彼女の場合 最終話<響士ルート>
――人は日々選択して生きている。
人の未来まで左右するような重要なことであったり、
将又、テレビのチャンネルを変える程度の些細なことであったりと様々だ。
私の選択は誰を不幸にし、誰を幸せにしたのだろう。
自分だけに影響するならともかく、他者を巻き込むことになる選択はできるだけしたくないけれど…。
まさか予想通りに犯人がやってくるとは思っていなかった。来てほしいとは思っていたが、実際に現れると動揺する。
早朝なのに空振りだったら気の毒だとは思ったが、念の為初音たちに警備隊の傍で待機してもらっていて本当に良かったと胸を撫で下ろす。
私と響士は奏のアパートの玄関側が見える敷地内の茂みに身を隠していた。
携帯端末の動画確認アプリを起動し、部屋の様子を窺う。
この情報は警備隊にいる初音と清亮の携帯端末に共有できるように設定した為、きっと今頃担当者に見せている頃だろう。
まず玄関に設置したカメラの映像を確認してみる。
自動で噴射する消臭剤が反応する音が聞こえ、暗い中をゆっくり音を立てないように移動していく犯人の後ろ姿が見える。
手前から浴室、トイレと覗いて行くと冷蔵庫を開ける音が聞こえた。
暗闇に数分明かりが点り、調味料などの残量をチェックしているのか微かにビンのぶつかる高い音がする。
私はキッチンに仕掛けたカメラの映像に切り替えた。
犯人は一つずつ調味料の残りや作り置きしたおかずの内容、冷凍食品の有無などをチェックしていた。
それにしてもこの犯人は慣れている。
この様子からも日常的にこの部屋に侵入していたのだろうと推察できた。
更に、犯人は堂々と玄関の鍵を開けて奏の部屋に侵入した。
鍵は私の鞄の中にあるので合い鍵だろうということは察するが、どこで手に入れたのだろうか。
もしかすると初回はピッキングで無理やり開け、書類ケースに入っていた合い鍵を拝借してもう一つ合い鍵を作り、
何事もないように元の位置に鍵を戻しておいたのかもしれない。
だとすると彼はいつでも奏の部屋に入れたことになる。
まさか夜中に押し込まれたりしていないだろうなと私はぞっとしたが、それらしい形跡は見つからなかったので
犯人は奏のいない時間に侵入し、彼女に気づかれないように盗聴器を仕掛けたりコンピュータに仕掛けをして
こっそり部屋を覗くことを喜びにしていた、なんてことも有り得る。
私は鼓動の早くなった胸を無意識に抑えていた。
物事が自分の考えた通りに進んではいるが、最後までそうとも限らない。
相手は犯罪者だ。しかも既に一度奏に手を上げている。理性を振り切り殺意を一気に向けてくる可能性もあるのだ。
響士が一緒だとしても相手がなりふり構わず向かってきたら私と響士もろとも怪我を負うことも有り得る。
できることなら警備隊が来るまで犯人を部屋に足止めさせておきたいが…。
「大丈夫?怖いなら無理しないで」
私が不安がっているのに気づいたらしい響士が私の背中にそっと手を添えた。
それで私は自分が茂みからはみ出ていたことに気づく。
気持ちばかりが焦って前のめりになっていたのだ。
「…正直に言うと凄く怖いよ。でも、やらなきゃ。
そうしないと私も奏も今後の平穏な生活は手に入らないもの。
――大丈夫だよ。今頃、初音と楳澤くんが警備隊に映像を見せてくれてるからきっと出動してる筈」
「それはそうだけど無理は駄目だからね。
もし犯人が逃げるようなそぶりを見せたら俺が追うから。
カナはここで隠れていて」
心配してくれる響士には悪いが、私は首を大きく振った。
私は逃げない。隠れもしない。
卑怯で人を平気で傷つけそれで快楽を感じるような人間を許しはしない。
私は高校時代に後輩たちから呼ばれていた肩書きを心の中で繰り返した。
あの頃は皮肉だと受け取っていたが、今となっては誇らしく思える気がする。殊に今のような状況においては。
――常に全力を尽くし、どんな状況にも挫けることなき強い精神が私には宿っている。
「植松くん、私は逃げないよ。勿論、危ないことはしないつもりだから安心して。
とりあえず玄関を固めておこう。怪我を覚悟で窓から飛び降りる可能性もあるけど、とりあえず時間は稼げる筈」
