彼女の場合 第四話
入浴を手短に済ませると初音が「早やっ」と驚いていた。
色々なことがあって疲れたけれどもやるべきことが多すぎて精神が高ぶってしまい、ゆったり湯につかる気になれなかったのだ。
初音の化粧品を借りつつスキンケアを済ませ髪の毛を大まかに乾かし、
話に夢中になり過ぎて喉が渇いた時の為の飲み物まで用意してから私はまず植松響士の携帯端末へ音声通話を試みる。
の携帯端末はカード型のものであり自分の持つ腕時計型携帯端末とは違っていたので若干使い難いが、
基本操作はだいたい同じ筈なので使いながら覚えていくことにした。
「はい、植松…だけど」
「夜にごめんね。
――です、傷がない方の」
「…ああ、そうか」
私は膝を抱えるようにして座り、膝の上に手を固定して携帯端末に向かって話しかける。
響士は携帯端末の液晶に映ったの名前を見てどう思ったのだろうか。
もしかして以前のに戻っているのでは、と期待したかもしれない。
残酷だが彼の悪夢は終わらない。私が存在する限りはずっと。
「初音ちゃんに傷のこと、聞いたんだ?」
「うん、植松くんと楳澤くんとのこともその時聞いたよ。
それからと仲良くなったって」
「…何だかの声でって発するのを聞くのは不思議な感覚だな」
「そうだよね。でも、区別した方が話が理解しやすいものだから、もう一人の方はって呼んでる。
初音もこれまでこの世界で暮らしてた方を“お姉ちゃん”って呼び始めたよ。
私はただのお姉ちゃん呼び」
「この世界って…他にも世界があるんだ?」
「私がいた世界があるのは確かよ。
だから私は二つの世界間でという存在だけが何故か入れ替わったと思ってるの」
「並行世界か…うん、そうか。
俺としては記憶喪失でも多重人格でも構わないって思ってたよ。
いつか俺の知ってるが戻ってくるかもしれないから」
「…そうだね」
私はこの世界にいたの周囲の人達を不憫に思った。
はいつこの世界に戻ってくるか分からない。
このままずっと戻ってこないとしたら、彼らの知っているはこの世界にはもういないということになる。
それは死んでしまったのと同じだ。
もしかすると初音はまだそのことを深刻に受け止めていないのかもしれないし、
いつかまた入れ替わるだろうと楽観的思考なだけかもしれない。
けれど私との入れ替わりの原因や方法が分からない以上、
響士が感じているように医学的な治療や時間の経過ではどうにもならない可能性の方が高いのだ。
「それでもまた入れ替わりが起こる可能性だって無きにしも非ずだよ。
貴方は諦めないであげて」
「…そうだね、うん、そうする」
「その為にもを襲った犯人を捕まえたいの。
が戻って来てもまた襲われたんじゃたまらないし、私も襲われるのは怖いしね。
でも、今の私には傷もないから警備隊に被害届を出すこともできないものだから、
とりあえず身の回りに怪しい人がいないか気をつけたいと思うのよ。
それでと仲が良かったって言う植松くんに色々と話を聞きたいの。
自身のこととか、彼女の普段の行動範囲とか知ってること何でもいいから」
「少し話しただけだけど、君は…」
「私のことを表現しづらいならって呼ぶ?との区別化の為にさ」
「そうだね。じゃあ、…はとは少し違うね」
「初音もそう言ってたよ。はもっとお淑やかだったってね。
植松くんから見てはどんな人だった?」
「は…柔らかいっていうイメージかな。何言っても笑ってくれるし、許してくれそうな子だよ。
実際、怪我をさせた俺たちのことを許してくれたしね」
「でも故意に怪我させたわけじゃないんだから許すものじゃないの?
