悪夢の終わりと夢の始まり





1.彼女の悪夢


 何度も同じ夢ばかり見る。
私が自宅マンションから飛び降りて死ぬ夢。
これは私の願望なの?それとも代償行為のようなもの?
もしくは、近い未来・・・とか。


 新しい父親ができたことに複雑な気持ちを抱きながらも喜んだのは最初だけ。
母が喜ぶ姿が嬉しくて私も本当の父のように接しようと思った。
けれどある日突然普通の日は崩壊して、家は地獄となった。
 アルコール臭い父親なんて大嫌い。暴力を振るうのはもっと嫌い。
でも、それを見てみぬ振りする母親が一番嫌い。
母は私よりも父を選んだ。女としての自分を選んだんだ。
父に捨てられるよりも私を捨てる方を選んだ。自分の身の安全を選んだ。
 身近な大人はこんなのばかり。
誰も知らない。誰にも言えない。
誰かに話したのを知られたらあいつからもっとひどいことをされるだろうから。
 友達にもこんなこと話せない。
可哀想だね、って思われたくない。皆と同じでいたい。
変に特別になんてなりたくない。

 春休みに父親に思い切り突き飛ばされて机に頭をぶつけて血がだらだらと出た時も、
両親は世間体を気にして病院にも連れて行ってくれなかった。
 幸い傷は深くなかったからしばらくしたら血も止まったし、
かさぶたはできたけれど傷もいずれ気にならない程度に回復した。
 でも、最近は酷く気分が悪い時がある。
特に数字を見ると目が回るような感覚がして吐き気がする。
数学や物理は好きなのに、教科書を読むこともできない。
目を瞑っていると少し治まるけれど、今度は眠気が来ていつのまにか寝てしまう。
 宿題も思うように進まない。テストも問題文すらまともに読めない。
それだけでも問題児なのに、授業を受けるのも苦痛で仕方なく保健室で休むことにしたら、
いっそう教師たちから注意を受けるようになってしまった。
 わざとじゃないのに。本当に気分が悪いのに。
私は病気なの?病気じゃないの?
頭痛を堪えて図書館で調べてみてもよく分からない。
 身体じゃなく心の問題なの?
どうすれば普通だった頃の身体に戻れるの?
どうしたらこの苦しみを分かってもらえるの?
誰だったら私の話を聞いてくれるの?
自分からは上手く話せない。どうしたのって聞いてほしい。
それなのに養護教諭の先生もそろそろうんざりした顔を浮かべてきた。
周りのクラスメイトたちもまたかって顔をしてきている。
 誰も私のことを信じてくれない。
こんな苦しいことがずっと続くなら、もういっそこの世から消えてしまいたい…。

 ――今日もまた飛び降りる夢を見るのか。
そう思いながら眠りについた。
なかなか寝付けなかったけれど、その日の夢もまた飛び降りる夢だった。
 けれど、これまでのものとは違っていた。
今日見たのは、数学B担当の田口先生が橋から飛び降りる夢だった。

 私は手を伸ばしながら起き上がった。
どうして…先生が?
 自分が飛び降りて地面に叩きつけられる夢よりもずっと怖かった。
知っている人が死んでしまうのがこんなにも恐ろしいだなんて。
私が無意識に殺してしまったようなものだから?
でも、私は田口先生を嫌ったり憎んだりしているわけではないのに。
 田口先生は教師たちの中では一番若くて接しやすいし、
授業も楽しく分かりやすく教えてくれるから好きな先生だ。
 だけど、体調が悪くなってからは数学の授業自体が苦手になってしまって
授業も欠席することが増えてきたので、先生と目が合うのが怖かった。
その気持ちがこんな夢を見せたのだろうか。




2.彼の悪夢


 出身校である高校で教師になって3年目。
最初はおどおどしていたのもあって生徒たちに舐められたりもしたけれど、
近頃は漸く生徒たちにも認知されて落ち着いた日々を送っている。
 ――と思っていた。

