第5話 黒き郎女
「…風?」
庭の木々に水を撒いていると、ざらりとした空気がの横を通り過ぎたような気がした。
辺りを見回すが、木々が揺れている様子はない。
「…この感じは…」
霊気に混じるかすかな邪気。
…一体どういうことだろう。
邪気と霊気が共存するなんて、考えられない。
それに、そんな2つの気を持った人間がこの場所にいるなんて信じられない。
は次第に不安を抱き始める。
――何かが動き始めた、そんな予感がした。
「皆はこの気を感じてるのかな」
他の一族の反応が気になる。
これは私だけが感じることの出来る気なのだろうか。
もしそうなら「その気を発する者もしくは何か」が私の敵である可能性が高いということになる。
「…まず葉月に相談してみよう」
そうして一番邪気について詳しそうな葉月の庵に行ってみることにした。
『コンコン』
何度葉月の庵の扉を叩いても応答がない。
「…葉月…?」
の背中に嫌な汗が滲む。
先程の嫌な邪気混じりの霊気が彼の部屋の方から流れてきている気がしたのだ。
「葉月!?」
は慌てて彼の部屋に行き、ドアを勢いよく開けた。
すると今まさに漆黒の女が部屋の窓から飛び降りようとしている。
「ちょっと貴女――」
『…チリン…』
それは時が一瞬を刻むその瞬間をコマ送りにしたかのような映像そのものだった。
無音の空間に小さな鈴の音のようなものを残し、ふわりと髪の毛を風に揺らして窓から飛び降りるのは女。
は息をするのも忘れて、その女の後姿を呆然と見送った。
先程の女の人は本当に、ここにいたのだろうか…。
数秒してやっとは現実の世界へと意識を取り戻した。
幻術か何かにかかっていたかのような不思議な感覚だ。
「…いけない! そんなことより葉月は?」
女に気を取られ、肝心の葉月のことをすっかり忘れていた。
「――葉月!?」
ベッドの上に倒れている葉月に駆け寄ると彼の顔は蒼白である。
「葉月、どうしたの!? 大丈夫!?」
が彼の身体を抱き上げると、恐ろしく冷たくなっていた。
「嘘でしょ!?」
泣きたい思いで葉月の首筋に手を当てると、微かに心音が聞き取れる。
――このままじゃ危ない。
想像しただけでも卒倒しそうなことが頭を過ぎる。
「…っえぇいっ!落ち着くのよ!!」
葉月を助けたい一身では自らの手で右頬を叩き、無理矢理に気持ちを落ち着かせる。
「早くばあちゃんに診せなきゃ…っ!」
そうしては葉月を背負い、急いでウメ婆の部屋へと向かった。
「…真織…、天摩も…」
屋敷の今には葉月と同じような状態の真織と天摩が寝かされていた。
2人もぐったりとして意識がない。
「一体どういうこと!? ねぇ、ばあちゃんっ!?」
「落ち着くのじゃ、。さぁ、葉月を寝かせろ」
「…」
沈痛な面持ちでは葉月を布団に寝かせる。
「案ずるな。こいつらは邪気を体内に入れられただけじゃ。
この薬を飲んでワシが張った結界の中に暫く寝かせておれば、体内の邪気は浄化されてすぐに元通りになる」
「…そう…、命に別状がないならいいけど…」
最悪の状況を回避でき、ホッと肩をなでおろした。
「――伊吹兄は…?」
「ここには来ておらぬ。、伊吹を見て来い」
「分かってる!」
そう言い、は屋敷を飛び出し、同じ敷地内の伊吹の庵へと向かった。
お願い、無事でいて…。
――の願いも空しく、伊吹の庵からは妖しい気が放たれていた。
…気配がする。まだいるのね。
は精神を集中させ、自分の気配を相手に覚られないように庵の中へと進んでいく。
「――だけは、こんなことしないと思っていたのに」
「…」
庵の庭の草陰に移動すると微かに声が聞こえ、ピタッと足を止めた。
息を殺して辺りの様子を伺う。
どうやら例の女と伊吹は庵の縁側付近で話をしているらしい。
「散々、一族の掟に文句言って逆らって生きてきたのに、結局はあの娘を選ぶのね」
…何の話?伊吹兄と知り合いなの…?
こちらからでは、女の後姿しか見えない。
しかしどこかで聞いたことのある声だ。懐かしい感じもする。
「だから正式にあの娘の婚約者候補になった時に私を棄てたのよね?」
「それは違う!――お前とのことにあいつは関係ない」
「嘘よ。…伊吹は一度だって本気で私を愛してくれたことなんてなかった。私を抱こうともしなかった。
心の何処かで自分が白巫女の許婚だからだと思っていたからでしょう?」
「違うっ、許婚とかそういう理由じゃないんだ! 俺は……っ…お前を……」
冷めた女とは対照的に、伊吹の声は感情的である。
彼女の腕を掴んで叫ぶ伊吹を見てはハッとする。
…あの人と伊吹兄は…恋人で………もしかして私の許婚だということが理由で…別れ…た…?
あまりの驚愕には自分の気配を消していたことも忘れ、呆然と立ち上がってしまった。
「…!?」
「…ダメっ、伊吹兄――!」
いきなり現れたに気を取られている伊吹に向かって静かに伸びていく女の手。
「っ!?」
すっと女が彼に口付けをする。
その瞬間、邪悪な気が彼に注ぎ込まれたのがには分かった。
「伊吹兄っ!!」
ゆっくりとその場に倒れていく伊吹の元へと走るが、そんな気配を察して女は静かに彼から離れ始める。
「ちょっと待ちなさ――」
『…チリン…』
静かな鈴の音と共に振り向いた女には愕然とする。
「貴女は――」
「お前は何を…考えてるんだ……伊絽波…」
苦しそうに伊吹兄が声を発した。
そう、彼女は――
「…イロハちゃん」
目の前にいる女の人は紛れもなく、の従姉であり、伊吹の幼馴染でもある伊絽波だった。
『…チリン…』
しかし、伊吹の言葉に応えぬまま、強張った表情をして見上げるに向かって伊絽波は静かに冷たく微笑み去っていった。
今回は分岐ナシですみません。
分岐を含めて1話にしようと思ったのですが
分岐までに話が長いし、更に分岐するともっと長くなるので分割することにしました。
その分、考えていたよりも早めに更新できましたので
それでご容赦頂きたいと思います。
それでは、分岐を楽しみにしてくださっている方々には大変申し訳ありませんが
次回をお待ちくださいますよう、宜しくお願い致します。
ここまで読んでくださってありがとうございました!!
吉永裕 (2006.1.16)
次に進む メニューに戻る