ArcBarn in mirage
穏やかな日々は当たり前のように過ぎていくものであり、その有難みは失ってからでないと分からない。
戦争放棄し災害をも退けたアークバーン国で再び生を与えられたは、平和の尊さを身にしみて実感し、
当たり前のように日が昇り日が沈むことに感謝をしながら生活をしていたつもりだった。
しかし、現実に平和な日々が壊されることによって改めて変わりない日常の大切さをまざまざと感じることとなる。
「か。先程、ヤンから連絡を受けた。黒い影が街外れで目撃されたらしい」
「えっ…ついにこの辺にも現れたのね」
ヤンが発明した声を転送する転声装置――の元いた世界で言うところの電話であるが――により出張先の夫から連絡が入った。
余程のことがない限り連絡することはないと言っていたが、事態はが考えていたよりも悪かったようだ。
「警備隊が相手をするだろうが謎の多い相手だ。どんな行動をするか予測は不可能。お前は奥の部屋にいろ」
「でも、エドワード」
「私は今からここを出ても一日では帰れない。先にレノンに連絡してお前のことを頼んである。
もし何か必要なものがあればレノンに伝えろ。また異変があれば直ちに助けを求めるのだぞ」
「う、うん」
「玄関から入ってくるような常識を持った相手かは分からぬ。
何かあったら窓からでも逃げ出し近所に助けを求めろ」
「うん…。でも、エドワードも大事な研修なんでしょう?ちゃんと研修を済ませて帰ってきた方がいいわ。
今のところこっちの方では被害はないみたいだし、私なら大丈夫だから」
「馬鹿者、お前が良くても私は良くない」
「ふふ、ありがとう。だけど、無茶しないでね」
「ああ」
手短に話を済ませると二人は通信を終えた。
夫に言われた通りにひとまず奥の部屋へと向かうは後ろ手でドアを閉める。
「どうしてこんなことになってしまったのかしら……」
アーク国とバーン国が統一し新しい政治体制が整ってからは平和な一つの国としてアークバーン国は統治されていた。
しかし、一週間程前からアーク地方で正体不明の黒い影が多数目撃されるようになり世間を騒がせている。
その影は最初は茫然と佇みいつの間にか消えてしまう程度で危害はない存在のように思えたが、
最近では人にじわじわと近づいてくるという不気味な報告もありバーン地方にある国立研究所でも実態の把握に努めているとのことだった。
そんな正体不明の物体がついに自分の住んでいる街にまで現れ始めたことには不安を隠せない。
「例の影は一体何なのかしら……。人の形をしているらしいけど真っ黒で表情もないし、意思の疎通を図るのは無理みたいなのよね。
この世界にそういう概念があるかは分からないけれど、もしかして幽霊の類なのかしら……」
そう言うと、は身震いをして自分の腕をさすった。
相手の正体がよく分からないからこんなにも不安になるのだ、と言い聞かせる。
そしてヤンたち研究者らが早く黒い影の正体を突き止めてくれますようにと心から願った。
「――あれ?」
ふと気配を感じては振り向くが、勿論彼女一人しかこの部屋にはいないので誰かがいる筈はない。
しかし、確かに視界の端に何かが動くものが見えたと思い、もしや影が現れる前触れなのではと心細くなりながら辺りを見回すと
壁に貼り付けている全身が映る大きな鏡にの目は釘付けになった。
「……人影?」
鏡の向こう側に人の動く姿が見えた。向こう側といっても自分の後ろに何かがいるわけではない。
鏡に映っている自分の姿程にははっきりと映っていないが、確かに人影がちらりちらりと鏡に現れるのだ。
まるで鏡を挟んだ向こう側に誰かが存在するみたいだと思いながらは恐る恐る鏡に歩み寄る。
そしてゆっくり手を伸ばすと――
「きゃあっ!」
は思わず叫び声を上げる。
鏡に触れた途端に鏡面は波のように揺れて彼女の手を呑み込み、次の瞬間には誰かに強く手首を掴まれて痛い程に腕を引っ張られ、
あっという間に鏡の中へと引き摺り込まれてしまったのであった。
「いたっ」
力任せに引き寄せられたはその勢いで転倒する。
幸いにも地面は塗装されていなかった為に酷い怪我はしなかったものの、落ちていた木の枝で少し膝を切ったようで起き上る時に地面に膝をつくと痛みを感じた。
立ち上がると洋服や手足は泥だらけになっていて、こんなに汚れたのは子どもの頃以来だとは溜息をつく。
「――お前は何者だ?」
肩を落とすの背後から唐突に声が聞こえ、彼女は驚いて再びバランスを崩しその場に尻もちをついた。
そういえば、自分は誰かに引っ張られてここにいるのだということを思い出し、は自分の視野の狭さや能天気さを呪う。
しかし、こちらを見下ろす人物と目が合うとほっとした表情を浮かべた。
「…って、どうして?エドワードが何故ここにいるの?」
「何!?」
切れ長な目はややきつく見えるけれど整った顔をしておりプルシャンブルーのロングヘアで長身の青年が現れる。