「――は?」
「具合が悪いらしくて保健室に行きました」
「そうか…」

 一年の頃は優等生で学力上位だった
しかしながら二年に上がってから授業をサボることが増えた。
長期休業後から急に素行が悪くなる生徒もいるが、もその一人なのかと少し落胆した。
教師がこんなことを考えるのはよろしくないけど、可愛らしく真面目な彼女にはいい印象を抱いていたので。
 最近では特に俺の担当する数学Bの時間になると保健室に駆け込むことが増えた。
保健室に行かない時は机に突っ伏して寝ていることもある。
 一年次の後半は質問しに来たり、日直の時に快く雑用を手伝ってくれたりしてくれていたのに。
控えめだけれどしっかりした生徒だった。
「手伝ってくれてありがとう」と言うと伏し目がちにはにかむ姿が可愛らしかった。
 それなのに今では俺の顔を見ると表情を曇らせて逃げていくまでになってしまった。
他の教科でも居眠りが多いし、小テストを白紙で出すことがあるなどと少しずつ話題に上がっている。
素行が悪いわけではないが、既に彼女を不良視している教師もいる。
俺も授業中の彼女には注意を払うようになってきた。とても残念なことだけれど。

、体調はどうだ」
「田口先生…」

 丁度、保健室から出てきたばかりの彼女と出くわす。
彼女は俺の顔を見ると顔を曇らせて俯いた。
確かに顔色はあまり良くない。仮病というわけでもなさそうだが…。

「――これで何度目だ。授業を休むのは」
「すみません」
「家は何をしてるんだ?ちゃんと睡眠はとっているのか?授業で居眠りも多いようだが。
 …春休み後から気が弛んでいるようだな」
「すみません。でも、先生、本当に私、具合が悪くて…」

 は俯いたまま苦しげに言葉を吐き出す。胸元に添えられた手は少し震えている。
その態度は偽りではないように思えるが…体調不良がそんなに続くものだろうか。
今のところ何度注意しても態度が改まった様子はない。
もしかすると本人のやる気の問題なのかもしれない。

、やる気の問題なんじゃないか?
 春休みの感覚を引きずってどこか怠けたい気持ちがあるんじゃないのか。
 他の生徒だって授業中、眠いときもある。
 しかし皆も一生懸命起きて勉強しているんだ。お前もやればできる筈だ」
「…はい、すみません。気をつけます」

 消え入るような声で彼女はそう言って頭を下げた。

「もし本当に具合が悪いなら今日はもう早退しなさい」
「…はい」

 そのまま彼女はとぼとぼと廊下を歩いて行った。
言い過ぎたかもしれないと思ったが喝を入れることで彼女がやる気を出して変わってくれるのではと期待していた。
その時の俺は自分の都合の良いようにしか考えていなかった。


 ――その翌日。土曜日の深夜、学年主任から緊急連絡が回ってきた。
が自宅マンションから飛び降りて亡くなったとのことだった。
瞬間、俺の頭の中は真っ白になった。

 次の日は日曜日ではあったが呆然としたまま学校に行くと朝からマスコミや保護者達からの電話が鳴り続けた。
校長や教頭、学年主任や担任教師は警察や教育委員会からはいじめや学校側の虐待や体罰の有無などをしつこく聞かれていた。
俺も彼女の授業態度や成績について学年主任に正直に話した。
その上で教育委員会の記者会見では、彼女の様子がおかしくなったのは二年次からではあったが、
校内でいじめや体罰などの問題はなかったと報告することとなった。

 結局、真相が分かったのは夜だった。
は両親から虐待されていたという。
彼女は二年前に父親を病気で失ったが先の春休み前に母親が再婚し新しい父親ができたらしい。
しかしながらその父親が酒を飲むと豹変し、彼女は奴と同居してからたった1、2ヶ月の間で数々の暴力を受けたようだ。
それを母親は止めることなく、自分に被害が加わることを恐れて家を留守にすることが増えていった。
その結果、父親は更に機嫌を悪くして娘に当たっていたという。
 彼女の遺体からは直接の死因以外の内出血の跡が多数見つかったのと、
今回損傷したものとは別に頭蓋骨に線状骨折の跡が見受けられたらしい。
彼女が気分不良を訴えたり、極度の眠気に襲われて授業中に眠っていたのはそのせいだったのだと今になって分かった。
 そして、一日遅れで発見された彼女の遺書はクラスメイトで親友の女子の元へ速達で届いた。
それには遺書を受け取った女子や他のクラスメイトらへの気遣いや感謝の言葉と、
「大人はみんな嫌い。誰も私を信じてくれない」という言葉だった。