私はどんな状況だったのかは分からないけど」
「どうだろう、絶対に許さないって人もいるかもしれないよ。生え際に近いけど顔だしね」
「ふーん、そういうものか」
もし怪我をしたのが私だったら許していたのだろうか。
故意でないなら私も許しそうな気がする。
それでも私の場合は“柔らかい”とは評されないとは思うが。
「俺たちもさ、女の子を怪我させたのなんて初めてだったから物凄く動揺して毎日待ち伏せして謝り続けたんだ。
今思うとそれも迷惑だったんだろうけど。
も、もういいって毎回言ってたけどこっちの気持ちが収まらなくてさ。
でもある日“あるお店に付き合ってくれたら許すからこの話はおしまいにして”って言われて女の人が一杯の店に連れていかれてね、
食パン5枚分くらいの厚さのフレンチトーストを三人で分けたんだよ。
“一人じゃ食べきれないけどずっと食べたかったから助かった”って言っては笑ったんだ」
携帯端末越しの響士の声は先程よりもずっと穏やかなものになっていた。
彼にとってその思い出はとても大切なものなのだ。
彼らの始まりの記憶であり、恐らく彼がに好意を持つきっかけになった出来事なのだろう。
「それからは肩の力を抜いて接することができるようになって、会った時に挨拶するようになって、
高校三年生で俺が同じクラスになってからは俺とキヨとの三人か、初音ちゃんも含めて四人で一緒に遊ぶようになったんだ。
…そんな感じでどんな相手でも包み込んでくれるような柔らかさというか、温かさを持つ子だと俺は思ってるよ」
「うん、植松くんがを凄く好きってことはよく分かった」
「おいおい、と同じ声で茶化すなって」
彼はくすっと笑った。
だが、すぐに声のトーンを落として彼は口を開く。
「でもそれは本当だよ。俺はが俺たちを許してくれた時から好きになったんだ」
「やっぱりそうか。そんな感じがしたよ。
のことを話す植松くんの声、穏やかだもの」
「もくらい察しが良ければ良かったのにな」
「え、気付かれてなかったの?」
「うん…どうだろう。本当は気付いていたと思う。
でも、迷ってたんじゃないかな。あいつは…他に好きな人がいたみたいだから」
「え?植松くん以外で?」
「うん、何となく…だけど。
キヨなんじゃないかなって俺は思ってる」
「楳澤くん?!」
「そう。今日、俺の前に待ち合わせしてたって言ってたろ?
通常のだったらそんなことしないと思うんだ」
「でも、三人で一緒に遊びたかったのかもしれないし、
もしかしたら植松くんに内緒で何かサプライズを仕掛けようとしてたとか、
はたまた植松くんのことが好きだけどどうしたらいいと思う、なんて相談とか」
「…相談はあるかもしれないけど、サプライズとかそういうポジティブなものじゃないと思う。
だって俺、昨日あいつに告白したんだ。
今日の待ち合わせはその返事を聞くためのものだったからさ」
「なんですって!?」
私は思わず携帯端末にキスしそうなくらいに顔を近づける。
響士の話はこうだ。
昨日はと一緒に彼女の部屋に置くコンピュータを買いに行った。
何でも最近、のコンピュータの調子がおかしく勝手に夜中に起動したり終了したりすることがあり、
買い替えを考えていたそうなのだが彼女は機械全般が苦手で最低限のことしか分からないそうで、
響士が相談に乗り彼の提案で一緒に買いに行くことになったそうだ。
そして購入後に行う最初の設定諸々を響士がしてやり、作業が終わって一息ついた時に告白したらしい。
返事は翌日の11時半にが行きたがっていたカフェで食事をしてから聞かせてほしい、と言って
彼は空が茜色に変わる頃彼女の部屋を後にした――その話を聞いた私は携帯端末を左手に持ち替え右手の人差し指を眉間に当てる。
試験中ならばシャープペンシルだったりすることもあるが、これは私が物を考える時の癖のようなものだ。
「うーん…」
昨日、響士はに告白し、今日会って返事を貰う予定だった。
しかしは待ち合わせ前に清亮と会う約束をしていた。
…普通、告白された人間に返事をする前に他の男に会うだろうか?
