ハリソンと付き合い始めてからあっという間に時は過ぎ、約束の二週間が終わりつつある。
時が過ぎるのを早く感じたのは思いがけず彼と過ごした時間が楽しかったからに他ならない。
午前中は私の家で課題をし、午後からはvsbや図書館、エクレールへ出かけ、
天気が悪い日はそのまま私の部屋でゲーム談義に花を咲かせたり、並んでフィルムディスクを何本も見たりした。
その間も私は自分から彼に触れないように極力気を付けていた。我儘に思われるような提案もしなかった。
それ以外は自分の心のままに受け答えしてきたつもりだ。
消極的な印象を与えたかもしれないが、何もかも相手任せというわけではなかったと思う。
ハリソンは時折私をじっと見つめる。
優しい微笑みを湛えている時もあったし、子犬が何かをねだるような表情をしている時もあった。
そんな時はつい手を伸ばしてしまいそうになる。
しかしそれが彼の手口なのかもしれないと思い、私は気づかないふりを続けた。
我ながら残酷な人間だと思う。けれどゲームの主人公は皆そのようなものではないか。
鈍感で相手の好意に気づかず気を引き続ける。甘い台詞を言われても「え?」と難聴ぶりをかまして肝心なところは聞き流す。
そのくらい図太くないとゲーム内に出てくるような特殊な男たちは捕まえられないのだ。
そこで私は考える。二週間付き合う間でトリガーを引いてしまっては、その後に付き合う者を警戒させてしまうのではないかと。
なので二週間付き合う間はトリガーを作動させない。
幸い、三人と二週間ずつ付き合った時点で夏休み終了まで残り3日ある。
その残り3日で三人のうちの誰かを選んで告白し、夏休み最終日にトリガーを引くのだ。
そうすればシオや学校の人間には私たちが付き合っていたことは気づかれない。
更に、もしトリガーを間違えていて私が敗北した場合は他の二人にも私の計画が知られてしまうだろうからその時点で私のゲームは終わる。
夏休みの終わりが運命の分かれ道。区切りがいいし分かり易くてなかなか良い案だと思う。
そして私が第一ゲームに勝利した暁には、暫く時間を空けてから別の兄弟に告白するとしよう。
その場合は兄弟らから「あいつはトリガーを引いた女」と陰で馬鹿にされているかもしれないが、
そんな彼らを出し抜くのはさぞかし愉快なことだろう。
「二週間殆ど毎日遊びに来たけど、ちゃんの家族に全然会わなかったね。どんな家族構成なの?」
「母親は仕事するのが楽しいみたいだから早朝から日付が変わるまで仕事してる。休みの日は一日中寝てるけど。
父親はいない」
「あ…ごめん」
「いいえ、顔も名前も知らないから何とも思わないし。気にしてない」
ハリソンに話しかけられ私は先程の邪悪な思念を心の隅に押しやった。
彼は私のプライバシーに触れてしまったことを気にしているようだ。
私は父親がいないことは気にしていない。しかし父親が誰なのかは気になっている。
「ねえ、ちゃんが初恋もまだっていうはさ、ファザコンとかそういう理由があるのかもしれないよ?」
「ファザコン…。私が年上とか妻子持ちの男に理想を抱き父性を求めるってこと?」
「うん、だから同学年には恋心を抱けないのかなって」
「…どうだろう。考えたこともなかった」
ソファに座っている私は足を浮かせ両膝を抱える。
父親が誰かということに恐怖を感じ、幻想すら抱いたことがなかった私がファザコンと呼ばれるのか。
確かに父親の遺伝情報に拘る私はファザコンで間違いないのかもしれない。
とはいえ、父親の可能性のある年齢の男性を愛す方がずっと危険だ。
実の父親と関係を持ってしまったらなんて考えるだけでもぞっとする。
年上の男性とだけは絶対に恋に落ちてはいけないな、と私は改めて確認し足を下ろした。
「あ、カップ空だね。お茶淹れてく――」
――立ち上がろうとした瞬間、ハリソンが私の腕を掴み引き寄せた。
立とうとした反動もあって私は勢いよく彼の胸に背中から飛び込む形になる。
後ろから抱き締められている私には彼の手だけが見えた。
「怖い?大丈夫?」
「…大丈夫、突然で驚いたけど」
「少しだけこのままでいさせてくれる?」
「…うん、いいよ」
互いの触れている部分が次第に熱を帯びてきた。自分の心拍数が上がっているのが分かる。
彼に触れられるのは嫌ではない。とはいえキスされそうになったら構えてしまうのだろうけれど、
手を繋いだり肩がぶつかったりするたびにくすぐったい気持ちになる。
私の手を握る彼が向ける人懐こい笑顔につられて彼の腕に凭れ掛かりたいと思ったこともある。
これまで縁がなかった私には人の温もりは魅力的で麻薬のようだった。
回された彼の腕に手を添えたい思いに駆られたがこれもトラップかもしれないと思った私は、