 ――俺が、彼女の背中を押した?
俺は彼女と最後に交わした会話を思い返して膝から崩れ落ちた。
俺がもっと真剣に彼女の話に耳を傾けていれば、
彼女の身体をもっと心配していれば、こんなことにはならなかった…?
教師のくせに、彼女のことをあんなに気にしていたのに俺は一体何をしていたんだ。
授業態度とか出席日数とかそんな上辺ばかりで。
彼女の体調や心に寄り添っていなかった。

 己の罪の重さと失意に耐えきれず気づくと俺は家の近くにある橋の上に立っていた。
下に二級河川が流れている筈だが夜の暗さに紛れて何も見えない。
いや、俺の感覚が既に麻痺しているのだろう。
川の流れる音も、後ろで車の走る音さえ聞こえない。
 が最期に見たのは何だったのだろう。
両親が帰ってくる玄関ドアを振り返って見たのだろうか。
それとも今の俺のような暗闇が広がっていたのだろうか。
 身体を宙に投げ出す。
その瞬間に全身が毛羽立つような感覚がする。
それでももう戻れない。
後は体を打ち付けて溺れて死ぬだけだ――
 

「――ピピピピピピ…!」

 ガバリと起き上がって辺りを見回す。
暗い自室に目覚ましのアラームが鳴り響いている。
ここのところ夜になると肌寒い日が続いているというのに、寝起きの身体はじっとりと濡れている。
嫌な夢を見て寝汗をかいたようだ。

 くそ、俺は自分で死ぬこともできない弱虫の癖に。

 目覚まし時計に八つ当たりするようにして荒々しくアラームを止めた後、 
今日は早番だったことを思い出し、慌ててシャワーを浴びて支度を済ませる。
 今日は全校集会が開かれ、校長が生徒たちにの話をすることになるのだろう。
そこで改めて彼女のクラスメイトや友人たちは悲しみに暮れるのだ。
 更に今日も恐らく沢山電話がかかってくる筈だ。
数学教員室に籠っていたいがそうもいかない。
の人生をあれこれ聞きだして、面白おかしくまたはお涙頂戴の内容で書きたがる記者が多数いる。
死んでからも大人たちから傷付けられ続けるなんて可哀想だ。
そんな輩から彼女の尊厳だけは守らなければと思う。
散々傷つけた俺が言えたことではないけれど、それが俺の償いだ。

「おはようございます。遅くなってすみません!」

 職員室に息を切らせてなだれ込むように入ってきた俺を学年主任が不思議そうに見つめる。
教師を三年もやっていて遅刻するなんて初めてのことだ。
早番の時は普段よりも1時間前にアラームをセットするのに、今日はしていなかったのだ。
あんなことがあったからきっとアラームをかける時間を間違えたのだろう。
更にシャワーまで浴びることになったので早番の出勤時間ぎりぎりになってしまったのだった。

「おはようございます、田口先生。遅くなって…って、今日は早番ではないですよね?
 他の先生と話でもあったんですか?」
「いえ、今日は私が早番だった筈です。それにの件も気になって…」
「ああ、さんね。確かに最近の彼女は様子がおかしいですもんね。
 居眠りも多いし、授業も休みがちだし。
 というか先生、日にち間違えていませんか?先生の早番の日は23日でしょう。今日は20日」
「えっ」