いや、もしかすると「植松くんに告白されちゃったけど、どう思う?」などと言って
清亮に背中を押してもらいたくて相談しようとしたのかもしれない。
しかし、どちらかというと――
「――キヨに告白して振られたら俺と付き合うつもりだったのかな」
そう、そうにも取れる行動だと思う。
例えば、はずっと清亮の方が好きだったが響士に告白されてしまった。
響士は悪い人間ではないし嫌いではない、かといってずっと好きな清亮を諦めきれない。
なので清亮に思い切って告白してみて、駄目なら諦めて自分を愛してくれる響士と付き合おう…ということは考えられないか。
「…とはいえ、私はがそんなに器用なタイプじゃないと思いたいんだけどな」
「うん…俺もそうだよ。
は優しい性格とはいえ無理なら無理だと正直に言って断るタイプだと思うし、
もしキヨに告白してOK貰えたとして、直後に俺を振ってキヨと付き合い始めるようなタイプには思えないんだ」
「植松くんはが楳澤くんと会うことも、会う理由も知らないまま?」
「うん、そうだよ。
今日、帰りながらキヨに聞いたけど、あいつも突然会って話がしたいって言われただけで何の用だったかは分からないって」
「そうか…。その辺は楳澤くんにも聞いてみるかな。
じゃあ、他のこと…の趣味とか最近はまってたこととか知ってる?」
端末の向こうの響士は「うーん」と暫し考えていた。
だが、思い当たることはなかったようだ。
部活やサークルにも入っていないし、大学の売店でアルバイトをしていたけれど三年生になってからは
資格の勉強と就職活動の準備の為に辞めたらしい。
バイトの友人はそれほど多くなかったものの、ゼミ内で仲の良い同性の友人は数人いて、
その子らと遊びに行ったり一緒に行動したりしていたそうだが、特に何かに熱中する様子は見られなかったそうだ。
「もしも、だけどさ。植松くんに片思いしてる女子がいたとしてだよ。
その子にが一方的に恨まれてたなんてことはないかな?」
「えっ、俺のストーカー的な子がやったってこと?流石に周囲にそんな子はいないと思うけど。
俺、そこまで以外の女子とはプライベートでは会ったり遊んだりしてないし、相手に期待させるような言動はしてない筈だけど」
「うーむ、やっぱり無茶な推理か。楳澤くんも逃げていったのは男っぽいって言ってたしな…」
私がのことを知らないのもあって全然予想が付かない。
は私とはだいぶ違う人生を送っているようなので尚更だ。
は将来の為の勉強や準備を優先して行動範囲が狭くなってしまったようだが、私はもう少し活動的だ。
週三日程度ではあるけれども未だにアルバイトは続けている。
そのアルバイトも大学の売店などではなくガソリンスタンドだ。
体力や腕力が必要だったり、真冬や真夏など環境的に厳しいこともあるけれど、時給がいいことを優先した。
でないと車の維持費やら家賃やらであっという間にお金が底をついてしまうもので。
そんなことを響士に話すと酷く驚かれた。
は運転免許証を所持していないらしく、私が自動車を所有していることが意外だったようだ。
私は車が好きだし、運転するのも好きである。
暇な休日などはふらりと海までドライブし、周辺施設などまで足を延ばして遊んでから夜景を見ながら帰るのだ。
そんな過ごし方は私にとっての贅沢な時間の使い方と言える。
「そうなんだ。も旅行とかは好きみたいで日帰り旅行とかは初音ちゃんとよく行くみたいだけど、
自分で車を運転するなんて考えたこともないんじゃないかな。資格もないだろうし」
「そうか…こっちの世界で私が車に乗ろうと思ったらまず免許を取るところからしなきゃならないんだ」
「そうだね」