「分かった。絶対に無茶なことはしないでくれよ。
――あ、奥の部屋に行ったみたいだ。
俺たちも行こう」
犯人は奥へ続く引き戸を引いた。
奥の部屋にはあるトラップを仕掛けていた。扉を開けた目の前にあるクローゼットの中にそれはある。
目立つし昨日新しく買ったワンピースの話をしたのだから、盗聴していたなら恐らく犯人は最初にクローゼットを開けて中を見るだろう。
(俺が扉を押さえておくから、窓から見えないところにしゃがんでて)
(分かった)
声にならないような小さな声と仕草で私たちは会話をし、
音を立てないように奏の部屋へと向かう。
一番近い警備隊分庁舎は徒歩10分程の距離にある。
この映像と初音たちの言葉を信じてくれたなら、もうすぐそこまでやって来ている筈だ。
早く来てよね、と私は祈りながら映像をクローゼット内のものに切り替えて携帯端末を注視した。
その時――眩しい光が画面を埋め尽くすと同時に「いぃっ」という小さい悲鳴のようなものが聞こえる。
彼がクローゼットを開けた瞬間、クローゼット内に設置していた熱源を感知して自動点灯するライトが点灯し
カメラに彼の顔をくっきりと映し出したのだ。
暗い背景に浮き立つ犯人の顔は残念ながら会った時に抱いたものとは違い爽やかとは正反対のものだった。
『何だ…何で…?』
犯人はこのアパートの近くにあったコンビニ店員だ。
戸惑ったような呟き声が聞こえたが、すぐにクローゼットの扉が閉められる。
奥の部屋に設置していたカメラの映像に切り替えると、彼は薄型テレビの裏に手を突っ込んでいた。
盗聴器はそこに仕掛けられていたのか。奏は電化製品の扱いが苦手だから掃除以外では気にも留めなかっただろう。
相手はそういう彼女の性格をうまく利用したのだ。
薄暗いが彼の手元にはカード型の携帯端末が握られている。
そうか、携帯端末が2,3台あれば簡単に盗聴できるではないか。
音声通話状態にして放置し、充電が切れる頃に部屋に侵入して充電しておいた別の端末を設置すればよいのだ。
設置しておいた端末は自動着信アプリを入れておきサイレントモードにしていれば音や振動で気付かれることもない。
そうすれば奏の部屋の明かりが灯ったのを確認してから部屋に仕掛けた携帯端末に音声通話をかければ、
アプリが起動して自動でその端末は通話可能、つまりは音声を拾う盗聴器となる。
顔に似合わず悪趣味な奴めと私は唇を噛んだ。
一昨日、私にかけた「その服、初めて見ますね」という言葉は(クローゼット内で見なかった)という意味だったのだ。
畜生、何が指輪チェックだ。彼は左手で商品を詰めていた。左利きだ。
清亮の見た犯人の特徴は間違っていなかった!
――突如、携帯端末の表示画面が切り替わった。清亮から音声通話希望の通知が来ている。
慌てて私は通話をオンにした。
「そろそろ着く筈だ。相手を部屋に閉じ込めろ!
危ないことはするんじゃないぞ」
「うん」
清亮たちもリアルタイムで犯人の動向を追っていたらしい。
流石に警備隊も事の異常さを分かってくれたのだろう。
通話を終了する時、走行音が背後に聞こえた気がした。
清亮と初音も警備隊の車に同乗しているのかもしれない。
とりあえず目途が立ったと安堵の溜息を吐き出した瞬間、すぐ近くで音が聞こえた。
私は身体を強張らせる。
地面と靴底がすれるような音。慌てて乱暴に靴を履こうとしているのが分かる。
しかし玄関の扉に手をかけて違和感に気付いたのだろう。
ガチャガチャ、ドンドンと扉の向こう側から音が聞こえる。
「――だ、誰だ!?誰かドアを押さえてるな?!」
自分が犯罪を犯していることも忘れたのか、それとも余程必死なのか。
犯人はドアのこちら側に向かって声を荒げた。
「あなたこそ、どちら様ですか。
人の家に勝手に侵入して」
私は勇気を振り絞り、できるだけ落ち着いた低い声で彼に問い質した。
そんな私の声を聞き、彼は若干嬉しそうに声のトーンを上げて応える。
「奏ちゃんかぁ。
僕はね、君を殴った男だよ。覚えてる?」
「あのコンビニの店員ね」
「よく分かったね。あのクローゼットの仕掛けはいつしたの?
