白磁の肖像




第二話

 仕事がきっかけで少し精神が疲れて以来、一定のラインまでしか感情が波立つことがなくどこか静かで無気力で、
そんな自分になってしまったことが一番辛くて誰にも見えない透明な水槽の中にいるような息苦しさを抱えながら生きていた。
 身体の疲れを取れば元に戻ると思ったけれど、ただ身体が鈍るばかりで尚更無気力になってしまった。
 どうにかしないと、と口にするが、それも両親や周りへの体裁の為だと自分でも分かっている。分かっているけれど気持ちが動かない以上、身体も動かなかった。
 そんな私が国を出てこれまで名前も知らなかった土地へ向かおうとしている。
 気力を失っていた私をここまで動かしたのは曾祖父の手帳だった。

 あの日、埃でざらつく表紙を慎重に開いた私は、曾祖父がいた時代にタイムスリップでもしたかのように意識を過去に飛ばし日が暮れるまで手帳の内容を読みふけり、
*1携帯端末に入った母親からの着信でやっと現実に意識を取り戻した。
 その後、興奮状態を引きずりながら帰宅した私は、母親が用意してくれた夕食もそこそこに自分の部屋に籠もって携帯端末の
*2情報共有システムにアクセスし、手帳に出てきたプロメス島を調べた。
 プロメス島はブルー諸島の中にある島の一つで、年間を通して雨が多く平均気温も20度から30度でジッカラートと比べると常に初夏から真夏のような気候らしい。
主な産業は漁業と観光業で、島には長寿の木という古木があり、健康長寿を願う旅行者が立ち寄る有名なスポットなのだそうだ。
 その後、旅行者向けのプロメス島の紹介ページを食い入るように見つめる。
 青い空と真っ白な雲、そして透き通ったエメラルドのような色合いの海の写真が最初に目に飛び込んできて、
次第に日が傾いていき夕暮れの美しいオレンジともピンクとも言えない色合いに海と空が染まり、最終的には星空と暗い海の画像へと変わっていく。
 行ってみたい、と思った。
 仕事を辞める前から今まで自分から率先して何か新しいことをやろうと思うことはなかったのに、
「プロメス島に行きたい、曾祖父の見た景色を私も見てみたい」という気持ちが心の底から湧き上がってきたのだ。
  私はすぐにプロメス島へのアクセスを調べ、その紹介ページを掲載している旅行会社の旅行予約フォームに迷いなく入力する。
 出発は3日後だ。それまでに必要なものを買い出しに行かなければ。いや、しかし、その前にしなけれなならないことが――
「――プロメス島ってどこにあるの?大丈夫なの?」
「国外を旅行するなんて今のお前には厳しいんじゃないのか」
 事前に相談もなく予約を取り、行く気満々になっている私の話を聞いた両親はひっくり返りそうな勢いで驚いた。
そして不安感を滲ませる。
 確かに今まで部屋から出るのも億劫で、それでも最低限の仕事としてあの家の管理をしていた私がいきなりこんなことを言い出したら
驚きや不安、不信感もあるかもしれない。
 それでも私はどうしても行きたいのだ、と両親に詰め寄った。
理由は上手く言えないけれど、曾祖父の忘れ形見を見つけてしまったら急激に曾祖父の記録であり記憶を辿りたくなったのだ、と。
 普段、こんなにも自分の意思を伝える人間でなかった私がそこまでいうのなら、と母は納得してくれたが、父はそれでも渋っていた。
 そこで曾祖父の手帳の内容をかいつまんで話すと「お前が行ってどうする?その女の子のことを調べるのか?」と聞かれた。
 私は自分でもまだどうしたいのか分からなかった。曾祖父の立ち寄った島に自分も足を踏み入れたいという気持ちはあるけれど、
そこで何がしたいとかどうしたいといった具体的な目的はないのだ。それでもこの湧き上がる気持ちを「危ないから」「不安だから」「何も成果がないかもしれないから」なんて言葉で胸の中に押し込めたくはない。
「それは向こうで考える。別にひいおじいちゃんの過去を掘り返しに行きたいわけじゃない。ひいおじいちゃんも若い時に色んなことがあったんだなって親近感を覚えたの。
 そしたらあの島のことも知りたくなったんだよ。昔と変わっていないのか、今はどんなふうになっているのか、って」
 ――それに、旅行先で綺麗な景色を見て癒やされるだけでも今の私には行く価値があると思う。と私は付け加える。
 そこまで言われてしまっては何も言えなくなったのか、父親も私のプロメス島行きを許してくれた。
芙美香(ふみか)、旅行に行く前にその手帳を見せて貰っても良いか?じいさんがどんなことを考えて何をしようとしていたのか俺も知りたい」
「勿論よ。お父さんはひいおじいちゃんの孫なんだから。文字が小さいけどおばあちゃんにも良ければ見て欲しい」
 その夜、私は父に手帳を預けて眠りに就いた。
 曾祖父の手帳の最初のページは固い決意に満ちていた。父もきっと彼の想いに触れたら心が震えることだろう。


