Papillon du machaon −1 誕生−
―臨邪期まであと10日―
「今日、巫女が戻ってくるそうです」
伊絽波がサルサラの前に跪く。
「――そう。じゃあそろそろ準備でもしようかな」
そう言って分身のサルサラは立ち上がると神殿の外へ向かった。
「…サルサラ様、その者は?」
数時間後に神殿に戻ってきたサルサラの後ろを見て伊絽波は口を開く。
「巫女を見張る為に作った人形だよ」
元は何百年も転生を繰り返した海底の砂でね、魂魄が宿っていたから丁度いい器になったよ。
そう言ってサルサラはニヤリと笑うとジーっと少年の全身を眺める。
「もう暫くすれば、邪気と砂が完全に融合して自分の意志で動けるようになる筈だから、イロハ、教育頼むよ」
「はい」
そうしてサルサラはスッと姿を消した。
巫女を見張るのよ。
もし何か動きがあれば、すぐにサルサラ様に報告しなさい。
伊絽波にそう言われ、少年は巫女の部屋が見渡せる木の枝に座っていた。
どうやら彼女に聞いた話では、自分はサルサラに作り出された存在で、彼の敵である白巫女を見張ることが使命だという。
「…これが、外の世界…」
今まで漠然と感じていた世界は暗く、冷たく、無音の海の底だった。
いつ自分が目覚めたのかは、よく覚えてはいないけれど、気がつくと自分は確かに“魂”というモノを持っていて
漠然と何かを求めて、見える筈のない水面を見上げていた。
――あの頃は、水面という海と空の境目があることすら知らなかった。
そしてこんなに外が眩しいということも…。
未だに慣れない日光に目を細めながら、少年は太陽に手をかざす。
新しい世界を知ったのに――
あの頃と全く変わっていない乾いた感じがするのは何故だろう。
そんなことを呆然と思いながら彼は窓辺に立つ少女を見つめる。
長い髪が風でさらさらと靡いているその姿は、光の加減か何だかとても透き通って、尚且つ光り輝いて見えた。
そんな彼女を太陽のように眩いと思ったけれどブンブンと首を振る。
一瞬でも目を奪われたことを認めたくないかのように。
――あれが巫女?
全然話に聞いてた巫女と違うじゃねーか。
心の中で呟きながらアゲハは遠くの巫女を見つめる。
自分がイメージしていたのは…もっと人形のような――――
あいつらはね、一族に言われた通りにしか動かない無表情で無意思のつまんない人形みたいなものさ。
そのくせ、男の臭いを体中から漂わせてる。
――愚かな生き物だよ、白巫女ってのは。
サルサラが言っていたような人間を想像していた。
なのに、目の前の巫女は全くそれとは違っている。
「…っ――!」
一瞬、身体が硬直した。
巫女と目が合ったような気がして。
しかしそれは自分の唯の思い過ごし。
巫女は目の前を舞う黒い蝶を目で追っていた。
その表情が、何だかとても…柔らかで、優しくて。
なのにどこかその瞳は淋しげに揺れていた。
それでも、何故そんな顔をするのか想像もつかなくて、唯、ぼんやりと彼女の目線の先の蝶を一緒に追う。
おかしな奴だ。
サルサラ様が復活するかもしれないって時に、あんな顔をしてのんびり蝶を眺めてるなんて。
――それが、巫女の最初の印象だった。
「本当にあれがサルサラ様の仰っていた巫女なんですか? あんな弱そうな奴なら、オレでも倒せそうです」
神殿に戻った少年が口を開くと、サルサラはクスクスと笑った。
「弱いから、生かしておくのさ。 あの巫女は今までの巫女とは違う。
人間の脆さと情を持っているから利用できるんだ。 そこにつけ込んで、こっちに取り込むんだよ」
――まぁ、取り込めなくてもある程度弱らせたら邪気を注入して精神ごと乗っ取るつもりだけどね。
薄暗い中でひっそりと微笑むその姿に少年はゾクリと背中を震わせた。
彼の静かな邪悪さと隠れた大きな力を感じたからである。
「じゃあ――っと、名前、まだなかったね。 そうだな…」
何かを言いかけて、サルサラは腕を組んだ。
どうやら少年の名前を考えているらしい。
「――アゲハ、でいい。肩に乗っかってるし」
そう言われてふと左肩を見てみると、邪気によって羽根が赤く燃え上がっている蝶の死骸がくっついていた。
アゲハ、っていうのか。これ。
――巫女が目で追っていた、蝶の…名前。
そう思いながらサルサラの方を向き直す。
すると、サルサラは腕を組んだまま、口を開いた。
「じゃあアゲハ。の監視、怠らないように。 彼女の様子は逐一報告して。
もし男と交わるような気配があったら、何があっても邪魔するんだ。 お前の命は、ボクの為にあるんだから」
「はい」
――。
それが……あいつの名前、なのか。
主の言葉よりも、何だか巫女の名前の方がやけに頭に残った。
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