昨日は全然そんな素振りみせなかったのに。
何より今日は妹さんと日帰り旅行に行く予定だったんじゃないの?
今二人で必死にドアを押さえてるの?涙を堪えながら?
きっと可愛いだろうね」
私は響士に人差し指で静かにとジェスチャーをしてから扉に向き直る。
正直、会話するのも気持ちが悪いが時間を稼がなければならないし、
万が一、窓から逃げられたりでもしたら大変だ。
「そう言えば記憶喪失なの?この間から何か変なこと言ってるよね。
僕が殴ったことが原因かな?それは良かった。
それならもう殺して僕のものにしなくてもいいね。これまでの記憶なんていらないもの。
君の傍にいるのは僕だけで十分だ。あの男たち二人して馴れ馴れしいんだよ。
君が苦手に思ってるのに気付きもしないで」
「貴方にはそんな風に見えたの?何故?」
「奏ちゃんは顔の傷がコンプレックスなんでしょう?形成外科のパンフレットを真剣に見てたの知ってるよ。
料金なんかもコンピュータで調べてたみたいだし。
その傷痕もあいつらが原因だってね?
君が留学を考えるほど嫌ってたのになぁ。ホントに奴らは馬鹿だよね。
あいつらが傍にいる限り、君は顔にコンプレックスを抱えた自分を背負い込むことになるんだ。
変わろうと思っても変われない。奴らが奏ちゃんを被害者として見る限り」
「それで…」
奏はあの“嫌なことから逃げられる”呪文を眺めていたのか、と言いかけて私は言葉を呑み込む。
不思議とこの犯人の言葉をすんなり受け止めていた。
奏は変わりたかった。けれど、受身の彼女は響士や清亮の無意識に抱えている彼女への印象を感じ取り、その枠からずっと抜け出せなかった。
それでも変わることを望んだからこそ、奏は傷跡を消そうと思ったし、彼らのいない別大陸に留学しようとしていたのだ。
あの日の奏も今の私と同じように全てを終わらせるつもりだったのかもしれない。
まず清亮に整形することと留学することを告げ、響士にも同じように伝えた後に交際を断るつもりだった。
そして彼らとの憂いを断ち切って新しい世界に飛び立つつもりだったのではないだろうか。
…とはいえ、これは全て私の想像に過ぎないのだけれど。
黙って扉を押さえていた響士の瞳は悲しげに揺れていた。
自分たちが彼女を追い詰めてしまった、と考えているのだろう。
けれど響士は奏に純粋な好意を抱いていた。
奏はその純粋さを何故素直に受け入れようとしなかったのか。
奏自身も少し卑屈だ、と私は心なしか響士の肩を持ちたい気分になる。
それならばここで全部終わりにしよう、と私は思う。
奏はこの世界にいつ戻ってくるか分からない。
だから彼女に謝る機会も与えられないまま時が過ぎていく可能性が高い。
そんな彼女に囚われた響士の心が解放されない限り、彼は前に進むことなんてできやしないだろう。
そんな生き方は悲しいし、きっと彼女が逃れたかったのはそういう柵からだと思うから。
――響士もこの犯人の心も私が壊そう。
「けれど、私は貴方を認めない。
どんなに貴方が奏のことを理解していたとしても、その情報収集の仕方は完全に違法だし、彼女の尊厳を無視してる」
静寂の中、背後から車のドアを閉める音が聞こえた。
警備隊の車両が着いたらしく、足音が微かに近づいてくる。
「嫌だなぁ、完全に第三者みたいな言い方して。
記憶喪失っていうよりも多重人格者みたいになっちゃってるよ?