 俺は教頭の机の奥にある日めくりカレンダーを見上げた。
それは20日となっている。

「そんな筈は…。ねえ、先生冗談でしょう?今日は23日な筈ですが」
「いいえ、このカレンダーは私が今めくりましたからね。今日は間違いなく20日、金曜日ですよ」

 俺が寝ぼけていると思ったのか、学年主任はふふふと笑いながら花瓶の水を変えて戻ってきた。
50歳間近の穏やかで上品な国語教諭だが、彼女もの急な死を聞き酷く動揺していたのを覚えている。
それなのに今の主任は何故こんなにもいつも通りなのだろう。
そして、今日は本当に20日なのか?23日ではなく?
 俺は慌てて鞄を開き教材を確認する。
20日といえば、と最後に会話をしたあの日だ。
もし今日が俺の考える通り23日としたら、あの日授業で進めたページには“2−A済”の付箋紙をつけている。
それにあの日、は体調が悪いといって保健室に行っていたので出席簿にもそう記載した。

「…20日だ」

 出席簿と教材両方とも確認した俺は脱力して両方とも机に投げ出した。
どちらの記録も19日で止まっている。
それでも信じられない俺は数学教官室まで走っていき、ラジオとテレビで日にちを確認した。
どの放送局も今日は20日と言っていた。

「――夢、だったのか。全て」

 自分が橋から飛び降りたことだけでなく、の自殺のところから全部夢だったのか…?
だとしたらまだ彼女は生きている…?
 いや、今見ているものが夢だったらどうする。
が死ぬきっかけを作ってしまった俺が自責の念に堪え切れずこんな夢を見せているのでは。
そう考えて俺は自分の頭を何度も殴ってみた。
けれど目が覚める気配はなくただ拳も頭も痛いだけだった。

「夢じゃない…」

 いや、夢だった、という方が正しいのか。あの悲しい出来事が全部夢だった。
だとしたら俺はもう二度と彼女を傷つけない。絶対に死なせたりしない。
苦しみの中にいる彼女を救い出す。夢の内容が確かだとするならば。



、おはよう」
「…おはようございます」

 校門から入ってくる彼女の姿を見た時、俺はこれまで感謝したこともなかった神に感謝した。
神だけでなく全ての事象、運命などに。
 彼女は生きている!
俺の顔を見るとあの日のように顔を曇らせるが、俺はそんな表情すら愛おしく感じた。
死んでしまったらもう表情の変化もないのだから。
彼女のささやかな反応が生きている証に思えて、涙がこみ上げてくるが何とか押止める。
流石にここで彼女の無事を喜んで抱き付いたり号泣したり謝罪したりすれば、俺がおかしな奴だと彼女だけでなく周りからも思われてしまう。
そのくらいの冷静さはまだ保っているつもりだ。
 俺は彼女を救うと決めた。
もし、あの夢の通りに彼女が父親から虐待を受けているのなら、俺が今日救い出す。

「――、HR前に教官室に来てくれるか。話がある」
「は、はい…」

 普段の授業態度を叱られると思ったのか、彼女は歯切れの良くない返事をして
ぺこぺこと頭を数回下げてから俺から離れていった。

 ――良かった、まだ彼女は生きている。
俺は興奮を隠しきれず鼓動を早くしながら教官室へ向かう。
 5分後、はおどおどとした様子で教官室の扉を開いた。
俺が椅子を勧めると、恐縮した様子で彼女は腰かける。

「朝から来てもらってすまなかった。
 少し話をしよう」
「何の話でしょうか」

 俺は努めて穏やかに話しかけた。
彼女に威圧感を与えては更に恐縮させてしまい何も話せなくなってしまうかもしれない。

、君のことだ。二年生になってから君は明らかに様子がおかしい。
 よく具合も悪くなるみたいだし、もし悩みがあるなら話してみてくれないか。
 それとも…本当に体の調子がおかしいようなら一度病院に行って検査してもらったらどうだろう」

 俺がそう言うと、は大きく目を見開いてそのまま涙をぼろぼろと零し始めた。
そして「すみません、すみません」と言いながら慌てて涙を拭う。

「大丈夫か?」
「…はい、だいじょうぶ、です」
「どこか悪いところがあるなら無理せずに言ってほしい。
 君のことが心配なんだ」

 その後は彼女の涙がなかなか止まらず、それ以上話をすることはできなかった。
しかしながらこれで彼女の逃げ道を作る手助けができたかもしれないと思った。
俺は放課後にもう一度話そうと言ってから彼女を保健室まで送っていった。