手を下ろし何もせずただ静かに抱かれたままでいることにした。
「ちゃんのお母さんはどんな人?」
「うーん、医者でもあり研究者でもあって基本的に何でも追究することが好きみたい。
私と話す時も仕事のことが多いし、仕事が凄く好きなんだと思う」
「朝から晩まで働いて家にいないのは寂しくない?」
「全然。私、仕事してる母は好きだから」
私は父親だけでなく祖母や祖父の顔も知らない。私が生まれる前に二人とも病で亡くなったそうだ。
彼らの画像データはないと母親に言われ見たことがない。
本当にないのか、あったけれども母親が消してしまったのか、それとも母親が隠しているのか、それは分からないし父親ほど興味はない。
なので私が生まれてすぐは母親が世話をしていたけれど、私が二歳になり彼女が仕事復帰してからは保育施設に預けられることになったのだが、
どこから聞き及んだのかは分からないけれど私の母親は高い精子を買ったのだという話が保育施設内で広まり、
自然派の保育士や保護者から私は嫌がらせを受けるようになった。私は覚えてはいないのだけれど、母親から聞いたので知っている。
そこで母親はその保育施設や関係者をちゃっかり訴えて賠償請求した上で契約を切り、私を職場へ連れて行くことにしたらしい。
母親の研究室で過ごす日々は楽しかった。コンピュータと机と書類と本しかない研究室で私は絵本を読んだり絵を描いたりして過ごしていたが、
たまに訪れる母の同僚や後輩、学生たちが構ってくれるのが嬉しかったのだ。それに別の研究室で真剣な表情をしている母親は格好良く見えた。
私にとっての母親は温もりは与えてくれなかったけれど、仕事をする気高い背中を見せてくれた人である。
「――そんな感じの人かな」
ハリソンに私の過去話をする。精子提供に関することは言わなかったけれど彼は静かに聞いていた。
子どもの頃の話は自分からしたことはない。人が聞いても気持ちの良い話ではないだろうから。
もし尋ねられたら今のように話すだろうけど、聞かれることは滅多にないのでこれが初めてだ。
「そうなんだ。一度でいいからお母さんに会いたかったよ」
「二週間に一度くらいは一日丸々休みだったりもするから会わなくもないと思っていたけどね。
多分、ここ数日は職場の近くにあるマンションの方に行ってるんだと思う」
「こことはまた別に家があるの?」
「ええ、主に母親が倉庫とか仮眠目的に使ってるから狭いし家具も揃ってないけど」
「ちゃんはお母さんに優しいね」
「そうでもない。本当に優しいなら体に気を付けるように言ってる。
私は何も言えないだけ。母親が好きなことをして生きるのはもう当然のことだって刷り込まれてるし」
「でもそういうお母さんが嫌いじゃないんでしょ?」
「そうね、嫌いじゃない。寧ろ好きなのかも」
そう言うとハリソンは私の背後でふっと笑ったような気配がした。
相変わらず彼は私を抱き締め続けている。室内は自動で空気調整されているけれど少し暑くなってきた。
彼に抱かれながらも彼に凭れかからないように背中を逸らし続けるというおかしな格好をしているのもあって腰が痛くなってくる。
彼から抱き締めたことだし、凭れ掛かるくらいはセーフだろうか。
「いいよね、そういう関係。
…それに比べてボクら兄弟はあんまり素直じゃないな。
ボクのところは会社経営してる父親とボクら三つ子と母親が…二人」
「二人?お身体の弱いお母様がいるって以前言っていたけど…」
「うん、それはボクらの実の母親。もう一人はボクらを代理で産んだ代理母。
母は体が弱くて新婚早々子どもを産めないって宣告されたそうなんだ。
それで実の妹に子宮を借りることにしたんだって」
「…そうなんだ。それで貴方たちは顔が違うのね」
「うん、三卵性だからね。所々は似てるけど一卵性の双子なんかと比べたらあまり似てない」
それからハリソンは母親の話をしてくれた。
原則的に代理母も情報を明かせないことになっているが、彼らの場合は母親が姉妹だということで問題はないと考えたのか
早々に子どもたちには説明をしたそうだ。
遺伝子上の母親は自分たちをとても愛してくれるし、自分たちも愛している。
代理母である叔母も実の子どものように自分たちを愛してくれる。
彼らが幼い頃は両親と叔母が優しい眼差しで自分たちが遊んだり喧嘩をしたりするところを見守るという良好なものだったそうだ。
しかし今は家族がバラバラになってしまったという。
母親は数年前から自然療法が良いということでティン島の保養施設に入っており、
父親は本社で座っているのを好まず支社を実際に見て回る為に各地を転々として、自分たちもそれに付き合って転校が多くなり、
叔母は次第に自分たちに冷たくなったそうだ。
「再婚したわけでもないのに母親が二人もいるっていうのは良いようで良くないね。
