「ミュウですか?」
「そうそう、ミュウくん」
「あら携帯端末を忘れるなんて珍しく仕事する気がないのでしょうか、あの人」
「ははは、いつも忙しいから置いて行きたくなるのも分かる気がするよ」
「では、私の方から返しておきますね」
「ああ、助かるよ。ありがとう」

 売店の女性から携帯端末を受け取り、は研究室へ戻った。
通路からミュウに呼びかけるが彼の返事はない。
用事で席を外しているのかもしれないが、もしかすると疲れて机で寝てしまっているかもしれないと思い
はそっと彼のブースに入ったがそこには彼の姿はなかった。
 とりあえず倒れているわけではないと分かりホッとしたものの、彼がステートを入力する携帯端末は自分が持っているので
居場所を確認しようがないし一体どこに行ってしまったのだろう、とは考えを巡らす。
今、ミュウがいる可能性があるのはミカサのところとナヲミの病室、そして――

「――やはりここにいましたか」

 隣の自分のブースに戻ったは床に寝ているミュウの姿を見つけて口元を綻ばせた。
彼は白く毛足の長いラグに身体を埋めるようにして眠っている。
どうやらとは入れ違いになったらしい。

「随分お疲れのようですね。
 どうせなら休憩室のベッドで寝た方が良さそうですけど」

 は荷物を机の上に置き、ミュウの隣に座ると彼の癖のある紫色の髪を優しく梳くように撫でる。
その感触が気持ち良いのかくすぐったいのかは分からないが彼は身を動かし、足を崩して座っていたの太ももに額を擦りつけた。
眼鏡を外した彼の寝顔はあどけなく、また猫のような仕草と相まっていつもよりもずっと幼く見える。

「…んー」
「ミュウ」
「…あ………?」
「起きましたか?」
「…うん」

 ミュウは未だぼんやりした目で自分の顔を覗き込むの顔を見上げた。
焦点は合わないが雰囲気と匂いで彼女だと分かった。
 毎日泊り込んでいる為、洗濯用洗剤やシャンプー等のアメニティグッズも職場のものを使っている筈なのにからは彼女特有の匂いがする。
微かに鼻先をくすぐる薔薇のような甘い香りはミュウにの家の広い庭を思い起こさせた。
自分のに対するイメージが花に囲まれた家の子だったからかな、とミュウは自嘲する。

「ミュウ、食堂に携帯端末を忘れていましたよ」
「ああ、あそこに置いてきてたんだ。助かったよ。ありがとう、
「お礼は今度売店の女性にしてください。私は託っただけですから」
「うん、分かった。でも、本当にありがとう」

 ミュウは起き上って机の上に置いていた眼鏡をかける。
そしてから携帯端末を受け取った。

「個人情報が詰まっているんですから気をつけないと」
「それはそうだけど、パスワードもかけてるから」
「研究部門や開発部門の人間ならある程度のパスワードは無効でしょう」
「確かにそうだね。でも、仕事に関するものは別にして保存してるし、
 ボクが携帯端末に入れてるデータなんて公用の個人情報だから見られても構わないけどね。
 所属部門と経歴や趣味特技とかどうでもいいことを入力するプロフィールだし。君も見たことあるんじゃないの?」
「見ないですよ、人の個人情報なんて」
「え、オフィシャル用のデータだし、社員や依頼主に見られて当然と思って入力してるから大丈夫だよ。
 皆そうだと思ってたけど君は違うの?」
「まあ、私も仕事用のデータは持ち歩いていませんからこの端末には大した情報は入れていませんけど。
 ……そういえば今更ですが私、意外と貴方のことを知らないですね。誕生日とか、好きな食べ物とか」
「ああ、そうなんだ」

 はばつの悪そうな顔で頷く。
これまでずっと一緒にいたにもかかわらず嗜好品や趣味などの話をした記憶がないことに気づいたのだった。
ミュウに限らずミカサともだが、彼らとは主に仕事やナナミのAL製作に関わる話が主で所々にナナミの思い出話を挟む程度だ。
それだけでも十分にコミュニケーションはとれているので別に不満はないのだが、
友人に対して仕事のことしか話題がないというのも少々寂しい気もする。

「じゃあ改めて自己紹介しようか? あはは、何だか照れるね。
 ――ボクの誕生日はAHD2840年9月2日、血液型はAB型。
 好きな食べ物はクラムチャウダー」
「クラムチャウダーですか。食堂のメニューにはありませんね」
「うん…」

 そう言うとミュウは急に口を閉ざした。
心ここにあらずという様子でどこか一点を見つめている。

「ミュウ…?」
「うん…ごめん。
 クラムチャウダーってね、ボクがミカサの家に引き取られた日に出た料理なんだ」
「え…」

 先程の彼の表情はノスタルジアに浸っていたものだったのかと合点がいく。
それにしては少し空虚な目をしていたようにも見えたがは深く考えないことにした。

「ミカサの家に引き取られてからずっと今の家族には良くしてもらってる。
 ナナミと出会ってからはよく三人であちこち遊んで回ってさ。…毎日が楽しかったなぁ。
 工場の廃材をかき集めて秘密基地を作ったり、人の家の犬に勝手に名前つけて回ったり」
「私の家の庭に忍び込んだり、ですね」
「…そうそう。
 どうしてもナナミが“ピアノの主が知りたい”って言うからさ。
 数日前から言ってたんだよ。“気になる〜!気になる〜!!”ってね。
 ――クラムチャウダーを食べるとそんな楽しかった時のことを思い出すんだ。
 ボクにとっては温かい記憶を甦らせる料理なんだよ。
 かといって誰のでもいいかというわけでもなくて、母さん以外のものはなんかちょっと違うんだ。
 母さんのものしかクラムチャウダーって認めない、って感じかな。子どもじみてるけど」
「そうでしたか」

 ミュウは少し寂しげだが穏やかな表情を浮かべていた。
彼が母親を大事に思っていることに心が温まると同時に
彼にとって大切なナナミとの記憶がつらいもので上書きされていなくて良かったとは心から思う。
しかしながら彼にとってナナミの存在がどれほどに重要な位置を占めているのかを実感せずにはいられなかった。

「それにしても、今思うと当時の私の演奏は面白味も何もない、ただ楽譜の音符そのままを弾いていただけだったかと思うのですが
 何故ナナミは私の演奏を聞いてそんなに興味を持ってくれたのでしょうね」
「ボクも上手だと思ったけど?」
「あの頃は感情もなかったですし、“気持ちを込めて演奏する”ということを理解していなかったんです。
 でも、ミュウが上手いと記憶に刻んでくれているなら、そのままの記憶でいて欲しいです」
「…うん。ボクは忘れないよ、君のピアノの音。ナナミと聞いた思い出と共にね」

 過去を偲ぶような顔でミュウは呟いた。




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