「嘘でしょ、またお金を払って同じ勉強しなきゃならないなんて……」
私は肩を落とした。こちらの世界で自動車の運転免許証を取ろうと思ったなら、また教習所に通わなければならないのだ。
お金と時間がかかることに私はショックを隠せない。
しかも大学三年生になると実験やレポート提出が増えるし、
就職を希望する者は就職の準備や資格の勉強もしなければならず時間に余裕がなくなってくる。
そんな状況ではますます教習所へ通うことは難しくなるだろう。
「あー、早くと入れ替わりたい。どうやったら入れ替われるんだろう。
を襲った犯人だけじゃなく、その方法も見つけたいんだけど…」
「そうだね、お互いの為にも元の世界で暮らせることが一番だよ。
今回はが襲われた時に起こったわけだし、何か外的なショックが原因とかかな?」
「うん、それは考えられるわね。しかも丁度同じ頃に私は気分が悪くて意識を失ってた。
二人とも同時に意識を失ったっていうのが鍵かも」
「でも、そうなると意図的に入れ替わろうとするのは難しいよね。
向こうのが意識を失う瞬間なんてわからないし、根本的に人が意識を失うなんて状況なんてそんなにあるわけないし」
「そうなのよね…。
意識を失うっていう意味じゃ睡眠は有りか無しか…有りならまだ希望はあるけど」
そんなことを考えると、元の世界に戻ることは絶望的に思えてくる。
けれどその考えを口に出すのはやめておいた。
響士が落ち込むことは目に見えていたので。
「ともかく、今は何でもいいからコツコツ調べてみるよ。のことも知りたいし。
植松くんも何か思い出したり思いついたことがあったら連絡貰えるかな?
私も今後、思い立ったときに無遠慮にすると思う」
「うん、いいよ。俺も協力できることは何でもするから。
――あ、そうだ。暫くの間は誰かと一緒に行動した方がいいよ。どこで誰に狙われてるか分からないからね。
授業がある日は俺かキヨが傍にいるようにするし、男が一緒じゃ困るような場所は初音ちゃんと絶対一緒にいること。いいね?」
「そうだね、そうするよ。当分は実家から大学に通うようにするつもりだし。
暫くの間、宜しくお願いします」
「うん」
「…あ、そう言えば明日は、授業あるのかな?私の方は確か二限目に授業が入ってたんだけど。
時間割とか教科書とかはアパートの方に置いてるよね」
「明日は一限目から授業だったと思うけど…まぁ、授業は俺やキヨと殆ど一緒だから前もって教えるし連絡くれたら迎えに行くよ。
教科書類なんかいるだろうし、明日の朝早めにアパートに行ってみる?
が住んでる場所と違うかもしれないし」
「そうか、それもそうだね。
それじゃあ、明日の朝7時半に待ち合わせしようか」
「分かった。その時間に迎えに行くよ。
鍵は分かる?流石に持ってるよね?」
「うん、のものらしきバッグにアパートと実家の鍵が入ってたよ。
この携帯端末もね。慣れてないから使いづらいけど」
「そうなんだね、色々と違うところがあるもんなんだなぁ。
じゃあ、明日の朝に。おやすみ」
「今日はありがとうね。明日もよろしくお願いします。
おやすみなさい」
思ったよりも話が長くなってしまったが、響士のことが何となく分かった気がする。
彼は見た目だけでなく内面も穏やかで優しい人だ。
フランクでいて男らしさも兼ね備えているし、何よりのことをとても大切に思っている。
こんな素敵な人に告白されたのに、は何故、彼と会う前に清亮と会おうと思ったのだろう。
の本命は清亮だったのだろうか――
私は一呼吸置き、マグカップに入れたお茶を一口飲んで喉を潤した後、
楳澤清亮のアドレスを探して音声通話を試みることにした。
次のページへ メニューに戻る