もっと怖がってよ。めそめそ泣いて見せてよ」
速やかに音を立てず中腰の態勢のまま警備隊員が二名やって来て私をドアの陰になる方へ下がらせ、
犯人に気づかれないように扉を押さえている響士と交代する。
初音と清亮は念の為に窓の方を見張っているようで姿は見えない。
「ねえ、良いことを教えてあげる」
私は犯人の息の根を止める覚悟で口を開いた。
彼の幻想を、夢を、心そのものすら砕いてやる。
それと同時に響士の心を傷付けることになるだろうが、構わない。
私は彼に好かれたいとは思っていないし、向こうもそうだろうが今後これ以上深く付き合うつもりもない。
とにかく奏の呪縛から解き放てれば、それで。
「貴方の愛するか弱くて受身がちで大らかで優しくいじめがいのある奏ちゃんはもうこの世界には存在しない。
彼女は死んだわ!尊厳も心もボロボロに傷つけられて、この世界に居場所をなくした奏は死んだのよ!!
貴方は二度と奏には会えないし、歪んだ欲望も満たせない。
何より貴方のような人間を奏は絶対に愛したりしないし、受け入れない!」
私は警備隊員の一人に目で合図をした。
その瞬間、激しくドアに体当たりをする音がし、次のタイミングで警備隊員が扉から手を離す。
「確保!」
急に扉が開いたことで態勢を崩した犯人をすかさず警備隊員が挟み込むように捕らえ、コンクリートの床に腹這いにさせる。
彼の左手は背中の後ろで捩じりあげられ、右手に錠がかけられた。
「――奏ちゃん、用意周到だね。警備隊まで呼んでたなんて」
「当然よ。逃げられるわけにはいかないし、貴方にはちゃんと罪を償ってもらわないと」
「君は本当にこれまでの奏ちゃんとは違う人間みたいだ。
でも僕は今の君は好みじゃない、その服装も、態度も」
「当たり前でしょう。
今、貴方の前にいるのは孤高の女王・カナ様なの。
私は貴方のような卑怯で陰湿な人間には絶対に屈しないわ!」
辺りに私の声が響いた。早朝の静けさの中でどこまでも振動していくようだった。
そんな私に迫力負けしたのか、犯人は大人しくなり警備隊員らによって連行されていく。
その様子を階段の上で眺めながら私は深呼吸をした。
爽やかな空気を吸い込み、少し冷静さを取り戻す。
犯人が車両に乗り込んだのを確認してから、運転担当の警備隊員が
「話を聞きたいので後程分庁舎まできてもらえますか」と私たちに話しかけた。
その隊員は犯人と同じ車両に乗せるわけにはいかないので家まで送れないのが恐縮ですが、と付け加える。
私たちは承諾し、犯人の乗った車両が去っていくのを見送った。
これで本当に終わったのだ。
「もうこんなことはやめてもっと健全に、もしくはその性癖に付き合ってくれるような人を見つけなよ。
貴方はこれから先もこの世界に縛られて、ここで生きていかなきゃならないんだから。
自分から世界を拒絶して自分の作り上げた妄想と幻想の中で生きていくなんて非生産的だわ。
…そんなの私だけで充分」
視界から完全に消えた車に向かって私は呟く。
馬鹿な男だ。見た目も良くコミュニケーション能力も高いのに何であんな性癖を覚えてしまったのか。
何でも備えているからこそ人とは違うことがしたかったのかもしれない。
だがそんな心理は理解できないし、したくもない。
「お姉ちゃん!!」
緊張の糸が切れたのか、いつの間にか私の後ろに佇んでいた初音がぶつかるような速度で後ろから抱き付いてきた。
衝撃に少しつんのめるも、緊張して手足が冷えていた私の身体に初音の温もりがじわじわと伝わってくる。
「今回は上手くいって良かったけど、もう二度とこんなことしないでよ!
