「ミカサですか?」
「そうそう、ミカサくん」
「…あら手帳ですね」
ちゃんたちの世代で紙媒体を使うなんて珍しいわねえ」
「そうですね。ともあれ、内容は不明ですがこんなところに忘れるなんてミカサにしては不用心です。
 きっと疲労困憊しているんでしょうね。――では、これは私から返しておきます」
「ああ、助かるよ。ありがとう」

 売店の女性から牛革の手帳を受け取り、はミカサの研究室へ向かった。
呼びかけるといつもと変わらぬ無表情のミカサが現れる。
しかし、彼の顔色はいつになく青白い気がした。
きっとまた睡眠時間を削って回路を組んでいたのだろう。

「ミカサ、忘れ物をしていましたよ」
「あ、それは。…すみません。ありがとうございます」

 目の前に差し出された手帳をミカサは何事もなかったように受け取る。
彼の動揺する姿は滅多に見れない。
今日こそは慌てた姿が見れるかもしれないと思っていたが、とは少し残念に思う。

「食堂に忘れるなんて不用心です」
「特に重要なデータは書き込んでいませんので心配はいりませんよ」
「それにしても紙媒体とは珍しいですね」
「この携帯端末は文字入力が面倒臭いので紙に書いた方が早いんです」
「確かにそれはそうかもしれませんが、食堂で何を書いていたのですか?」
「周りの人間の癖をチェックしてメモしていたんですよ。
 そういう些細なところに新製品のヒントがあったりするものなんです」
「ほう…そういうものなのですか?」
「はい。とはいえ、僕は技術屋なのでそこまで関係ないですけどね」
「…良かったら内容を見せてもらってもいいですか?」
「はい、いいですよ」

 人の無意識の行動がどんなものか純粋に気になったは、
無意識にサンプルを提供してしまった人たちには悪いとは思いつつ手帳を見せてもらうことにした。
彼は静かに手帳を開いてに差し出す。手帳はシステム手帳でスケジュールやメモが細かく書き込めるようになっているが
ミカサは罫線が引かれたページに箇条書きで人々の癖を書き上げていた。
 ページには右側だけで咀嚼、とか、缶のタブを手前から人差し指で開ける、
もしくは親指で手前から開ける、などといった細かい癖が羅列されている。
普段意識したことがなかったが、は自分はいつも両方の歯で噛んでいただろうかなどとつい考えてしまった。
無意識で出てしまうから癖なのであろうが、こうやって第三者に気づかれているというのは少々恥ずかしく情けない。
これからは行動に気をつけようとは思った。

「あら…」

 がページを捲っているとひらりと一枚の写真が床に落ちる。
拾い上げたその写真にはミカサとミュウ、そして二人の両親が写っていた。
正確にはミカサにとっては実の両親であり、ミュウの新しい両親である。
 ミカサの白群の髪の色は父親譲りで、端正な顔立ちは母親譲りらしいことが窺えた。
子どもの時の写真ですら表情が硬いミカサと対照的に、ミュウは穏やかな表情でミカサの隣に立っている。

「私が言うのもあれですけど、貴方、子どもの頃から表情が硬いですね」
「元からこういう顔つきなんです」
「はあ」

 自分とは違いミカサは何の欠陥もない筈だが性格が冷静な者は表情もそうなってしまうものなのだろうか、とは首を捻る。
ミュウのような明るい子が傍にいればつられて明るくなりそうなものだが、とも思う。
 ミカサは一体どのような幼少期を過ごしたのだろうか。
勿論、彼と一緒に遊んだ記憶はあるが“遊んだ”ということのみ浮かんでくるのに具体的な事象はには思い浮かばなかった。
以前にミュウに言ったが初めて出会った時の印象が強すぎて、他の記憶が薄れてしまったらしい。
それも己に興味を持たないからだろうかとは少し冷めた感情を抱いたが、
それにしても大切な友人らとの思い出まで忘れてしまうのは薄情以外の何物でもないと反省した。