 ――
*3AHD3393年1月10日、雪。夜明け前に祖国ジッカラートを出発し、陸続きの隣国チャイラの港より出港。目的地であるネープル帝国へ向かう。
雪のせいで予想外に装備が重くなってしまって動きづらいが、この期を逃せば渡航が半年後になってしまうので仕方がない。
我が国は加工技術や
*4蒸気機関の分野において非常に遅れている。*5邪神の眠る国として情報を他国に漏らさず、余所者も受け入れずに閉鎖し続ける国である為、
隣国のチャイラとすらまともな国交を開けていないし、それ以外の国の情報などほぼ持ち得ない。今回、私は国を欺くようにしてチャイラへと入国し、
チャイラの国民を装ってネープル帝国への船に潜り込んだが、これはひとえに国の未来を思ってのことである。一昨年入所した保本製鉄所の所長もジッカラートの未来を嘆いておられた。
鉄くずを集めて作るのは農機具や調理器具程度。先日、ジッカラート海域内で拿捕されたというネープル帝国からの船は鉄の城塞のようであったという。
人づてにネープル帝国では蒸気機関という動力装置が開発され、鉄細工やからくり人形を動かしているというのだ。その話を聞いた時、私の胸は非常に高鳴った。
我が国ではごく一部の者だけが使える霊力という能力の存在があるけれども、護身用の力として使う程度で日常生活で使える力ではなく、動力源となるものは存在し得ない。
それでも技術を高め、歩くだけだった移動手段に自転車が加わった。もし、その蒸気機関というものを組み込めばもっと早く、もっと楽で新しい自転車や別の乗り物もできるかもしれないということだ。
そこで所長に相談し、私は単身ネープル帝国へ渡ることにした。危険な旅路であるし、国の後ろ盾もないが絶対に私はネープル帝国へ辿り着き、かの国の技術を学んで祖国へ持ち帰る。

 AHD3393年1月20日、雨。船内で知り合ったネープル帝国の者と懇意になる。彼はチャイラから反物を仕入れる業者の者らしく、チャイラ産のプレミアムコットンは非常に人気が高いらしい。
それらを洋服に加工する工場の写真を見せて貰ったがなんと壮観であろうか。広い工場内の机の上には人力ではない機械式のミシンがずらりと並び、それを操作している人々のなんと多いこと!
彼がチャイラの職人のところへ試作品として持って行ったという洋服を見せて貰ったが、動きやすく夏に着ると涼しげであろう服であった。
見た目の割に若干重たい気もするが、ネープル帝国は比較的温暖で乾燥した気候であるとのことで、薄い洋服を重ねて着る服装が流行っているらしい。
「君に一つあげよう」と試作品のうちの一つを頂く。黄色の生地に白抜きされた葉の柄があしらわれた半袖の服で、襟ぐりが広く胸元が開いており、見るからに涼しそうだ。
これを地元で着たら母や兄は目を丸くすることだろう。父はそんな柄や緩い首元の服などみっともないと怒鳴り声をあげるかもしれない。