約束だからね!!!」
「うん、こんなことが起こらないように気をつけるよ。
――協力してくれてありがとう、初音。
植松くんも楳澤くんもありがとう」
彼女の方を振り返ると初音は今にも泣きそうな顔をし、私たちを見守っていた彼らはホッとしたような表情を向けている。
流石に罪悪感に苛まれて響士の顔を真っ直ぐ見れなかったが、彼は私を恨んでいい。
その恨みは受け止めて生きていくとして、私は漸く肩の荷が下りたような気持ちだった。
これで奏がいつ戻って来ても大丈夫だ。
犯人は捕まったし、恐らく響士と清亮との関係も変わる筈だ。
彼女が望んだ気負い気負われのないフラットな関係に。
もしかしたらそれから響士と奏の恋が始まるかもしれない。そうなればいいな、と私は思った。
でも、私は――きっと何も変わらないだろう。
元の世界に戻ったとしても、戻れずにこの世界で生きていくとしても。
もし変われるならば、私を変えてくれる存在が現れてくれるのを待つしかない。
しかし、私はこの世界にいる限りそれを求めないだろう。
とりあえずまだ太陽も完全に昇っていない時間なのと、
感情が高ぶっていて自分の家に帰っても時間を潰せないと思った私たちはファミレスに行くことにした。
アパートに鍵をかけ、騒動で目を覚まして起き出してきたお隣さんに簡単に事情を話して迷惑をかけたことを謝罪してから
私たちは徒歩で目的地へと向かう。
次第に日が昇り人の気配がし始め徐々に目覚めていく街中を歩くのはなかなか新鮮だ。
気候も相まって空気や光も気持ちよく感じるし、歩いていれば丁度いい気温である。
早朝の散歩をしている人や仕事へ向かう人とすれ違う度に「朝まで遊んでいたのか、この学生たちは」という目で見られるのは少々気まずいが、
本日、我が校は創立記念日で休校なのだ。何も後ろ暗いことはない。
「それにしてもお姉ちゃん、ばっちり聞こえたよ。
何が“孤高の女王・カナ様”よ!よくあんな状況でそんなフレーズ思いついたね」
「あら、私は嘘なんてついてないわよ。
高校時代に後輩からそう呼ばれてたの、私」
「「「えっ」」」
一気に視線を集めた気がする。
後ろを歩いている響士と清亮も驚いている様子だ。
そんな彼らに私はそう呼ばれるまでの経緯を話すことにした。
「私、高校二年生の時に物理担当の先生に一目惚れしたの。
その後、理数系が苦手だったにも拘わらずその先生が顧問をしていたロボット部に入部し、物理も猛勉強して成績を上げていったわ。
それだけじゃまだ個人的に注目されないと思った私は他の科目も勉強することにして、
二年生の後半からずっと学年一位の成績を収めるまでになったのよ。
でも、三年生の三学期の始業式でその先生が何年も付き合っていた女性と結婚したという話を聞いて私は固まった。
物凄くショックだったし何より酷く恥ずかしかった。
何も知らず気付きもせずに私は一方的に先生にアタックしてたんだもの。
その後はすっぱり想いを断ち切って私は残りの日々もひたすら自分を磨いた。
そんな私は卒業する時には100人くらいのファンを獲得し、
ファン以外の後輩たちからも“孤高の女王・カナ様”と呼ばれるようになったのよ。
経緯も知った上でのことだから皮肉めいた呼び名だったのかもしれないけど」
過去を思い出し私の気持ちが少し傾ぐ。
あんなに何もかもに全力でぶつかった日々が一瞬で壊れてしまったことの虚しさと、
その原因が失恋という俗なものだったことが今でも情けなくて。
「それから私は決めたの。
二度と相手のいる人に惹かれないって。
そしてこれからはあの時の私と同じくらいの熱量を持ってぶつかってくる人しか好きにならないって」
理系で周りに男性が多い環境にあった私に恋人がいなかったのもそういう理由だ。
友人として楽しく過ごせる人はいても、当時の私と同じくらいに全力で直向きに想ってくれる人がいなかったわけだ。
「そ、そんなことがあったの…」
半ば呆れたような顔をして初音が見上げてくる。
そんな彼女に「でも今はその肩書きを気に入ってるよ」と返した。
孤高イコール孤独という意味ではない。――誇り高く、ひとり自らの志を守ること。
進学校の生徒だった彼女らはきっと意味を知っていて名付けてくれたと信じている。
「でもね、お姉ちゃん。決めつけは良くないよ。