 保健室に入っていく彼女の後姿を見て俺は安堵する。
何とかして彼女を守らなければ、と襟を正した。
 生徒へ向けるには偏りすぎなこの感情は、贔屓と呼ばれるだろうか。
それでも俺はもう彼女に絶望されるような大人にはならない。




3.悪夢の終わり


「――本当に具合が悪いんだな?
 だったら脳を調べてもらったらどうだ?
 何もなければそれで一安心だし、何かあるにしても見つかるなら早い方がいい」

 何故、あの日、数学の担当であるだけの田口先生に「具合が悪い」と泣きついてしまったのか。
…それは彼だけが私の話に耳を傾けてくれたから。
彼だけがちゃんと向き合ってくれたことが、涙が止まらなくなってしまう程に嬉しかったからだ。
 それにあの夢が気になっていた。
彼が飛び降りて死ぬあの悪夢のせいで、私は彼にどこか不思議な親近感や罪悪感を抱いていた。

「でも…親は…そういう病院とかはあまり好きじゃないというか…医師を信用しないというか。
 必要ないと言うと思います」

 病院なんて親が絶対に反対するに決まっている。
後で何を言われるか、何をされるか分からない。

「親の都合を考えている場合か。君の身体のことなんだぞ?
 もし反対するようなら養護教諭の先生にも相談して一緒に説得するか、
 それでも駄目なら俺が自己判断で勝手に連れて行く」

 田口先生の目は真剣で、これまで見たことのないような顔をしていた。
彼は生徒たちからは特に慕われていて、フランクで穏やかな人柄が素敵だった。
けれど今は怖いくらいの深刻な表情で私の身体のことを心配してくれている。
本当に生徒想いの人なんだ、と私はこんな大人が傍にいてくれたことに感謝した。
 私は彼を信じてみることにした。
彼なら私をこの地獄から連れ出してくれるかもしれない。

 その日の夜、本当に田口先生は養護教諭と一緒に両親を説得しに家までやって来て、その時に両親の虐待が発覚した。
児童養護施設と警察に速やかに連絡が行って私はそのまま施設に預けられることになり、
バタバタしてして就寝時間は遅くなってしまったが、その日は久しぶりにゆっくりと眠ることができた。
 次の日は土曜日だったので学校の課外授業は休んで脳神経外科のある病院に行った。
脳の検査を受けると頭蓋骨にひびが入っていることが分かった。
恐らく机で強打した時のものだろう。
そのせいで私の身体はおかしくなっていたのだと分かって、心の底から安堵した。

 ――あれから1年近く経ったけれど、今はとても幸せ。
両親とは相変わらず離れて暮らしているけれど、体調はすこぶる良い。
落ちていた学力もなんとか追いついて、今は学年5位以内を狙えるまでになった。
未来すら投げ捨てようとしていた私が大学進学を間近にしている。
全ての大人を呪っていた頃の精神状態が嘘のようだ。
 私はあれから田口先生に感謝と尊敬以上の気持ちを抱いている。
命の恩人、私のヒーロー…だけど、先生。
迷惑はかけたくないし、それに先生にとって私はただの生徒だ。
あのポジションが私でなく別の生徒であっても先生は必死に考え親身に対応していた筈だ。
 もしかすると先生は身近な人の自殺という苦しみを味わったことがあるのかもしれない。
だから息もできないような私の苦しみに気づいてくれたのではないだろうか。
だとすると先生が見つめているのはきっとその亡くなった人で、
先生は生きている私に失ったその人を投影しているのだろう。
 …なんて、こんな考えはひねくれ過ぎているかな。
もう傷つきたくない、信じられる大人を失いたくないと思っているのかもしれない。




4.彼と彼女の夢の始まり


 ――卒業式の日。
まだ肌寒いが青い空が広がり、文字通りの晴れの日である。
胸ポケットに花をつけ卒業証書を持った卒業生が昇降口から続々と出てきて
校門前の広場で友人や後輩たちと写真を撮り合ったり、泣きながら抱き付いたりしている。
そんな光景を遠目に眺めながら俺はある人物を探している。
 部活に入っていたなら部活棟の方にいるだろうが彼女は無所属。
もしかするとまだ校舎内にいるのだろうか。

