耳元のアラーム音で目を覚ましたは自室の仮眠用のラグから身を起こし伸びをした。
携帯端末を持ち休憩室へ向かう。休憩室の仮眠室手前にあるロッカーで着替えとランドリーバッグを用意してから
三階の浴室でシャワーを浴びた彼女はすっきりとした気持ちで覚醒する。
そんな中、ふと鏡に目を向けたは自分の顔に違和感を覚えた。
自分はこんな顔をしていただろうかと不思議に思う。
もう少し幼く固まったような冷たい顔をしていた気がするのに――と思ったが、
よく考えれば自分は20歳なのだから子どもの時の顔と同じ筈はないと思い至った。
普段、あまり身の回りのことに気を配らないからこうなのだ、と苦笑しては着替えてから脱いだ服を持って洗濯場へ向かい、
洗濯機を回している間に売店で朝食となるヨーグルトと野菜ジュースを購入し、
それらを食堂でゆっくり摂ってから洗濯場へ戻り洗濯物を回収する。
その後、はいつもと変わらぬ勤務をするのだった。
昼休みになり、は食事を摂る前にナヲミに会いに行こうと思いつく。
彼女は既に昼食を終えている筈だから昼寝前に少し話そうと考えた彼女は二階へ向かい、
ナヲミの部屋の扉を控えめにノックしてそっと開けた。
するとそこには先客がいる。ミュウだった。
彼らは話に夢中になってのノック音と入ってきた音には気づいていないようだった。
は話の邪魔になったら悪いと思い、暫くその場で佇んで区切りの良いところで挨拶だけでもしようと様子を見ることにした。
少し離れてはいるが、微かな二人の話し声がの耳に入ってくる。
「――君は絶対に元気になるよ。ボクも頑張る。
一緒に頑張ろう」
「ありがとう、ミュウ」
手と手を握り合う二人の仲睦まじい様子を見ていたは心が温まる思いだった。
想い合う人と気持ちが通じ合うというのはどんなに素晴らしいことだろうと思ったは、ミカサの顔を思い浮かべるが慌てて思考を打ち消した。
何でもかんでも彼に結び付けるのは良くない、と浮つく自分を戒めた。
そうしていると二人の会話も終わったようだったのでナヲミに話しかけることにする。
「ナヲミさん、こんにちは。遊びに来ました。
…ですがミュウもいらしていたのならお話されてお疲れでしょうね。
また来ます」
「あらも来てくれたのね、ありがとう。
でも貴女のお言葉に甘えていいかしら。ご飯を食べたからかちょっと眠気が強いの。
ミュウもまた来てくれる?」
「ええ、どうぞ休んでください。ではまた」
「じゃあね、ナヲミ」
そう言ってはミュウと一緒にナヲミの部屋を後にする。
その後、は食堂に寄ることにし、ミュウは自室へと戻っていった。
何だかナヲミと過ごした後のミュウと一緒にいるのは悪いような気がしたのだ。
もう少しナヲミと過ごした時間の感覚に浸りたいかもしれないから、とこれまでは想像もできなかった気の回し方をは覚えた。
――ミュウの背中を見送った後、がいつものサンドイッチと野菜ジュースを購入した直後に携帯端末の画面にメッセージ受信の通知が表示された。
メッセージ送信元はミカサだ。は逸る気持ちを押さえながら買い物袋を右手に通して携帯端末を操作する。昼食の誘いだった。
は既に買ってしまったが移動の途中だったので合流する、と彼に返信したと同時に降りてきたエレベータからミカサが現れる。
「丁度良かった。すぐに買ってきますから先に四階の休憩室に行っててください」
「分かりました。無理に急がなくていいですからね」
「はいはい」
お互いに軽く手を上げた後、二人は背を向けてそれぞれ歩き始めた。
先日のミカサの様子から何かを感じ取ったはいつまでこうして過ごせるだろうかと不安を抱き始めている。
けれどそれを顔に出さないように努めていた。そうした弱々しいところをいつも出してしまうからミカサは自分を頼ってくれないのだと思ったからである。
いつか彼が「こいつになら話そう」と思えるような存在になる為には精神的に強くなると決めたのだ。
ミカサが遅れてやって来ての隣に座る。
今日は彼もと同じベーコンとレタスとトマトのサンドイッチだ。
品数が少ないので健康の為にもできるだけゆっくり食べたほうが良いと判断したは何か話題を探すことにする。
「そういえば、先程ナヲミさんの病室へ寄ったんですがミュウが先に来ていまして」
「ああ、彼、よく行っているみたいですね」
「ええ、そのようです。ナヲミさんも嬉しそうにしていました。
二人で手を取り合って“一緒に頑張ろう”って誓い合っているようでした」
「へえ、そこまで仲が良いとは思いませんでしたが」
「私も驚きました。
入室した私のことに気づいていないようだったので話が一段落するまで様子を見てから
話しかけようと思っていたのですが、何だかいけない場面を見てしまったような気がします。
二人にとっては大切な時間だったでしょうに…」
「まあ、がそこまで気にしなくてもいいんじゃないですか」
「そうでしょうか…」
は野菜ジュースをストローで飲みながら考える。
自分もミカサとこうして一緒にいるところを知らないうちに誰かに見られるというのは少し嫌だと思った。
だからミュウたちもそうだろうというのがの考えだ。
「やはり好きな人と一緒の時間は特別なものです。
あの時、私は一度退室するべきだったんです。そしてミュウが出てきてから入り直すべきでした」
「何です、反省会ですか?
