は四階の研究室で回路と睨み合っているミカサの姿を思い浮かべる。
朝食は一緒に摂ったけれど、彼はもしかすると昼食を抜いて作業をし続けているかもしれない。
ミカサは目標を決めたらそれをクリアするまで妥協せず突進し続ける頑固なところがあるのだ。
彼の休息の為にも食事に誘ってみよう、とは思った。
携帯端末でミカサのステートを確認してみる。
彼のステートは朝食を摂った後からからずっと“仕事中”のままだ。
面倒臭がってステートを変更していないだけの可能性もあるが、それ以上にミカサはぶっ続けで仕事をしている方が多いのだ。
は携帯端末からミカサに今から食事はどうかとメッセージを送ってみる。
すると「30分後なら」と返事が戻ってきたので一先ず安心した。
どうやら疲れて倒れていたり、メッセージにすら気づかない程に仕事に夢中になっていたわけではないらしい。
彼の仕事が一段落するのを待って、一緒にテイクアウト用料理を買いに行こう思ったは
それまでの時間をどうやって過ごすか思案した後、今朝、ミュウが見せてくれた絵本を読んでみようと思い
共同スペースのマガジンラックを覗いてみることにした。
しかしながら既にもう彼が小児病棟に返したのか、見つけることはできなかった。
残念に思いながらも、はどこか安堵していた。
全て思い通りになる世界の王様の結末は何となく予想がついたからだ。
きっと王様は最終的に一人ぼっちになってしまう。
他を排除し、何もかも自分の好きなものや自分にとって都合の良いもので固めてしまうと途端に世界は狭くなってしまうのだ。
私はそれを知っている――とは祖母の顔を思い浮かべる。
あの家に限られるけれど、祖母はあの家の王だった。
両親の代わりに自分を育ててくれたことは感謝しているし、唯一の家族ということで情も感じているが、
温かな感情を向けられたことはなかったとは記憶している。
彼女にとって自分はどのような存在だったのだろう。
誰も育てる者がいない為に仕方なく育てていたのだろうか。
だから必要以上に関わろうとしなかったのかもしれないし、
「学はいらない」と頑なに彼女の考えを押し付けてきたのかもしれない――と、
祖母と離れて彼女への生活的な依存が不要になったことで穏やかに彼女のことを考えられるようになった現在のは思うのだった。
「お待たせしました」
共同スペースのソファで無意識に俯いていたは、頭の上から降ってきた声に驚いて慌てて顔を上げた。
仕事を終えたミカサがそこには立っている。
「わざわざ迎えに来てくれたんですか」
「メッセージを送ったのですが反応がなかったので」
「気づきませんでした、すみません」
はすまなそうに頭を下げ、携帯端末を確認してみると
数分前にミカサから仕事が終わったが今どこにいるのだ、という内容のメッセージが届いていた。
「先に買っていても良かったのですが、折角ですし一緒に買いに行こうと思って待っていたんです」
「そうですか。じゃあ、行きましょう。
ミュウはそこにいます?」
ミカサはそう言ってミュウのブースを確認したが、彼の姿はなかった。
彼も食事をしに席を外しているか、ナヲミのところへ行っているのかもしれない。
「あの人、ちゃんと食べてるんでしょうかね。
…まあいいです。僕らだけで行きましょう」
「はい」
二人は食堂に行き、注文口に置かれている小さな看板に書かれたメニュー表を見る。
既定の帰宅時間を過ぎた為、ランチタイムのような混雑はないが、
元々昼食用の食堂なので17時以降は時間外料金が加算されるらしい。
それでも社員割引があるので外で食事する金額と比べると微々たるものであろうが。
そして夜はメニューも二種類だけとなる。
本日のAメニューはミネストローネ、かぼちゃといんげんのサラダ、鶏肉のトマト煮、ホタテチーズクリームのパスタ、オリーブとリンゴのケーキ。
Bメニューはカブのポタージュ、アボカドとマグロのサラダ、スズキの海鮮と香草の包み焼き、リガトーニのカルボナーラ、パンナコッタ。
今日は両方ティン島料理のようだ。
とミカサは二人ともBメニューを頼み、テイクアウト用と伝えると職員が手際よくテイクアウト用の容器に料理を入れていく。
それらの入った大きな袋をできるだけ揺らさないようにして持ち、二人は朝と同じく四階の休憩室へと向かった。
はいつものように二人分の炭酸水を入れてテーブルへ置き、料理の入っている容器の蓋を開ける。
それぞれ出来立ての料理の美味しい香りがの鼻先をくすぐり、食欲が一気に掻き立てられた。
「美味しそうです」
「思ったよりも量が多そうですが、君は大丈夫です?」
「ええ、食後のデザートまできっちり食べるつもりですよ」
そう言っては食後に食べる予定のパンナコッタを笑顔で見つめた。
そんな彼女にミカサは心なしか穏やかに微笑みかける。
はミカサの微々たる表情の変化が嬉しかった。
彼の温かな眼差しは彼女の心もまた温かなものにするからだ。
それは祖母と暮らしていた時には知らなかった感覚である。
「――元気そうですね。それなら良かった」
ミカサは仄かに微笑んだように見えた。
どうやら彼は心配をしてくれていたようである、とは気づく。
「どうやら心配させてしまったようですが、何か気になるところでもありましたか?」
「君がメッセージにも気づかずにぼうっとしているなんて珍しいにも程があるでしょう」
「あれは本当にすみませんでした。考え事をしていものですから」
「どんなことを考えていたんですか。やはりALのことです?」
「いえ…それが……」
は正直にミカサに話すことにした。
きっかけはミュウが見せてくれた絵本だったということ、それから自分と祖母の数年間の関わりを思い出したこと。
また、関わりと呼べる程の交流をした記憶もなかったことを。