人を好きになるのって理屈じゃないんだから。
それに…」
不意に足を止めた初音は私の手を握った。
つられて私も立ち止まる。
「お姉ちゃんもこの先、この世界で生きていくんでしょう。
一人傍観者みたいに過ごすつもりだったんでしょうけど、そんなの私が許さない。
もし奏お姉ちゃんが戻ってきた時はその時だよ。
何で同じ存在のお姉ちゃんが遠慮する必要があるの?」
「…あれま、気付いちゃった?」
思わず間の抜けた声が出た。
私を見据える初音はへの字に口を結んだまま私の手をきつく握りしめる。
「気付いちゃったよ、何となく。
――さっきお姉ちゃんがぶつぶつ呟いてたの、聞こえたんだよ。
あれってそういう意味だったんでしょう?」
「…うん」
私はこの世界に特別な居場所はないと思っていたし、作ってはいけないと思っていた。
奏がいつ戻ってくるか分からないのに、友人や恋人などを作ってしまっては
奏が戻ってきた時に奏にもその人たちにも迷惑をかけてしまうし、悲しい思いをさせてしまう。
だから私は今以上に誰かと深く関わることなく過ごしていこうと思っていた。
そんな私の浅はかな考えは簡単に見破られてしまったらしい。
「カナはカナだよ、この世界でやりたいように生きていいんだよ。君の人生は君のものだろ。
遠慮して距離を置くなんて水臭いじゃないか。
きっと向こうの奏も必死に生きてると思うし、もし今後入れ替わりが起こっても俺たちは君のことを絶対に忘れないし、
奏と比較しない程度に君のことを話すと思うよ。同じ名前をした勇敢な孤高の女王のことをね。
…だからさ、いつ入れ替わっても後悔しないようにカナには過ごしてほしいし、俺たちも君とそんな日々を過ごしたいんだ」
「ああ。お前がこの世界に来た時から、ここでの佐久良奏の人生はお前のものだろ」
響士と清亮は一旦立ち止まったものの、言いたいことを言ったら私たちを追い越して歩き始める。
それを見て初音が私の手を二回引いた。行こう、の合図らしい。
未だに手を離さない初音や響士と清亮の後ろ姿を私は呆然と見つめる。
何だか不思議な気持ちだった。
それまで一緒に過ごしてきたのは犯人を見つける・捕まえる為であって、初音以外は情で結ばれた関係とは言い難かった。
けれど今は彼らの言葉をとても嬉しく思う自分がいる。
「ねえ、皆。
これからもよろしくね」
少し照れながらそう言うと“何を今更”と三人から返された。
−その世界の先で−
犯人は幾多の軽犯罪法違反で逮捕、起訴された。
彼の部屋を捜索すると過去に奏以外にも同じようにストーカーをしていた女性がいたらしい。
また、私が思った通り、彼は最初にピッキングで鍵を開けて侵入し、合い鍵を複製してからは
奏が大学へ行っている昼間に侵入していたようだ。
あまりに堂々と鍵を使って部屋に入っていたのでアパートの住人は奏の彼氏だと思っていた、という人間もいて
より犯人を不気味に思ったものだ。
その後、私は奏のアパートを引き払い、無理を承知で家族に現在のマンションからの引っ越しを提案した。
もし犯人が更生しなかった場合、家を突き止めてまた接触しようとするかもしれないと最悪の事態を考えてのことだ。
このままここに住んでいると家族に危険が及ぶ可能性があるので
災いの芽は摘んでおかなければと思ったことを素直に話したら両親も納得してくれたらしく、
早速家探しをしたところ丁度父の会社に近い場所に条件の良い平屋の家が見つかった為にそこに移住することになり、
これを機に母は小児科の看護師長を辞退し、今よりも時間に融通の利く整形外科への異動願を出した。
そして逆に家から大学まで遠くなってしまった初音は大学付近にアパートを借りることになった。
ちなみに、私が直接犯人と接触したことを警備隊からの連絡で知った両親からは数年分のお叱りを受けたが、
それ以上に温かい言葉と苦しいくらいの抱擁を私にくれた。
混乱させたくないので私が奏と入れ替わっていることは未だに伝えてはいない。
けれども前のような“奏のお父さんとお母さん”というような他人行儀な気持ちは消えた。
私が不幸にしてしまったかもしれない元の世界の両親にできなかった分、今の両親には親孝行したいなんていい子ぶったことを考えてもいる。
うんと考え、両親とも相談した結果、大学は一旦休学することにした。
