――伊吹兄はどうしてるだろう。

「…会いに行くだけなら大丈夫よね」

そうしては伊吹の見舞いに行くことにした。


 「…」
「あ…、伊吹兄。起きてたの?」

伊吹の所へ行くと、ベッドの上の彼は身体を起こして呆然と窓の外を眺めていた。

「……か」
「身体は大丈夫?」
「…あぁ」

いつも朗らかで穏やかな顔をしている伊吹がこんなに深刻な表情をしているのは見たことがない。

…あ、イロハちゃんと一緒の時は凄い真剣な表情だったけど…。

伊絽波のことを思うとの心はどっと沈んだ。
あの時の伊吹の言葉が頭の中で繰り返し響く。

 「違うっ、許婚とかそういう理由じゃないんだ! 俺は……っ…お前を……」

伊吹兄はあの言葉の後にどんな言葉を続けようとしたのだろう。
でも、掟を破ってまでイロハちゃんと付き合ってたなんて、伊吹兄は本気でイロハちゃんのことが…。

の中に焦げるような嫌な感情が広がっていく。
自分は許婚だから今の立場になれたのであって、本来彼の隣にいるべきなのは伊絽波の方なのだと思い知らされた。
あんなに取り乱す彼は見たことがなかったから。

「…伊絽波のこと、黙っててくれてありがとな」
「…言えないよ。イロハちゃんは大切な人だもん…」

私にとってイロハちゃんはお姉さんみたいな存在だ。
時々会いに来てくれて、いろんな話をしてくれた人。
学校のこととか、友達のこととか、恋愛のこと…とか。

 「一緒にいると、胸がドキドキして、嬉しくて、
  もっと一緒にいたい、もっと触れていたい、もっと知りたいって思うのよ」

――かつてイロハちゃんが言っていた言葉。
それが伊吹兄のことだったなんて…。

の目からは涙が流れていた。

「――俺が伊絽波と付き合っていたのは事実だ」

伊吹の言葉で胸に鉛を打たれたような感覚がする。

「昔から一緒に育ってきたからお互い相手のことなら何でも分かってるような感覚だったし、一緒にいると楽だった。
 …でも今となっては掟に反抗したいが為に惹かれた感じがするんだ。
 それでも俺はどこかで怯えてた。いつか周りに知れて、罰を受けるんじゃないかって。
 だから俺は伊絽波を抱けなかったし、第一そういう気持ちも起こらなかったしな。
 ――自分から告っといて、最低な話だろ?」

そう言うと顔を苦しそうに歪めながら伊吹は笑った。

「…結局色々考えた上で、俺は伊絽波を幼馴染みとして好きであって、女としては愛していないことに気づいた。だから別れることにしたんだ。
 そんな不純な思いを持ったまま付き合って、これ以上あいつを不幸にしたくなかったから」

俯いたまま彼は口を開く。
そんな伊吹を苦しい思いでは見つめた。

「…私には…わからない…。幼馴染として好きなのに女の人としては好きになれないものなの…?」
「……俺はそうだよ」
「もしかしたら伊吹兄は罰を恐れて自分の気持ちを誤魔化していただけで、本当は伊絽波ちゃんのことを…」
「確かに罰は恐れていたよ。でも、伊絽波を心から愛していたかといえばそうじゃない」

自分には分からなかった。
伊絽波と違い、自分と伊吹の歴史は少ししかないのだ。それも互いが子どもの頃の時の記憶しかない。
伊絽波に自分が敵うはずがない――の心は完全に挫ける。

「……私のことや許婚だってことを気にしてくれてるんだとしたら……全然…そんなこと、気にしなくていいから……。
 伊吹兄の好きなように…生きてくれたら……それで……」

胸が詰まってなかなか出なかった声を絞り出し、は無理に笑顔を作って伊吹に背を向けた。
これ以上、伊吹を縛っては駄目だと思った。
それと同時に彼の前でどんな顔をしたらいいのか分からなかった。
きっと自分は今、嫉妬と悲しみでとても醜い顔をしている…。

