今も一緒に食事をしたし、毎日隣のブースにいて仕事上の話はしている筈なのに
最近ミュウと会話らしい会話をしていないような物足りなさを感じたは彼ともう少し話がしたいと思い追いかけることにした。
五階でエレベータを降りたミュウの後ろからは呼びかける。
自室に戻ってしまうとミュウが仕事モードに切り替わる可能性もあるので、その前に少し時間を貰いたかったのだ。
「もう少しお話しませんか?」
「うん、いいよ。じゃあ、休憩室で話そうか」
「はい」
二人は休憩室の椅子に隣り合って座った。
彼らの共通の話題となるとどうしてもナヲミのことかALのことになってしまう。
自然の流れでは先程のナヲミの話の続きや、
分子生物学の専門的な言葉や概念などをミュウに乞われて説明をする。
「――そう言えば、先日ナヲミさんに“私は今のしか知らないけど、
たとえ今と違う貴女だったとしても、貴女の要らない世界なんてない”と言われました。
役に立つ立たないは関係なく、世界には皆が必要なんだと。
世界を構成する要素の一つとして、私たちが存在するんだと言っていました」
は先日ナヲミと話したことを思い出す。
自分のことを受け入れてもらえた時の喜びと有り難さ。
思い出すだけでも涙が出そうだ。
「…私、嬉しかったです。
誰かに必要とされたいと思いながらも、実際に必要とされることがあるなんて思ってもみませんでした。
人に受け入れてもらえることがこんなに幸せなことだなんて知りませんでした」
自分には何もなかった、とは思う。
祖母の機嫌を損ねないように過ごしていた時の自分は機械人形のようだった。
自分は頭にデータを入力して行動するだけの存在でしかないのに、捨てられたくないという気持ちだけは一丁前にあったのだ。
両親がいないのはきっとこんなにつまらないから自分は捨てられたのだろうとどこかで思っていた。
それでも知識欲には勝てなかった。
祖母に捨てられたくないのに彼女の言葉に反して辞書や事典を漁り知識を得ていたのは今思うとそれが楽しかったのだろう。
絶望されたくないのにもっと世界のことを知りたいという矛盾の中で生きていた。
そんな時に現れたナナミたちによって自分は知識欲を大きく羽ばたかせることになったのだ。
そして感情を手に入れた。ナナミを失うことと引き換えに機械人形だった自分の身体に血が流れ始めたのだ。
「ミュウ、私は皆さんに生かされているんです」
柔らかく微笑んでみせるにミュウは暫く見惚れていた。
その言葉の響きはいつもの哀しい卑屈なものとは違っていたからであった。
今の彼女は人に受け入れてもらえたという自信で満たされ、堂々としているように見える。
彼女が少しでも自身のことを好きになってくれたらいい、とミュウは思う。
のような純粋な人が苦しむ世界なんて存在する価値なんてないとまで考える時もある。
それほどまでにミュウにとってが大切な存在になったのだ。
「――。ボクもが必要だよ。
この世界には君が要るんだ」
ミュウは真っ直ぐを見つめた。
その表情はあまりにも真剣すぎるのでは嬉しさよりも先に「これから叱られるのではないか?」と思った程だ。
けれどの心配をよそに次に口を開いた時のミュウは優しい目をしていた。
「もボクを救ってくれてるよ。
君が思っている以上に、ボクは君に生かされてる」
ミュウは隣に座っているの手を握り、その上に覆いかぶさるように身体を曲げた。
丁度の膝に頭をのせたような形になる。
ミュウが泣き出してしまうのではないかと今度は別の心配がの頭をよぎる。
何故なら彼の肩が少し震えているように見えたからだ。
途端にの胸に愛しさが湧き上がってくる。
きっとミュウは正直な気持ちを伝えてくれているのだ。
本当の気持ちをそのまま相手に直接伝えることは勇気がいる。
それこそ祖母に対して拒絶されたらどうしようと考える自分がそうだ。
自分は勇気がないので彼女に対して何も言えないし何も聞けない――とは自分の身に置き換えて考えてみた。
ミュウももしかしたら怖いのかもしれなかった。
自分と同じくらい相手が必要としてなかったらどうしよう、という気持ちがあるのかもしれない。
「確かにボクの知らない昔の君は今とは違っていたのかもしれないけど、
でも、あの頃の君の弾くピアノは優しい音をしていたよ。
…だから過去の君のことをあんまり否定しないで。
きっと君は今も昔も優しいままだ」
ああ、ミュウは自分を大切にしろと言いたかったのか、とは察した。
“己を正当に評価して受け入れないことは、あなたを大切に想っている存在を傷つけることになる”と言いたかったのかもしれない。
だから全身全霊で吐き出すように言葉を発したのだろう。
「ミュウ…ありがとうございます。
貴方にそう言っていただけるのが一番嬉しいです。
私、漸く自分のことが好きに思えてきましたよ。
貴方やナヲミさんが大切だと言ってくれるなら私は誰よりも強くなれると思います。
そのくらい自信が持てました。本当にありがとうございます」
がミュウの頭をそっと撫でながら答えると、彼は「それなら良かった」と安心したような声を出したが、
暫しの間、の膝に頭をのせたまま目を閉じて頭を撫でる彼女の手の心地よさに身を任せていた。
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