そして「学問はお前を不幸にする」と言った祖母の言葉に反するように今の仕事についてしまった自分を
きっと祖母は心底呆れ失望しているだろうということも全て話した。
ミカサは食事をする手を止めて真剣に耳を傾けているようだった。
そして視線を落とすの僅かに動く睫毛をじっと見つめる。彼は彼女の気持ちを何となく察していた。
――はどうしてか自己評価が低すぎる。
何事もすぐに理解し応用できる力もあるし、ミュウ程ではないにせよ0を1にすることができる可能性を持った者だ。
更には表情や感情表現は控えめではあるがいつも他人を思い優先するような人間である。
そんな彼女が己のことをこんなにも卑下するのは、子どもの頃に祖母から承認欲を満たしてもらえなかったのだろう、とミカサは考えた。
子どもは純粋だ。できたことに対して「すごい」とか「良くできたね」と褒められると自信を持つ。
その自信が自己肯定感を育て、それは新たなことへチャレンジする勇気となる。
時折、実力もないのに変に己に自信を持ちすぎている勘違い者もいるが、
それ以上に実力があるのに自信のない者は見ていて腹が立つこともある。
は後者だ。圧倒的な能力と実績があるのに自分の身近な者が褒めてくれなかったことで
“自分は本当は不要な人間なのだ。だからせめて精一杯働いて誰かの役に立たなければ”という卑屈な思考に陥っている。
そんな彼女は哀れでもあるが、彼女の実力を知っている身としては歯がゆい気がするのだった。
彼女にとっては祖母が絶対的な王であったのだ。
しかし彼女はミュウやナナミの為に彼女からの支配から脱すると選択した。
は今の自分があるのはナナミを含む皆のおかげだと言い、ミュウの望みの為に生きているし働いている。
けれど恐らく彼女にとっての王がミュウに変わっただけなようにもミカサには思えた。
に必要なのは彼女の能力を除外した性質や性格をそのまま受け入れて愛してくれる人なのではないだろうか。
そして、それに最適な者は彼女の祖母以外に見当たらなかった。
ミュウも恐らく自分も、という人間のことを能力を含めて評価している。
特に自分は彼女が働く前の子ども時代の記憶すら何故かないのだ。
そんな状況で彼女にありのままの君が好きだと言えようか、とミカサは思ったのだった。
「――、君は一度家に帰った方がいいですよ」
「ミカサは前もそんなことを言っていましたね。
…いずれは帰るつもりですよ、今の仕事に区切りがついたら」
「ナヲミのことはともかく、ALが完成するのはずっと先です。
その間におばあさんに何かがあったらきっと君は後悔します」
ミカサがそう言うと、は喉をキュッと鳴らすように息を呑んだ。
その表情はとても苦いものに見えた。
「君はおばあさんときちんと話し合った方がいい。
言えるうちに言うべきです。
私はお婆様が好きです。愛して欲しいと思っています、と」
「――ああ…ミカサ」
はミカサの言葉に胸を撃ち抜かれたようだった。
パスタを食べていた彼女の手からぽろりとフォークが落ちる。
これまでずっと見て見ぬふりをしようとしていた。祖母を思い返す時にぽっかりと胸に穴が開くような感覚を。
しかしその穴にミカサの言葉がぴたりとはまったのだ。
瞬間、は全身に雷が走るような思いがした。その後に訪れたのは震えるような脱力感だった。
――ああ、そうか。私は愛されたかったのか。人並みに甘えてみたかったのかもしれない。
そしてそんな自分の甘えを笑いながら相手に受け入れてもらいたかったのかもしれない。
はそんな当たり前の感情から逃げていた自分に気づく。
全ては祖母から愛される自信がなかったからだ。
自分は祖母に仕方なく引き取られた存在だから、そこに愛は存在しないと決めつけていた。
だから最初から逃げていた。しかし――
「お婆様は実際に私を愛していません。
そんな人間から愛している、愛して欲しいと言われても苦痛なのはないでしょうか」
「おばあさんの本当の気持ちは彼女にしかわかりません。
君はもう大人です。勇気を出して聞いてみてはどうですか。
…もしおばあさんが拒絶するようなことがあったら、その時は振り向かずに本当に家を捨てて出て行けばいい。
君には僕やミュウがいます。傷ついた君は僕らが守っていきます」
の言葉に重なるような勢いでミカサは返事をした。
その言葉は厳しかったが、諭すような口調だった。
彼の真摯な態度はの動きを封じる。
彼女は熱い感情の波が全身に襲い来るのを感じていた。ミカサの言葉に酷く感動してしまっていた。
「――僕はのことを大切に思っています。
君を必要としています」
一呼吸おいて口を開いたミカサは、一つ一つの言葉に命を吹き込むように
はっきりと、しかし穏やかな声で語りかけた。
その刹那、は口を押えて俯く。
肩は小刻みに揺れ、堪えきれない涙がテーブルを濡らしていた。
ただただ嬉しかった。ミカサが心から自分を必要としてくれていることが分かったからだ。
――ミカサは本当に聡い人だ。
平然とこちらの求める答えを返してくれる。
そしてその答えは相手の身に立って考えた上での最善のものなのだ。
「、食事が冷めますよ」
何事もなかったようにミカサは彼女にすっとハンカチを差し出し、食事を再開する。
けれどその声もどこか優しい響きがあった。
は有り難くハンカチを受け取って溢れた涙を拭う。
白いハンカチの隅に小さく南天の実が刺繍がされていた。恐らく彼の母親のお手製だろう。
「…ミカサ、ありがとうございます。
ハンカチは洗って返しますね」
は心の底から溢れてくるミカサへの感謝と温かな気持ちを今日一番の笑顔で示したのだった。
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