ただ髪の毛を一つに纏めているのはいつもとは違うけれども、の目の前にいるのは紛れもなく彼女の夫のエドワードだった。
現在彼は仕事でアーク地方にいる筈であるのに突然現れた為は驚くが、目の前の彼も同様だ。
更に言うと何故だか名前を呼ばれた時に酷く驚いていた。
「お前は私を知っているのか?」
「何を言っているの?知っているも何も、私は貴方の妻じゃないの」
「お前こそ何を言っている?私には妻などいないし、第一、お前のことも知らぬ」
「え…?」
思いがけない言葉には立ち尽くした。
たとえ冗談であっても愛している人に存在を全否定されてしまったことにショックを隠せない。
それでも目の前のエドワードは真剣そのものであるし、こんな状況で冗談を言う人間ではないことは彼女自身が一番よく知っているつもりだ。
状況が掴めずエドワードもも狐につままれたような表情で互いを見合っている。
「姿は同じなのにまるで別人ね…。ううん、別人というよりも初めて出会った時みたい」
――冷たい硝子みたいな目…と言おうとしては「あ!」と大きな声を出した。
自分は鏡の向こう側の誰かに引っ張られて今ここにいるのだ。
もしかすると、その誰かは目の前のエドワードなのかもしれないと思ったのである。
「エドワード、鏡の中にいた私を引っ張った?」
「…ああ。何者かの気配を感じて周囲を警戒していたら落ちていた鏡から突然腕が出てきたのでな。思わず掴んでしまった」
「確かに私は鏡から出てきたのね?」
「ああ、信じられないことだが間違いない」
「じゃあ、ここは鏡の中の世界ってこと?私が住んでいたアークバーン国じゃないの……?」
「鏡の世界だと?――ここはそんなお伽噺に出てくるような場所ではない。
そもそも、アークバーン国とは何だ?ここばバーン国だぞ」
エドワードは少し苛立った様子だった。
確かに自分の住んでいる場所を鏡の中の世界などと言われたら気分が悪いかもしれないとは少し反省するものの
それ以外に表現のしようがないのだから仕方がなかった。
「ここではアーク国と協定を結んでいないの?
私のいたところでは協定を結んだことでアーク国とバーン国は一つの国になったのよ」
「そんなものとっくに破棄されているし、アーク国も滅んだ」
「滅んだですって!?何故?レジェンスはどうしたの?」
「お前はアーク国のレジェンスのことも知っているのか?」
「ええ、知っているわ。私の大切な友達だもの。彼や貴方たちが宝玉に願ってくれたおかげで私は今、生きているのよ」
「今度は宝玉か…。――お前と話していると頭痛がする。順序立てて話してくれ」
「ええ、私も貴方の話を聞きたいわ。…ねえ、どこか落ち着いて話せる場所に移動しない?」
そう言うとは両手を上げて首を傾げた。
辺りを見回すと倒れて朽ちている木ばかり見受けられ、かつては木々の生い茂る森であったのだろうと推測されるような場所だった。
エドワードは仕方なさそうに頷くが、ふと立ち止まる。
「……お前は私の妻だと言っていたな。名は?」
「私の名前は。今は・ロイセンよ」
はそう言って左手の薬指にはめている指輪をエドワードに見せた。
それを見た彼は目を見開く。
「祖母の形見の指輪…だと」
「ええ、結婚する時に貴方から貰ったものよ」
は愛おしそうにそっと指輪を撫でた。
そんな彼女の前にエドワードは何かを差し出す。
「同じ指輪ね」
「……ああ。これで私以外にお前の夫であるエドワードがいると証明された」
そう言うとエドワードはの前で背を向けてしゃがみ込む。
男性の中では華奢な方ではあるが広い彼の背中にこれまで何度もは凭れたり手を伸ばしてきた。
付き合う前でまだ喧嘩の多かった時期も体調不良の時や不安な時につい彼の服を掴んでいた。
当時彼を前にすると強がってしまっていたにとって唯一の甘えの表現だったのだ。
「足を怪我しているだろう。足場も悪いし背負ってやる」
「でも…」
「早くしろ、ここは人里離れた場所だ。日が落ちる前に移動するぞ」
「わかったわ、ありがとう」
世界が違っていても、共通の思い出を持っていなくても、やはりエドワードはエドワードなのだとは背負われながら思った。
彼は口は悪いが紳士なのだ。何だかんだ言う割には面倒事を任されても断らないし困った時には手を差し出してくれる。
たとえ世界の状況が大きく違っていても根本的な性質は変わらないのだろう。は彼の背中で微笑んだ。
「先程の話だが、色々と気になる点がある。できるだけ順序立てて話してくれ」
「分かったわ」
落ち着いた場所まで少し時間がかかることから、エドワードは彼女に移動しながらの説明を求めた。
いつも夫から主語が抜けているだの、擬音語擬態語が多いだの言われている自分には
彼が聞いても呆れないように順序立てて話すことは正直難易度が高いと思いながらも努めて諄諄に話すようにした。
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