「貴方はナナミと彼女に関する記憶が無いと言っていましたけど、どんな子ども時代を送ったのかは覚えていますか?」
「そうですね…それは覚えていますよ。
 母親は奉仕活動に力を入れていて僕もよく連れられて施設を回ったり、施設に配る為のクッキーを作る手伝いをさせられていました。
 父親は物静かで、今考えるに仕事人間でしたね。あまり家にはおらず家のことには口を出しませんでした。
 時々、家族で奉仕に出ることはありましたけど。
 …僕はそんな両親が嫌でした。幼かったんですね、実の息子である自分が他の子どもと並列にされてしまうことが嫌だったんです。
 そんな僕は外に出て周りの大人たちから両親の噂を聞きたくなくて、できるだけ家で一人で遊んでいたものです。
 皆して両親を褒めるものですから余計に反発していたのでしょう。
 ミュウが家族の一員になってからは二人でよく遊ぶようになりました。彼と一緒にいる時は周りなんてどうでも良かった。
 室内でも屋外でも遊びは尽きませんでしたね。遊具がなくても二人でいれば何らかの遊びが始まって時間が進みました。
 嘘しか言ってはいけない遊びとか、箱を世界に見立てて箱の中に自分の好きな世界を作ってみるとか、勇者と悪い王様ごっこなんかもしていましたね。
 大抵王様はうちにあったぬいぐるみで僕たちは二人とも勇者でしたので、ただぬいぐるみと格闘していただけだったですけど。
 …そのうち、両親は表立った奉仕活動をやめました。もしかするとミュウに気を遣っていたのかもしれません。
 彼は施設に入っていましたから、それを思い出させたくなかったんでしょう。
 次第に家族揃って過ごす休日が多くなり、僕はそれが嬉しかったのを覚えています」
「そうですか…」

 ミカサの話を聞いたは彼の知らない一面を知る。
彼はとても寂しがり屋だ。そして、たとえ家族であっても自分からは甘えられない不器用な人。
恐らくポーカーフェイスなのも不器用さが生んだものなのだろう。

「たまには職場に泊まるのをやめてミュウと家に帰ったらどうですか?」
「そうすべきなのでしょうが時間がないので」
「そうかもしれませんが…」

 同じ状況のにはそれ以上は言えなかった。
同じく職場に泊まり続けている身だ、自分が何を言っても説得力はない。

「君も一度帰ってはどうですか?家はおばあさん独りなんでしょう?」
「ええ、そうです。心配は心配なのですが…今のところは問題ないようですし」

 は祖母のベッドに感知センサーを設置している。
ある一定の時間、ベッドに負荷がかからないままだったり、逆にずっと負荷がかかっている状態が続いた際に
の携帯端末と市の厚生員へ連絡が行くことになっているし、
祖母がベッドから出た時とベッドに入った時の時刻、そして一日の終わりにその日の体重がの元へメールで送信されるように設定していた。
はそれを毎日チェックすることで時間の感覚を調整していたりする。

「そんな機械的なチェックではなく、たまには連絡したらどうですか?」
「時々メールはしますよ。ですがお婆様は“問題ない”と定型文そのまま返信するので……迷惑なのかなと。
 耳が遠くなったようなので音声通信も難しいですし」

 自分でも言い訳じみていると思いながらは答えた。
祖母は何でもの好きなようにさせてくれていたが、ただ「勉強なんてしなくていい」とだけ言っていた。
その唯一の祖母の願いを無視してこの仕事に就いたには後ろめたくて仕方なかったのだ。
反対する道に進んだ癖に一人前に心配してみせるなど祖母にとってはちゃんちゃら可笑しいことであろう。

「…君と僕はどこか似ていますね」
「そうかもしれません」

 とミカサは顔を見合わせて静かに口角を上げた。
それは遣る瀬無さを孕んだ笑顔だった。




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