今回の騒動で六法全書はとても役に立ったのだが本格的に法学部の勉強をする覚悟も興味もなく、
また急に工学部に転部するのも色々と怪しまれそうなこともあるし、
何より私の気持ちがまだどこか日常へ戻って来ていないこともあって、何年間かこの世界でのんびり過ごしたいと思ったのだ。
親孝行を考えている割には親泣かせな選択をしたとは思うが、理解してくれた両親には本当に感謝している。
「――というわけで、一緒に卒業はできません」
「そっか。残念は残念だけど人生はまだまだ続くんだ、急ぐことはないよ」
私はこの世界で積極的に生きて行くことを決めてからまず最初にしたことはアルバイト先を探すことだった。
初音のアパートにほぼ入り浸っているものの、実家暮らしだと些か不便なことがあるもので
まずは車の運転免許証を取りたいと考えたのだ。
何より、やはり車は私の生きがいだと思ったので。
そんなことを話すと響士が自分の勤め先を紹介してくれた。
昼間は軽食を出す喫茶店で夜は食事とお酒を楽しめるバルをしている飲食店だ。
私は平日の週3日は昼に土曜日は夜に働き、響士は木曜日の昼と金曜日と土曜日の夜に働いている。
そこで一緒に働く機会があったので知ったのだが、響士は私が想像していた以上に女性に人気があった。
裏方の仕事も接客もこなす仕事のデキる男であり、接客態度も非常に感じが良く素敵な笑顔で客のハートを鷲掴みにしており、
彼目当てに二週間に一度来店するお姉さま方などもいたりする。
孤高の女王カナ様も負けてはいられぬと思い奮闘しているがまだまだファンはつかないようだ。
そんなわけで、縁が遠くなると思った響士と接する時間が増えていった。
彼の器が大きいのか私に気を遣っているのかは不明だが、あの事件以来奏の話が彼の口から出ることはない。
恐らく彼の心の中で区切りがついたのだろう。
「それにしても植松くんはどうして未だにバイトしてるの?
資格の勉強とか卒論とか就職活動とか色々と忙しくなってきたんじゃない?」
「そりゃ忙しいことは忙しいけど、授業数自体は少なくなってるから時間に縛られることは少なくなったし、
何よりある程度のお金が必要になったからさ。
やりたいことが見つかったからね、頑張らないと」
仕事を終えた私たちは深夜2時に歩いて帰宅していた。
そこら辺の居酒屋よりは終了時間が早いのでよいものの、生活リズムがずれてしまうのもあって夜遅くまで働くのはなかなか慣れない。
そんなアルバイトを続けている響士は見た目よりもタフなのかもしれないと私は思った。
「やりたいことって?」
「車に乗りたいって思ったんだよ。
いつかは運転免許を取ろうと思ってたんだけど、最近無性に取りたくなったんだ」
「ホントに!?」
「ああ、だから今年の夏休みから教習所に通おうかと思ってて」
「じゃあ一緒に合宿教習に参加しよう!
まだ申し込みは間に合うし、二人以上からグループ割も受けられるし、何より短期で取れるから!!」
鼻息荒くまくし立てた私に響士は人差し指を立てて“静かに”のジェスチャーをしてみせる。
そして慌てて口を噤んだ私を見て吹き出すのを堪えるようにして笑っていた。
「分かった。じゃあそれを目標にお金を貯めようね。
――それでさ、無事に免許証を貰えたら…ドライブに行かない?
自分の車はまだ持てないだろうからレンタカーになるけど。
前にカナが言ってたみたいに、気ままに海までドライブして周辺施設で遊んだり食事したりしてから
のんびり夜景を見ながら帰ってみたいんだ」
「わぁ!いいね、それ!」
「他にもやりたいことはあるんだ。月をどこまで追いかけられるか、とか。
虹の根元を探しに行ったりとか」
「それも素敵ね。でもちょっと意外だったわ、植松くんがこんなにロマンチックな夢を持ってるなんて」
「男は女々しくてロマンチストな奴が多いんだよ」
そう言って響士は自嘲する。
しかし私はそんな彼の夢見るドライブに付き合いたいと思った。
彼が疲れたら私が運転を代わって、私が疲れたら彼に代わってもらって…、
そんなことをしながらマイペースに月や虹を追いかける時間を響士と過ごせたら幸せだろうと不思議と心の底から思えたのだ。
「凄く魅力的だけど時間がいくらあっても足りないわね」
「一生かけてゆっくり楽しんでいけばいいんじゃない?
