その後、無事に問題個所を見つけて修正したはミカサに確認してもらって作業を終了した。
そうして席を立とうとすると彼から呼び止められる。
「、差し支えなければ頼まれてくれませんか。
受付に15時迄に提出しなければならない物がありまして。大したものじゃないんですが」
「えっ!あと少しで期限じゃないですか!? 早く貸してください」
「助かります」
「では、行ってきますね」
「はい、お願いします」
そうしてはミカサからデータカードを預かり、一階の総合受付へと向かった。
総合受付では企業の来客だけでなく一階にある医療施設を利用する患者も対応している。
だが、一般診療はしておらず主に治験の協力者や治療法の確立していない重度の病を患った者が対象だ。
研究所と銘打っているだけあって新薬や医療機器、医学研究を前提とした――言い方は悪いが実験とも言える治療が主となる。
「やあ、くん」
二階からエレベータに乗り込んできた中年の男はに親しげに挨拶をする。
その男は医療部門に所属している外科医であり部長でもある。
腕が良い医者として有名であり、これまでティン島では不可能に近いと言われていた臓器移植を何度も成功させている医者だ。
しかしながら近年ではティン島でも技術が進み人材の育成にも力を入れ始めた為、
ネープル帝国本土とほぼ同じ医療が受けられるようになったことにも因るのだが。
「こんにちは。これからプレゼンですか?」
「ああ、本社まで行ってくるよ。
――ところで何度も言うようだが君、医療部門に移って来ないかね?
君の論文は非常に興味深いのでね。私の下で研究を手伝ってもらいたいのだが」
「いえ…私は医学のことは専門外ですので。
以前書いたものもデータ統計学であり医学論文と呼べるものでもないですし」
「そうかい? 私は面白かったがね。君なら机上の空論で終わらせないと思ったが。
まあいい、気が変わったら私の研究室に来なさい。お勧めの本があるんだ。是非君の感想を聞かせて欲しい」
「はい、機会がありましたら伺います」
一階に着きエレベータの扉が開いた。
は男に頭を下げると、彼は彼女の肩をポンと叩いて職員用の出入り口の方へ向かう。
そんな彼の後姿を見ながらは「感想という名のレポート提出なんですよね」と溜息を吐いた。
先程の男とのやり取りの中で出てきた論文を書くきっかけは医療ソフトの開発だ。
研究所の医療部門で使用する病歴管理システムを構築した際、入力した患者のデータを見ていてふと気がついたことがあった。
の知る限りまだ名前はなかったが、ある症状を発症している患者の殆どが同じような病歴を経ていたのだ。
皮膚への色素沈着、下痢や息切れ、関節の硬直や腎不全が認められ漸く医師たちは既存の病とは違うと認識し始め、
最終的には臓器が硬化し呼吸不全や多臓器不全で死に至る。
しかし最終的な病の発症までに長い年月がかかり、また様々な疾患を経ていたのでそれまで関連性が研究されることはなかったのだった。
は患部箇所から内分泌異常に着眼して病変が脳下垂体にあるとし、
この病を下垂体機能低下症、それによって臓器が硬化することを原発性下垂体臓器硬化症と名付けた。
そして不足している成長ホルモンを補充するホルモン療法の必要性と
既に硬化した臓器を再生する物質の一つとして葉酸が有効だという論文を書いた。
彼女としては実験期間が短く検証も甘くて論文として成り立っていないと思ったのだが、
その論文を目にした外科部長の手から医学雑誌の編集者に持ちこまれてしまったのだ。
の論文の一部は彼の研究の一端として医学雑誌の隅に載ることとなったが、
彼女が考えていたように現時点では医学的根拠がないと批判され、
やはり専門外のことに首を突っ込んではいけないなと思わせるのに十分だった。
「あら、さんじゃない」
「こんにちは。今日はミカサからカードを預かってきました」
受付の女性にはカードを手渡した。
とミュウは独自に行っているAL研究が社内記録に残らないようにデータカードを使っているし情報共有システムも使用していないが、
昨今では情報共有システムでの情報のやり取りが主流で直接データカードを手渡すことなど滅多にない。
社内共有システムが構築されている総合科学技術研究所では尚更だ。
一体、どんな内容が記憶されているのだろうとはふと思う。
そうとはいえ、他人に預けても問題ないということは左程重要ではないかもしれない。
そんな彼女の視線に気づいたのか、受付の女性はカードをちらつかせた。
「良かったらさんも今週末どう?」
「何かあるのですか?」
「開発部門の人達と食事会なのよ」
「…はあ」
は思わず拍子抜けな返事をする。
詳しく話を聞くと、どうやらミカサのカードには食事会参加者の名前や連絡先が入っているのだそうだ。
彼女らもさすがに私的な用事に情報共有システムを利用できないと考えたのだろう。
「さんが来たら男性陣、喜ぶと思うわよ」
「はあ…そうでしょうか。ですが、当分仕事が忙しいのでお断りします」
「そうかー残念。
――あ、そういえば、さっきさんくらいの年頃の女の子が来たのよ。
先日医学雑誌に載っていた貴女の論文を見たって」
「私の論文をですか? まだ仮説段階でかなりの酷評でしたけど…」
「貴女が取り上げていた症例と同じような病気らしいって。今、診察を受けているから後で会ってみたら?」
「…はい、分かりました」
は重い気持ちで受付を後にした。
論文を見て来たということは回復の可能性があると考えてのことだろう。
あの論文はその患者に希望を抱かせてしまったのだ。
下垂体機能低下症はまだ完全な治療法が確立していない。特に硬化した臓器を完全に元の健康な状態に戻す方法はまだ見つかっていない。
薬物治療が確立していない現状では、臓器移植で正常なものに変えることしか確実な治療法はないとは思っている。
しかしながら、拒絶反応の危険性もあるし根本的に脳下垂体の異常を治さなければ意味がないことを考えると
臓器移植は治療と言うよりも延命措置でしかない。
何も加療しない状態で下垂体機能低下症による臓器硬化症を発症した場合の五年生存率は50%で、一年ごとに10%ずつ落ちていく。
若年性アルツハイマーのような症状を合併することもあり、
患者は次第に動かなくなる身体から着実に死へのカウントダウンを感じ取ることになる。
そのような不安や恐怖を抱く患者に対して自分の論文はなんと無責任なものであろうかとは痛感した。
「――何階に、行きますか?」
エレベータに乗り込んだに話しかけた声は若々しく可愛らしいが少し息切れしているようだった。
誰かが先に乗っていることにも気づかない程に落ち込んでいたのかと半ば呆れては顔を上げながら答える。
「五階まで――っ…あ、貴女は!?」
思わずは息を呑んだ。
目の前の女性は不思議そうに首を傾げながら彼女を見つめている。
そんな仕草もにとってはどこか懐かしい。
「……すみません。貴女が私の友人にとても似ていたものですから」
「そうでしたか」
目の前の女性は花のように可愛らしく笑う。
そんな笑顔を向ける彼女には泣きつきたい思いに駆られた。
彼女はナナミの生き写しなのだ。
ナナミがあのまま成長していたらこんな姿になっていただろう、とは必死に涙を堪えながら思った。
※この話の中に出てくる症状や病名は私が勝手に作ったものです。
世の中で同じような名前のものがあるかもしれませんが、それとは別物ですのでご了承ください。
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