は今日もナヲミの病室へ足を運ぶ。
ナヲミは日々検査やリハビリテーションの日程をこなしており、午前中は殆ど病室にはいない。
彼女が入院してから数週間が経過したが、度々訪れるのは彼女の体力を消耗させるだけと思ったので
は彼女との面会を自分の昼休憩の合間の10分程度に止めている。
「ナヲミさん、こんにちは」
「、来てくれたのね。時間はいいの?」
「はい、息抜きする為にその辺を散歩してきたところです」
静かな個室のベッドに横になっていたナヲミはの姿を見て嬉しそうな表情を浮かべると上半身を起こした。
深刻な症状にはまだ至ってはいないが、血液検査で彼女の心臓や腎臓の機能は低下しているのが見て取れる。
このまま病が進行すれば生命活動が脅かされるのは確実だ。
「毎日、機械や本と向かい合って疲れない?」
「目は疲れますがそこまで疲労感はないですね。
新しいことを学ぶのは楽しいですし、プログラムを組み上げて結果が出た時の達成感は一入です。
何より身に付けた知識を利用することで誰かの役に立てることは私の喜びです。
…誰かが喜ぶ姿を見たり、"ありがとう”と言われたりすると、
こんな私でも世界に存在することを許されたような気がするので」
窓の外に視線を移しながらは子どもの頃を思い出していた。
家族に愛された記憶はなく、感情を知らず偽物の演奏を繰り返していた自分。
当時ですら中身が空っぽだと感じていたし、そんな自分だから誰からも求められないのだと分かっていた。
普段、会話をすることのない祖母が口癖のように言っていた「学問はお前を不幸にする」という言葉の真意は未だに分からない。
しかし、今のは祖母の考えは間違っていると思っている。
学習し、それを実行することで確実に自分を必要としてくれる人がいるのだから。
ミュウやミカサ、そしてナヲミのような人たちのように――はナヲミに視線を戻して穏やかな表情を浮かべた。
「貴女でもそんなことを考えるのね」
「勿論ですよ。
私が今ここにいられるのはミュウたちのおかげなんです。だから何よりも彼らの役に立ちたいんです。
彼らと出会っていなかったら今頃私は部屋に引き籠ったままで誰の役にも何も役にも立たない、
この世界に必要のない人間のままでしたから…」
「――私は今のしか知らないけど、たとえ今と違う貴女だったとしても、
貴女の要らない世界なんてないわ」
珍しくナヲミは険しい表情をに向けた。そんな彼女の様子には思わず息を呑む。
だがすぐに強張った顔の緊張を解き、優しげな眼差しでナヲミはを見上げた。
「世界には皆が必要なのよ。役に立つとか立たないとか関係ないわ。
私は世界を構成する要素の一つとして私たちが存在するんだと思ってる」
「…そうですね。
ありがとうございます、ナヲミさん」
「ふふっ、真面目な顔したら疲れちゃった。今日はもう寝るわ」
「では私は失礼しますね。おやすみなさい」
ナヲミが目を閉じたのを確認しては静かに退室した。
彼女の言葉がの中でリフレインする。
世界には皆が必要というナヲミの世界の中に当然のように自分が入っていることがにとっては嬉しかった。
ナヲミの病室を出て、携帯端末のステートを変更しようとしては新着メッセージに気づく。
差し出し人は“第4医療チーム”だ。
血液型とHLA型の検査結果がきたのだと反射的には察し、慌ててメッセージを開いた。
次の瞬間、は息を呑む。
まさかこんなことがあるなんて――とは携帯端末の画面を食い入るように見つめる。
そこに添付されていたファイルには
ABO型:適合
HLA型:ミスマッチ1
交叉試験:陰性
※あなたは優先度の高いドナー候補です
不法な臓器売買を避ける為に検査結果の詳細は伏せられることが前提であるが、
確かにドナー候補と書かれていた。しかも優先度の高い、だ。
一卵性双生児ならともかく、肉親以外でこれほど適合率が高いなんて奇跡に近い。
は自分の存在をこれほどまでに肯定した瞬間があっただろうかと今にも飛び跳ねたい気持ちだった。
これでナヲミの最悪の場合に備えられる。もしもの時は自分が役に立てる。
いずれ人工細胞の技術で臓器硬化症は治療できるだろう。
その治療法が確立するまでナヲミが生きていてくれればよいのだ。
その為なら腎臓の一つくらい提供したって構わない、とは思う。
心筋再生用の骨格筋芽細胞は既に大腿部から摘出しており、培養が始まっている。