…というか、ミュウたちはそういう関係なんです?」
「手を握り合うというのはそういうものなのではないですか?」
「さぁ、厚い友情でもあるかもしれませんよ。
特に彼女はああいう状態なのですから話していてお互い感極まることもあるでしょう」
「そうなのでしょうか…私にはその辺の機微はまだ分からないですね。
――ミカサは恋愛をどのように考えていますか?」
「え、恋愛論ですか? 珍しいですね、君がそんな話題を振るなんて。
そういう方面の研究でも始めるんですか?」
「脳科学の分野では解明され始めているようでしたが、今はそういう話ではなく、
純粋に貴方の価値観と言うか貴方なりの恋愛についての考えを聞きたいだけですよ」
がそう言うとミカサは心底驚いた様子で頷いていた。
彼のこんな表情は珍しい。はわくわくするような気持ちで身を乗り出す。
自分が最近知ったこの恋という感情をミカサは知っているのだろうか。
知っているとしたら、最初の相手はもしかするとナナミかもしれない。
しかしながらミカサはナナミに関することを覚えていないのだった。
彼女への想いも忘れてしまっているのは酷く気の毒に思えるが、目の前でナナミへの愛を語られても少し傷つくかもしれない、とは考える。
「僕の恋愛観ですか…そうですね。
以前は子どもじみていた気がします。相手のことをわざと困らせたりして反応が見たかったんです。
僕は自分に自信がないから、そんなことでしか相手の気を引けないと思っていて」
「そうなのですか?分かっていて意地悪をするなんて意外とミカサは悪い子ですね」
「ストレートに言わないで下さいよ。今はもうそれは卒業しました。多分…ですが」
そう言って自嘲するとミカサは先日のような優しい笑顔でを見つめる。
目が合ったは変に目を逸らすのもおかしい気がして彼が視線を逸らすまでそのまま彼の顔を見続けた。
そんな彼女の表情が彼には困って見えたのかきょとんとして見えたのかは分からないが、
ミカサはふふっと笑ってから視線を外すと濃厚カフェオレを口に含む。
「今は随分、穏やかな気持ちになりましたよ。
相手の優しい気持ちに気づけたので、楽になったんです。
とはいえ相手がこちらをどう想っているのかは分かりませんし、今後も分からなくていいと思っています」
「ミカサはそれで良いのですか?」
「はい。少なくとも代えのきかない友人程度には思ってくれていることが分かったので、それだけで十分です。
僕はその思い出さえあれば誰よりも強くなれる気がする」
「ミカサの愛は深いのですね、きっと…。
今の私にはその境地に達するのは無理そうです」
「君は君のリズムで生きていけばいいんですよ。
それに人の愛し方なんて千差万別です。決まり事なんてないんですから」
「そうですか。ミカサがそう言うならその言葉を信じましょう」
はミカサの気持ちが理解できなくもなかった。
何故ならミカサに大切だと言われた時、自分は本当に嬉しかったからだ。
あの時のことを思い出すと「お婆様とちゃんと話してみようか」と思えるくらいに勇気が湧く。
だからミカサの気持ちも分からなくはない。
けれど――とは思った。
自分はミカサのようにその思い出だけで満足できるような立派な人間ではなさそうだ、と。
ミカサのことを知る度にもっと知りたい、もっと一緒にいたいと思う気持ちは大きくなるばかりだ。
は己の欲深さに頭を抱えたくなる。
「ミカサは、強い…」
は彼が去った後の休憩室に一人留まり呟いた。
彼との間の距離が随分と広がっていることを寂しく思いながら。
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