先日、大切だとはっきりと言われてからというものはミカサの顔を見るのがくすぐったいような気持ちだった。
なかなかタイミングがなくて未だに返していないハンカチは、
無礼だとは分かっていながらもこのままずっと手元に置いておきたいような気さえする。
けれどずっと借りておくのは流石に悪いので、自室に取りに戻ってから返しに行くことにした。
「ミカサ、今少し良いですか?」
「いいですけど…珍しいですね。
医療チームの方に行かなくてもいいんですか?」
「用事が済んだら行きますよ」
ミカサのいる部屋は相変わらず彼しかいない。
勤務時間を過ぎているので帰宅してしまっているのは当然ではあるが、はミカサ以外の開発部の人間を知らなかった。
ミカサからも同僚の話を聞いたことがない。
ミカサは同僚とうまくやっているのだろうかとは思ったが、
ミュウとミカサとナヲミ以外の人と接しない自分が心配する筋合いはないと思い至った。
「あの…ありがとうございました」
「どういたしまして」
が物凄く惜しい気持ちで差し出したハンカチを、ミカサは何事もないように受け取りシャツの胸ポケットにしまった。
そんな彼の様子を見ては何故か少し寂しく思う。
「――君は最近どうですか?
体調とか…異変はないです?」
捲りあげたシャツの袖を弄りながらミカサはに問いかけた。
その顔色はあまり良くないようにには見える。
「私は特に変わりはないですけど…ミカサは具合でも悪いんですか?
そう言えば顔色があまり良くないようですけど」
がそう言うとミカサは勢いよく首を振ってみせた。
そんな姿は嘘を必死に隠す子どものように思える。
は急に心配になった。
もしかするとミカサは体調を崩しているのかもしれない。
それなのに職場に残ってAL製作に力を注いでいるのだ。
それは恐らく彼の為ではなくミュウやの為だろうということはには容易く想像がつく。
「ミカサ、無理をしているなら直ちにやめてください。
私は今自分のやりたいことをさせてもらっています。
貴方もナナミのAL製作にこだわる必要はありません。
体調がすぐれないなら自信の身体を大事にするべきです。
貴方に何かあったら私は――っ」
が声を張り上げた瞬間、目から涙が零れていた。
ミカサに何かあったらと考えるとナヲミがいなくなることよりもずっと恐ろしかった。
その原因が自分たちが無理をさせていたからだとしたら死んでも償いきれない。
「一体どうしたんですか、もう。
ほら、ここは水分厳禁なんですから」
ミカサは苦笑しながら先程が返したハンカチを再び彼女に渡した。
彼女は受け取ったハンカチを顔に当てた。
自分が持っていた時は感じなかったのに、ひとたびミカサの手に渡ったハンカチは爽やかで甘い香りがするような気がする。
「は案外そそっかしいんですね。
僕が気にしているのは自分のことではなく、ミュウのことなんです」
心の闇がすっかり晴れたミカサは勤めて冷静に、そして朗らかに嘘を吐いた。
が自分の為に心配して泣いてくれた時点でミカサにはもう何も怖いものなどなくなったのだ。
たとえこの先、自分の身体がどうにかなったとしてもには何も伝えないだろう。
これまで通りに彼女と接して、の微妙な表情の変化に自分だけが気づけたらいいとミカサは思った。
「え、ミュウのことですか?」
そんなミカサの気持ちを知らないは恥ずかしそうに目元を拭い、首を傾げた。
ミカサは彼女のそんな姿も愛らしいと思った。
「はい。最近のミュウはどこか刺々しい雰囲気を出す時があるんです。
難しい顔で机に向かってるので話しかけづらい時があります」
「そうなのですか?
…私は全然気づかなかったです」
は目に見えて落ち込んでいた。
先程も話したし、普段も仕事の打ち合わせなどで話しているのに全く気づかなかったのだ。
そんな彼女をフォローするようにミカサは口を開く。
「恐らくナヲミのことやAL製作が行き詰っているからでしょうね」
「ですがそれはミュウのせいではありません。
AL製作が遅れているのは私のせいですし、ナヲミさんの症状もある程度落ち着いています。
ミュウが神経質になることなんて…」
「――あの人は繊細で頭がいいですから。
きっと僕の想いもしないようなことを考え付いて、一人で悩んでいるんだと思います」
そう言うミカサの表情はどこか寂しげだった。
いつも仲の良い彼らだが、仲が良いからこそ踏み込めない部分があるのかもしれない、とは思った。
ミカサですら迂闊に話しかけられない程に張り詰めた緊張感とはどんなものだろう。
の前では無邪気な笑顔を浮かべるミュウがそれほどまでに追い詰められているなど、今のには想像がつかなかった。
けれどもその悩みの一因はまさしく自分がAL製作のチームから外れた為であるので、
逆にミュウは自分には悩んでいる姿を見せようとしないのかもしれない、ともは考える。
「ミュウがそんなに思い悩んでいるのは私に原因があるんでしょう。
ですが今、ナヲミさんを優先させている私が何かを言ったところでミュウの心には響かないでしょうね…」
「君が悩むことはないですよ。ALはいつでも作れるんですから。
逆にナヲミは早く対処しなければならないところまで来ているのでしょう?
それは君のせいではありませんし、ミュウが何もできずにただ焦っていても仕方のないことです。
君まで気に病んでしまっては誰も救えません」
はミカサの言葉を力強く感じた。
不思議と彼の言葉には自信が溢れ重みがあるのだ。
恐らくミュウに関してはミカサにしかわからないことがあるのだろう。
ならばミカサの言う通り、自分がミュウに変に気を遣ったり心配し過ぎても良いことはないだろうとは思い至るのだった。
「…分かりました。私はこれまで通りにしていくつもりです。
でも、もし本当にミュウが苦しんでいるのなら、その時は最善の方法を尽くして彼を楽にしてあげたいと思います。
――ミカサも、無理はしないでくださいね」
「ええ、分かっていますよ。
君を悲しませたくはないですから」
そう言って優しげに微笑むミカサの顔を見たは、顔から火が出そうだと感じながら俯く。
その手にはミカサのハンカチがしっかりと握られていた。
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