特に体力のない母親には子ども心に無茶させられないって思うからさ、あんまり我儘言えなかったんだよね。
だから叔母に遊んで〜って言って皆が纏わりつくんだけど、それを母親は嬉しそうな顔をして見てるけど時折寂しげにするんだ。
叔母もボクらが母親を大好き〜なんて言ってると“いつまで経ってもママ離れしないのね”なんて笑ってるけど、
でも負けじと“私のことも好きだよね?”なんて聞いてきたりして。
…なんか子どもなのに変に気を遣ってたな、ボクら」
ハリソンは私の首筋に頭を埋める。そして猫のように自分の頬を私の首に擦り付けた。
犬のようで猫のようでもある不思議な男だ。彼のウエーブがかった柔らかい髪の毛も長毛種の大型犬のようで愛らしく思える。
今の話から考えるに、彼らの遊んでいるとしか思えないような恋愛術は母親のことに起因しているのかもしれない。
母親に対して複雑な思いを抱きつつ過ごしてきた年月は彼らの恋愛観を歪めてしまったのだろうか。
私がファザコンであるならば、彼らはもしかするとマザコンと呼んでいいのかもしれない。
彼が言ったように素直に母親と接してこなかったことが彼らに大きな影を落としているような気がしてならない。
「皆、優しいのね」
「優しい…のかな。相手を不機嫌にさせてこっちが傷つきたくなかっただけかも」
「――お母様とは会っているの?」
「前は月に一回くらい会いに行ってたけど、でも、最近はボクらの顔見ても逆にふさぎ込む感じだから半年に一回に減っちゃった…」
「そう…」
私は目を閉じて少しだけ頭をハリソンの方に傾ける。彼が気づいていないだけかもしれないがこの程度はセーフらしい。
もう少し攻めてみたくなったのと、いい加減態勢がきつくなってきたので私は体から力を抜き彼に少しだけ凭れて身を任せる。
彼も私の肩を抱く手を緩めて私の臍の前で両手を組んだ。そして私が左横を向けば顔が見える位置に体を傾ける。
ふと彼と目が合った。このまま私が目を瞑ればキスされそうな状況だ。
けれど私は彼から目を逸らして俯く。
私は相手が誰であれ同情をするつもりはないしされたくないと思う。
私は同情という言葉にいい感情を抱いていないからだ。同情の意味は哀れみ思いやること。
哀れむことができるのは自分が相手よりも優位の時だ。それは心の余裕だったり、境遇だったりするのかもしれない。
だが私はそのことに違和感を覚える。
人はそれぞれ違う。育ってきた環境も違うし歩んだ人生も違う。心の痛みや苦しみは自分しか分からない。
だから人は完全に相手のことを理解できないし、それぞれが自分の道を進んでいるのだから比較できるのは過去の自分だけと思っている。
自分以外の人間を上にも下にも見ることなど本来はナンセンスなのだ。
なので人を哀れむ行為自体も私は理解できない。
とはいえ、心の優しい人や心に深い傷を負って打ちのめされたことがある人ならば
同じように心を震わせ相手の気持ちを感じ取ってあげられるのかもしれない。
心が震えない私にはきっと一生分からないのだろう。だから相手を気の毒だとか可哀想だとかは思えない。
私にできることは相手は今どんな想いなのだろうか、と推察することくらいだ。
推察できたからといってどうにもできないわけだが。
「ごめん、私は優しい言葉とか思いつかない」
「ううん、いいんだ。思ってもないこと言われる方が嫌だよ」
ハリソンは持ち前の明るい笑顔を私に向けた。
無邪気かつ繊細で傷つきやすそうな怯えた目を持っているハリソン。
無邪気な子どもそのままに好奇心のまま蝶を捕まえ、飽きたら捨ててしまうというのか。
全て私の思い違いなら良いのに、と思いながら私は彼の手を優しく解く。
「ありがとう、ハリソンくん。二週間楽しかった」
「…時間切れか。残念だよ」
彼は名残惜しそうに私から離れるがすぐに明るいいつもの顔へ戻った。
トリガーを引くことなく無事に二週間を終えられた私もすっきりとした気持ちで彼と向かい合う。
「前も言ったけど、やっぱりボクはちゃんが好きだよ。
君は上辺だけの言葉は言わないし、一緒にいるとボクは自然体でいられる。
ちゃんの傍にいるのは凄く心地いいんだ。
…でも、ちゃんはどこか遠いね。ボクと見てる景色が違うみたいだなって」
「そうかな?…ごめんなさい」
「いや、いいんだ。君に惹かれたきっかけはそこだったんだから。
…今回のところはこれでさよならだけど、でも諦めないよ」
「ありがとう。
私も、ハリソンくんと一緒にいる時、楽しくて温かな気持ちになれた。
――さようなら」
別れ際、ハリソンは軽いハグをした。
しかし私が瞬きをする程の短い時間で彼は離れ、玄関のドアの向こうに消えた。
私とハリソンの恋人関係は無事に終了したのだ。
第7話へ進む メニューに戻る