3、4週間が必要というから、あと1週間ほどでシート化できるはずだ。
それくらいならば心臓はもつだろうが、腎機能については劇的な改善方法が今のところはない。
心筋シートのようにシート化の研究もしているようだが一部の機能は再生が確認されたものの他の機能が発現せず
研究者は腎臓の複雑な構造に頭を抱えている。
その研究が実を結ぶまでは少しでも症状の進行を遅らせ、最悪の場合は移植で時間を稼ぐしかない。
――けれど、できることなら移植せずに治療したいとは思う。
免疫抑制剤のおかげで移植後拒絶反応を起こす件数は減っているらしいが、ナヲミの場合に起こらないと限らない。
ならば今自分が一番やりたいことは…とは少しの間立ち尽くした状態で考え、覚悟を決めた。
そしてもう一度メッセージ画面を確かめてからフラグをつけて保存し、自室へと戻る。
するとタイミングよく共同スペースのソファにミュウとミカサが座って話をしていた。
「丁度良かった。二人に話があります」
「何?改まって」
「何です?…また無茶な注文じゃないでしょうね」
神妙な様子のに不思議がりながらミュウは答え、ミカサは皮肉めいた言葉を返した。
けれど彼女の表情に変化はなかった。
「暫くの間、AL開発チームから抜けさせてください」
がそう言うと二人は酷く驚いた。
特にミュウは彼女がそのようなことを言い出すとは思いもしなかった様子である。
「――ナヲミさんは私の論文を見ていらっしゃいました。
今は彼女を元気づけたいのです。
完治は難しいかもしれませんが、できることなら元の生活に戻る程度まで回復させたいと思っています」
「…僕には詳しいことは分かりませんが、現状では回復の可能性は極めて低いのでは?」
「はい、そうです。
ですが、何もせずにただ見ているだけなんてできません。
AL開発に使っていた時間をあの病の解明と研究に使いたいのです。
勿論、専門外の私は医療チームの下で雑用をするくらいしかできませんが、
それでも私が手伝うことで彼らが研究に集中できる時間が増えるならできる限りそうしたいと思います」
の意志が固いと悟ったのか二人は静かに頷いた。
特にミュウはと同じくらいに深刻な表情を浮かべていた。
「…うん、そうだね。
ALは納入期限もないし急ぐ必要はないから、の言う通りナヲミのことを優先しよう。
ボクも力になれることなら協力するよ」
そう言ってミュウはにこりと笑った。
続いてミカサも口を開く。
「僕も構いませんよ、別に。
ALの仕事が減った分、別のことに時間をとれますから。
…医療のことは詳しくないですが、勉強しておきます。後々、研究機器を発注されることもあるかもしれませんし」
それぞれの優しさを感じながらは二人に感謝した。
ナナミのALは皆の夢だ。きっといつか完成させてみせる。
けれど今の自分にはナヲミのことを完全に人任せにできない。
少しでも力になれるなら何でも差し出そう、知識も時間も労働力も。臓器だって。
死がじわじわと押し寄せているナヲミを前にして自分が死ぬ気で取り組まなくてどうする、とは初めて強気な気持ちで己を鼓舞していた。
「二人とも、ありがとうございます」
その日からは勤務時間後のAL製作にあてていた時間を第4医療チームの研究室で過ごすことになった。
そこでは試薬の調達や消耗品の管理、掃除や器具洗いなどの雑用的仕事をこなしている。
部外者であるのに人工細胞の研究の経過と研究ノートを共有させてもらっているのは幸いなことだとは感じながら、
その合間に本土から寄せられた研究結果を見比べては別のアプローチも探すのだった。
早速、明日にでも全員が揃ったら自己骨髄細胞投与の検討を提案するつもりでもある。
体力が落ちたナヲミから骨髄を採取するのは難しいかもしれないが、
骨髄細胞を投与した結果、繊維化して固くなった肝臓の肝細胞を再生させることに成功した例があったのだ。
肝臓以外の臓器でも再生は可能かもしれない、可能性があるなら何でも試してみたいとは思う。
分子生物学はナヲミだけでなく同じような治療困難な病で苦しむ人を救うことができる可能性がある分野だ。
研究所も費用を惜しみはしないだろう。
はこれまでで一番集中力が高まっているのを感じた。
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