「田口センセー!写真撮って」
「タグっちゃんだ。写真撮ろうぜ」

 生徒たちに見つかってしまい、次から次へと生徒たちに囲まれてそのまま写真を一緒に撮ったり、
彼らがポーズあれこれ変えては写してやったりで忙しくなる。
 目的の彼女はまだ見つけられない。
仕方なく校門から出る生徒をチェックしながら辺りをうろつく。
ジッカラートならではの風物詩であるが保護者や友人、担任教師などを集めて人前式を挙げ、
高校卒業と同時に婚約する者たちもいる。
そんな幸せそうなグループの中にも彼女はいないようだ。
正直、ホッとした。
これで彼女が誰かの隣に立って指輪を交換していたりしたら虚し過ぎるから。

「田口先生」

 そんな時、後ろから聞こえてきた声にはっとして振り返った。
そこには探していたの姿があった。

 彼女は“問題児”であった頃とはすっかり変わっていた。
あれからすぐに彼女が両親に虐待されていたことを突き止めて両親から離すことに成功した。
頭の傷もほどなく見つかり、適切な治療を受け既に完治している。
 突然施設暮らしにしてしまったことは気の毒で申し訳ないと思っているが、
彼女は今の生活に不満はないようなのでそれだけは不幸中の幸いだ。
 体調が回復してからは学業に勤しみ、それまでの分を完璧に取り戻して成績上位に上り詰める程だ。
勿論、俺の担当する数学Bと数学C並びに大学受験対策用授業においても好成績を修めている。
 その中で、彼女は何度も数学教官室を訪れた。
数学Bの担当だった俺だけでなく数学IIの教師も併せて彼女に特別補習をしていたのだ。
そうして顔を合わせていくうちに彼女に対する同情と贖罪の気持ちが、それを含めた上での愛情に変わっていった。
 同情だとか贖罪だなんて言うと彼女は嫌がるだろうが、
彼女の幸せを守りたいと思うこの気持ちは純粋に愛といえないだろうか。
恋の始まりは負い目だとしても、今はもうほら、彼女の見上げてくる目が愛らしくてたまらないくらいなのだから。
許してもらえないだろうか。この歪んだ愛の軌跡を。

「田口先生のおかげで卒業することができました。
 ありがとうございました」

 涙を滲ませながらも眩しい笑顔が向けられる。
苦しげに俯いていた頃が嘘のようだ。
こちらも思わず目頭が熱くなる。

「いや、これは自身の力だから。
 色々と大変だっただろうが、よく頑張ったな」

 俺がそう言うと彼女は大粒の涙を零し顔を覆ってしまった。
すると、後ろからドンっと誰かがぶつかってきた。

「タグっちゃん、何女の子泣かせてんのよ」

 の親友の飯沼陽子だ。
何もかもお見通しのようで、を泣き止ませてから俺の方へ近づけるように背中をぐいぐいと押していく。
戸惑いながらも彼女はどんどん俺に近づいてきた。

「さぁ、タグっちゃん。に何か言うことがあるんでしょ。
 私の目と女の勘は誤魔化せないよ!」
「ちょっと、ヨーコ」

 何か言いたげなをまぁまぁと宥めてから飯沼は俺の方を向いてにっこりと笑った。
いつの間にか俺たちの周りには生徒たちが集まり輪を作っている。
こんな大勢の前で言わせるのか?俺に?

「いや、もっと落ち着いて話せる場所がいいんだが…」

 俺が頭を掻きながら周囲を見回して狼狽えていると、
俺たちを囲んでいる生徒たちから何かと声をかけられる。

「ビシッと決めちゃいなよ、センセ!」
「先生、頑張って!」

 ああもう、なんでこうなるんだ。
こんな騒ぎになったら流石に学校側にも知られてしまうだろう。
比較的緩やかな校風で、過去にも卒業と同時に教師と生徒が結婚したことが何度もあるらしいし、
独身の教師の中には特別意識しないようにしているけれど本気で好きになったら生徒との恋愛OK、と豪語している教師もいる。
学校側も特別扱いをしたりせず限度をわきまえた交際をするならば交際可能という認識らしいが、
自分もそちら側に完全に回ってしまうとは…。
 それでももう皆にも知れ渡っているのなら言うしかないか。
も先程までの涙は引っ込んでしまったようで顔を赤くして気まずそうに俯いている。