!」

伊吹の声にピクリと反応するも、は振り向かなかった。
静かにドアのノブに手を伸ばす。

『ガタン』

後ろからの大きな音では咄嗟に振り返った。
すぐさま伊吹に手首を掴まれ、ドアに押し付けられる。

「っ…いた…ぃ…伊吹兄…っ!?」
「お前、何考えてる!?」
「…何って…」

ググッと握られた手に更に力が加わる。

「…俺がお前のこと、どれだけ見てきたと思ってんだ! お前の考えてることが分からないとでも思ったか!?」
「…伊吹兄、放して…」

は堪らなくなって伊吹から目をそらした。

、俺を見ろよ!」

彼のあまりの剣幕に膝から力が抜ける。

「…俺が伊絽波を愛しきれなかったのはお前がずっと心の中にいたからなんだぞ!」
「嘘っ……だって10年くらい会ってなかったのに……!」
「嘘じゃないっ、昔から俺はお前の自己犠牲的な精神が気になってたんだ。誰かが守ってやらなきゃ、支えてやらなきゃってな!
 でなきゃお前は誰かの為なら命すら投げ出しちまうような奴だからだ!!
 でも俺はそんな馬鹿なくらい優しくて真面目なお前が昔から愛しかったよ。
 必死に強くなろうと頑張ってるお前を、純粋に俺を慕ってくれるお前を、俺が助けてやりたいと思ってた。
 お前がこの世界の為に命も人生も投げ出すんなら、俺はお前の為に生きようって……
 俺がお前の婚約者候補だって知ってからは尚更そう思ってたんだ!!」
「……」
「…成長した姿を見て、更にそう思ったよ。 相変わらず優しくて真面目で馬鹿がつく程お人よしなお前は俺が守るってな。
 でも昔と今で確かに違うのは、俺でなけりゃ駄目だってことだ。
 あの日、お前の寝顔を見るまでは、お前が幸せなら他の男と結ばれようが構わないと思ってた。
 俺はお前の知らないところでお前を守れたらそれで…と。
 だが今は違う。お前の相手は俺じゃなきゃ駄目だ。お前が好きなんだ、気が狂いそうなくらいに!
 他の男には触れさせたくない。の全てを俺だけのものにしたい」

そう言うと伊吹は皮膚が赤くなる程に彼女の細い手首をきつく握り締めた。

「…伊吹…兄……」
「いいか、俺の為であるとしても他の男と寝ようと思うなよ! 自分を犠牲にしようとするのも駄目だ!!
 ――俺が許さない」
「…っ――」

穏やかな彼しか知らなかったに強引に唇を押し付けるのは同じ伊吹。
こんなに熱い気持ちを隠していただなんて想像もつかなかった。
は身体の底から彼の愛を感じる。

「…に俺は救われてきたんだ。
 あの狂った一族の中で育ってきた俺に、何の先入観もなく接してくれたのはお前だけだった。
 まぁ、子どもだったっていうのもあるだろうが…俺は嬉しかったんだ。 無邪気な顔で抱きついてくるお前の存在が。
 ――ずっと傍にいて欲しいと思ってる。愛してるんだ、

唇を離すと、強張っていた伊吹の手から力が抜けた。
そして彼女の目から溢れる涙をそっと拭う。

「不安にさせてすまない…。でも、俺はが好きだ。それは何があっても変わらない」
「…っ…ぅ…」

は嗚咽を漏らしながら伊吹にしがみ付く。

きっと、私とイロハちゃんとでは、比べる次元が違いすぎる。
私は伊吹兄とイロハちゃんの幼馴染から始まった歴史には絶対敵わない。
…でも、私、伊吹兄が好き。
伊吹兄の気持ちが嬉し過ぎて死んでしまいそうなくらいに、私も彼を愛しているんだ。
彼が望んでくれるなら、ずっとこれから先も傍にいたい。

「――
、愛してる」
「…っ…」

彼の言葉に深く頷くと、伊吹はを優しく抱き締めた。


 「…あと、また蒸し返して悪いけど、伊絽波のことは俺からウメ婆に話すから」
「駄目だよ!」

彼をベッドに連れて行った後、ポツリと伊吹は呟いた。
慌ててはそれを否定する。

「俺が今、一番大切なのはだ。 もし、あいつがお前に危害を加えようとするなら、俺は戦うことになっても躊躇しない」
「…そんなの嫌だ。今でもイロハちゃんのこと、大切なんでしょ? なのに、その人と戦うなんて…!」
「伊絽波がこの国を滅ぼそうとしてんのなら、あいつは俺たちの敵だ。
 …悪者になったあいつを正してやるのは俺の責任なんだ。 俺は幼馴染として、伊絽波を止めなきゃならない」
「伊吹兄…」

俯く伊吹の肩が震える。

…誰よりも辛いのは伊吹兄なんだ。

は彼の肩をそっと抱きしめる。
一緒に頑張ろう、と思った。
自分を愛してくれる伊吹の為に、これからは自分も自分の運命も恨んだり犠牲にしようとなんてしない。
彼の苦しみを一緒に背負ってあげたい。
最後まで彼と一緒に戦いたい。
それが自分にできることだと思った。

「……傍にいるからね…私」
「あぁ…」

いつもの穏やかな表情で伊吹はそっとの手の上に自分の手を重ねた。








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