子に座った。
そして準備運動もなしに滑らかに指を動かし、光輝くような旋律を響かせる。
その音色はとても懐かしく遠い昔に聞いたことのあるもので――と過去に想いを馳せた瞬間、ミカサは過去の映像が見えた気がした。
――これは、塀の向こうから聞こえてきた音色だ。
時折、大きな屋敷からピアノ曲が聞こえるのでデータカードか音楽盤で音楽を流しているのだろうと近所の子どもたちは皆、思っていた。
けれど、ミカサは病気で学校を休んだ際に母親と診療所へ向かう途中、その家の前を通ったことで知ったのだ。
ミカサの知らない曲が始まったと思ったらその中で何度か突っかかったり弾き間違えたりしたらしい個所があった。
けれどすぐに間違いが修正されていく。そこでミカサは漸く気づいた。
これは塀の向こうの屋敷に住む誰かがピアノを練習しているのだ。
今日のように午前中から練習し、いつも自分たちが集まって遊ぶ放課後の時間は既に完成された曲を弾いているのだろう、とミカサは思った。
そのことを母に言うと、母は「そうね」と穏やかな顔で頷いたのを覚えている。
そして「貴方と同じ年頃のお嬢さんがいた筈よ。きっとその子が弾いているのね」と言ったのだ。
その後、「どうして学校に行ってないの?」と聞いた自分に母は曖昧な笑顔を浮かべて首を振り、
「人の家庭の事情だから私にはよく分からない」と静かに言った後、口を噤んだ。
――その数日後、ミカサは好奇心が抑えられず行動を起こした。
ピアノの主を見に庭に入り込んだのだ。
そこにいたのは上等な洋服に身を包んだ人形のように綺麗な女の子。
大きなグランドピアノの前にちょこんと座り、指と手を動かして色んな曲を奏でるその姿に見惚れて――
その後のことをミカサは思い出せなかった。
庭に侵入したあの日は確かに自分一人だった。
なのでその後、自分がミュウとナナミに演奏者のことを話したからミュウやナナミが演奏者に会いたがり、後日、皆で忍び込むことになって、
自分たちとは出会ったということなのだろう。
――ああ、のことを思い出せた。完全に記憶が失われたわけではなかったのだ、と
ミカサは自分の右手で左の手首を握り締め、何とか興奮を抑えながら平静を装う。
失くしていた記憶の隙間にパズルのピースがぴたりとはまったような気がしていた。
今日は随分と進展があったものだ、と心に余裕が出たミカサは穏やかな表情を浮かべての演奏に耳を傾ける。
現在の彼女の演奏は以前聞いたものよりもずっと魅力的に思えた。弾いている彼女の表情も柔らかくて女性らしさに満ちている。
自分は盗み見したあの日からずっとに惹かれているのだ、とミカサは実感した。
「――いきなり弾いたら周りに迷惑でしょう?
素晴らしい演奏でしたけど」
「あっ、そうですね。すみません。
手近にピアノがあったものですから、つい。
でも、褒めてくださってありがとうございます」
演奏を終えてこちらに戻ってきたにミカサはつい意地悪なことを言ってしまう。
先が短いかもしれないのだからそんな不毛なことはやめようと思ったのに、身に沁みついた癖はなかなか治らないらしい。
先日に偉そうなことを言ったばかりなのに、とミカサは苦笑した。
「次は場所とか時間とか気にしないところで聞かせてください。
今度、長期休暇でも取りませんか。君の家でゆっくり聞きたいです」
「貴方がそう言うなら…検討してみます」
「ええ。楽しみにしていますね」
ミカサはこの約束が果たされるかどうかなど、もうどうでも良かった。
ただ彼女が自分の為にピアノを弾いてくれたこのひと時が何よりも幸せだと思った。
その日の17時を回った頃、ミュウが慌ただしく部屋に入ってきた。
部屋の外から「っ!っ!!」と叫んでいたので、は何事だろうかと不思議に思い
彼が部屋に入るなりどうしたのか聞こうと思ったのだが、それよりも早く彼は叫ぶ。
「ナヲミがっ、ナヲミがいなくなったって!!」
彼の言葉にの身体は凍り付いた。
いなくなったとはどういうことなのだろう。頭が正常に働かない。
「ど、どういうことですか?
外泊許可を取って帰宅しているとかでは?」
「誰もそんな話は聞いてないし、彼女に身内はいないよ!
夕食前に検温をしに行った時にはもういなかったらしいんだ」
「そんな…どうして……。
とにかく、早く見つけ出さないと。あんな状態で薬も飲まずに無理をしたら…大変なことに」
は突然のことに脱力しそうなまでに青褪めていたが、自分が倒れるどころではない緊急事態なので
何とか気力を振り絞って今後のことを考える。
「とりあえず所員が近場から捜索してるみたいだし、自治体や軍の方にも届け出はしてるらしい。
体力や筋力も落ちてるだろうからそんなに遠くには行けないだろうけど…でも…」
ミュウは額に手を当てて細かく震えているようだった。
は彼の手を強く握り、「大丈夫」と自分にも言い聞かせるように言う。
そうでもしないとも混乱して慌てふためきそうだったからだ。
「とにかく私も捜索しに行きます」
「うん、ボクも行く!」
そう言って二人は駆け出した。
はとりあえずミカサにも知らせておこうと思い、エレベータで移動する間に携帯端末からメッセージを送る。
研究所の一階に着くと医療部門がざわついているように思えた。恐らくナヲミのことだろう。
所員たちが捜している間に対策の話し合いと、もしもの時の緊急処置の準備が行われる筈だ。
は受付に外出することを伝えて携帯端末を預け、代わりの外出用携帯端末を受け取る。
ミュウはそんな時間も惜しいようだった。
そうしているうちにミカサも合流し、ミュウ、、ミカサの順で研究所を飛び出した。
その後、は研究所周辺から徒歩1時間圏内を捜して回った。
携帯端末で共有した周辺地図は所員が捜索した場所が塗り潰されていく。
他の医療機関に駆け込んだ可能性もあるので連携室に連絡もしてみたが該当する人物はいなかった。
「…それにしてもどうしてナヲミさんは突然姿を消したのでしょうか。
昨日会った時はそんな素振りはありませんでした」
ナヲミを見つけることができず無念の内に戻ってきた三人は疲れ果てた様子で食堂の椅子に座り込んだ。
食事は喉を通りそうになかったので誰も頼まなかったが、喉は乾いていたは三人分の水を用意する。
「…ボクのせいだ」
「え?」
「どういうことですか?」
ぽつりと呟いたミュウの言葉にとミカサは首を傾げた。
それには答えずミュウは立ち上がりそのままどこかへ行ってしまう。
「ミュウ…」
取り残された二人は沈痛な面持ちで遠ざかるミュウの背中を見つめた。
恐らく一番ショックを受けているのは彼だろうとは思う。
以前、手を握り合って「一緒に頑張ろう」と言っていたのに、どうしてナヲミはミュウにも何も言わずに出て行ってしまったのだろう。
には彼女の気持ちが全く分からなかった。
その後、他の所員たちの奮闘も空しくナヲミは見つからなかった。
けれど明日もまた捜索を続けることが決まり、たちも仕事の合間に捜索に協力することなったのだった。
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