「あの、…。こんな状況になってしまって申し訳ないんだが…」
「はあ…」

 ほら、彼女も困り顔だ。

「俺は君が酷く苦しんでいると知ってからずっと力になりたいと思ってきた。
 …君が卒業してもそれは変わらない。
 教師としてではなくてただの田口尊として君を守りたいと思っている。
 その、君が迷惑でなければ…」
「つーまーり、どういうことなのよ!タグっちゃん!!」

 焦れたように飯沼が俺を焚きつける。
ああ、もう、分かったよ。

「――つまり、田口尊はを愛している!
 君の一番傍で生きていきたい」
「…私も――!」

 その瞬間に俺たちを取り巻いていた生徒たちが叫びながら駆け寄ってきて押しつぶされそうになる。
不可抗力で目の前のに抱きつくような形で密着する。
後ろや横からおめでとう、おめでとうという声がせわしなく聞こえてくるも
腕の中にいる彼女の温もりが俺の気持ちを穏やかで優しいものにした。

「先生…。私、今凄く幸せです」
「良かった。俺も幸せだ。
 これからもっと幸せになろう」

 生徒たちに揉みくちゃにされつつ、俺たちは想いを確かめ合う。
彼女の都合や心づもりもあるだろうからすぐに結婚できるわけではないだろうけれど、これからは俺が彼女の家族になる。
彼女を決して一人にしない。何があっても守り続ける。
それがあの夢で一度死んで生まれ変わった俺の生きる理由だ。









−完−








最近、続けてやたらと周りの人から信じてもらえず誤解され、泣きながら高いところから飛び降りる夢を見ている私ですorz
なんだこのきつい夢は…と思い苦しんでいましたが、「これを乙女脳で恋愛話に変換してやろうぜ!」と思いつきこの話を書きました。

ちなみに、裏設定としては。

相模望(さがみのぞみ)…魔力持ち。予知夢を見る能力がある(毎日というわけではない)
田口尊(たぐちたける)…運命の人が死ぬことで魔力が覚醒する。目覚めた魔力は“運命の人を守る、という意思を持ち続ける”というもの。
                特に特別な魔法や術が使えるわけではないので、運命の人を守る為に不死身になったり世界を敵にして戦ったりできるわけではない。
                ただ「守りたい」という気持ちだけは永遠に持ち続けるという強い意志=魔力の持ち主。

舞台は、『chain』の別の時間軸。(以下chainのネタバレ含みます)
主人公らはトーヤや美空と同じ学校に通っています。
トーヤがchainヒロイン(美月)を救う為に時間を遡るのですが、遡ることを覚えたてくらいの頃で数日前にしか遡れません。
美月が死ぬ日に,今回の望も偶然死ぬ運命の時間軸がありました。
望が死んだ時に尊は能力に目覚めますが、既に運命の人である望は死んでいるので絶望して後を追います。
しかしながら、トーヤが数日時間を遡ったことにより時間の再構成が行われ、望が死ぬ前から再び始まります。
普通であれば未来に起こる筈の記憶は存在しない筈ですが、
尊の特殊能力が発動した為に(元来魔力は持っているので一度覚醒すると元には戻らない)彼女を守る為に記憶はうっすらと残ることとなりました。
この能力(意思)は一度発動すると、今後何度トーヤが時間を遡って以前と全然別の歴史になったとしても、彼の中に残り続けます。
なので、他の時間軸でも尊は望を守る為に行動を起こすことになります。
つまりは何があってもハッピーエンドってわけです。(望や周りが変に思って通報とかしない限り…)
これでちょっとすっきりしました。
この乙女脳があれば怖い夢を見ても大丈夫だね!


…というわけで、夢を元にして書いたので意味不明なシチュエーション&急な展開でしたが、
ご覧になってくださったお客様、ありがとうございました!!!


吉永裕(2018.4.15)



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