週末の楽しみにしてもいいし」
響士はそう言うと振り返って右手を差し出した。
まるでダンスにでも誘うように、けれどごく自然に。
私は応えるように彼の手に左手を重ねる。
「よろしくね、響士」
「よろしく、カナ」
何に対する「よろしく」ですかって?
その辺はご想像にお任せするわ。
――人は日々選択して生きている。
生命を左右するような重要なことであったり、
将又、傘を持って行くか持たずに行くかといった些細なことであったりと様々だ。
「お姉ちゃん、さっきから玄関でボーっとしてるけど、どうかしたの?」
「傘を持って行こうかどうか迷っているの。
初音は今日の天気予報見た?」
「晴れ時々雨だから傘は持って行かなくていいんじゃない?
雨が降ったら買えばいいのよ。どこにでも売ってるんだもの」
「ふふふ、そうね。その時になったら考えようか。
ショッピングはできるだけ身軽な方がいいしね」
「そうそう!さ、早く行こう!!
そうだ、免許取れたらお姉ちゃんの車を私の名義にしたいんだけどいい?」
「構わないよ。私は免許持ってないし、免許取る為に初音が頑張ってるの知ってるもの。
駐車場代が勿体ない気がしてたし、使って。
但し、気をつけて乗るのよ?」
「はーい!」
私が選択した方は、きっと幸せな未来へ繋がっている。
そして、もう一人の私にとってもそうであることを私は心から祈っている。
−完−
※名前変換小説版と同じ後書きです
何でこの作品を作ろうと思ったのか、それは
「他の人を想っている(片想い)男の心も奪うようなモテる女に物語の中でくらいなってみたいぜ!」
という私の邪な心からです。
とはいえ、相手の男性が片想いだとしても人から奪うというのはちょっと罪悪感を感じると言うか気が引けるところがありまして(ビビりです)
ならば、別の世界の自分から奪うならまだ罪悪感少なくないか!?と思ったところから始まりました。
そんなわけでパラレルワールドが誕生し、もう一人の自分を起点に自分たちだけ入れ替わるという話になりました。
ここから逃げたいと思う程の気持ちってなんだろう、と考えた結果、一番は死の危険が迫った時かなと。
それでもう一人の自分は被害者になっていただくことになり、相手をどうしようか悩んだ結果、ストーカー男にしたのでした。
やっぱりもう一人の自分が恨まれてるなんて嫌ですし、一方的なものにしたかったんです。
犯罪を助長する意図はありませんし、もし被害に遭ってもあんな対応はせず安全第一で警察に相談&安全なところに身を隠すなどしてくださいね。
犯罪被害者の方にはつらい内容かと存じますが、その辺は自衛してくださっているものと思っております。
ちなみに、もう一人の自分は世界移動した後は色々とどたばたがあったようですが、怪我が治った後は穏やかな人生を送れたようです。
さて、もう一人の自分の思考や心情については、ほぼ犯人や主人公が語っているもので正解です。
彼女は響士や清亮とできれば普通の友人になりたかったんですね。
一人暮らしをしているのも精神的に自立したいという気持ちがあったからです。
けれど彼らと一緒にいるとちやほやされ甘やかされてしまい、またそれに慣れつつある自分が嫌で彼らとの接点(傷痕)をなくしたいと考えていました。
留学は遠い場所ならどこでも良かったようです。
響士について。
不憫な役回りをさせてしまって本当に申し訳ないと思っています。
本当にいいやつです。爽やかで格好良くそれを鼻にかけないというか自覚してない天然王子です。
ちなみに、響士も清亮も、主人公が「自分と同じくらいの熱量〜」と言っているのを聞いていますので、
恋心自覚後はそれまでとは違い積極的に主人公にアタックしている感じです。主人公は鈍感で最後まで気付かないようですが。
響士は最初の頃はずっともう一人の自分に片想いを続けさせようかと思ったのですが、
今回、攻略対象が少なかったもんですから。
私も最初は清亮派だったのが、書くうちに響士も好きになってきましたしね。
皆様も響士を愛して下さったら幸いです。
ここまで読んでくださったお客様、ありがとうございましたm(__)m
裕 (2016.9.11)
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