 AHD3393年1月22日、晴れ。遂にネープル帝国に到着する。港は重厚感ある船が行き交っており、喧噪とコンテナを積み込む音や鉄の鎖を巻き上げる音などで耳を塞ぎたくなる程だ。
しかしながらここはエネルギーに満ち溢れた未来ある国なのだと確信する。やる気が出た私は早速首都へ向かうことにした。
港町エルヴィから首都のイスクラへ向かう。懐が心配だったが好奇心に負け、気動車と呼ばれる路上を走る長方形の箱が連なった乗り物に乗った。
港町から首都まで直通らしいが、風よりも速い速度で進んでいく!これがジッカラートにあったらどんなに便利になることだろう。
物流が活発になり人も物も金も動き、国の勢いは増すだろう。首都から遠く離れた地方とも行き来しやすくなる。ジッカラートが国交を開いてくれたら、技術者を呼んでくるのに。
数時間後、首都に着き住み込みで働ける工場を探して回る。余所の国から来たと言うと話もまともに聞いて貰えず断られること数回。
夕暮れ頃に漸く循環装置を取り扱う工場に受け入れられた。小さな工場のようではあるが循環装置というものを作っているようで、
その装置を作ると政府の助成が受けられるらしく、今後もっと需要が高まるのだそうだ。それというのも、ネープル帝国は250年程前まで科学の大進歩により公害が多発し、
首都に住む者たちは工場の機械が止まる夜しか出歩けない程に空気汚染が激しかったらしい。また、科学技術の発展により人間の人工細胞を作りだし、優生保護に力を入れていたという。
しかし優生処理された人間は精神が不安定になりやすく、出生率が極端に落ちる。原因は不明であるが優生同士が交配すると高確率で受精卵の時点で染色体に異常が発生したらしい。
更に遺伝子工学によって作りだされた人間たちは自然交配で生まれた者を軽視し始め、社会は優生人類により牛耳られることになった。
そんな心身共に生きづらさを抱えた社会に革命を起こしたのは鉄の女神と呼ばれた女性が率いる若者たちだった。
彼女らは社会を変える為に科学文明を破壊してしまったのだが、未だにどうやって彼女らが一夜にしてネープル帝国から科学を奪い去ってしまったのかは解き明かされていない。
近世最大の謎と呼ばれているくらいである。そんなロストテクノロジーに陥ったネープル帝国がここまで復興したのは人には全く危害が加えられなかったことが大きいとされている。
取り残された人々は何とか以前の技術を取り戻そうと努力し現在に至った――とマルギドという名の工場長は大まかにこの国の近世史を話した。
正直に言うと、私には遺伝子などといったことはよく分からない。とはいえ、その後、先天性の病や難病の治療目的以外での人工細胞の作製は禁止されたし、
革命後に酷い咳き込みや皮膚病などに苦しんでいた患者が劇的に少なくなったことから政府は施設基準を厳しくするようになり、環境に配慮した施設や商品に対し助成することにしたのだという。
この工場は工業廃水を何段階も濾過して綺麗にする装置を作っているらしい。私は工場長の話を聞き、ジッカラートにもあり得る未来かもしれないと思ったのだった。
便利さ、優秀さに人は弱い。目の前にひょいと現れたら誰もが手に入れたいと願うのではないだろうか。そして需要があると分かると他の者も作り始める。
その時に自分の子どもや孫の時代のことを考えて行動する者はどれくらいいるのだろう。私はジッカラートとそこに住まう者たちが永劫平穏であることを願っている。
邪神という存在が本当にいるのかは私を含め殆どの者が知らないが、そんな存在を忘れてしまえるくらい、吹き飛ばせるくらいの幸せな毎日が送れるようになって欲しいと祈らずにはいられない。
その為の技術革新は必要なことだと思っている。ネープル帝国の歴史は教訓として覚えておこうと思う。

その後は曾祖父の異国での奮闘記が暫く続く。
 
 ――AHD3394年3月20日、晴れ。約一年間世話になった循環装置工場を辞め、帰国する。
マルギドは「お前程勤勉で勤労な者はいない。ずっとここにいればいいのに。嫁さんも世話するぞ」と言ってくれたが、全てはジッカラートの為だからと固辞する。
チャイラの者だと偽っていたことを謝り真実を話した際「私にとってはお前がどこ出身かなんて関係ないことだよ。ネープル帝国には神はいないが、有能な人間は沢山いる。
お前もその一人だ。ただ、お前が大事に思うジッカラートというのは良い国なのだろう」と言ってくれたことはずっと忘れないだろう。

 AHD3394年3月22日、快晴。急転直下とはこのことである。一昨日出航した船は4時間後、突然の嵐により座礁し、船内は怒号や悲鳴が乱れ飛び人々は右往左往する。
責任感のある船員の誘導で僅かな秩序が保たれつつも、救命艇の前は気が動転した人々がひしめいている。
優先順位の下の方ではあったけれども辛うじて私も最後の救命艇へと乗り込んだが、先を行く救命艇の多くが高波に攫われ姿が見えなくなった。
私の船も雷によりレーダーも無線も使えず、操舵もままならなくなり、気がつくと私は鞄共々外に投げ出されていた。
鞄には行きの船で頂戴した衣服と工場長が極秘に持たせてくれた循環器が入っている。これだけは手放すわけにはいかぬと波で視界を遮られる中、死ぬ思いで鞄を抱きかかえたのは覚えている。
その後、私の意識は途絶えた。次に目覚めた時、私はここが死者の行き着くところかと薄ぼんやりとした頭で思った。
雲一つない真っ青な空と長細くて尖った葉を茂らせた木。規則的に打ち寄せる波の音。
死の果ては思っていたよりも楽園であった――と、再び瞼を閉じようとした時に「生きてる!長老さま、あの人、目が覚めました!」という少女の声が聞こえた。
その後、数人の足音が聞こえ、人の気配が私の周りを囲んでいく。私は未だ重たい瞼をなんとか開き、隣に屈み込んだ者を見上げた。
それは長老と呼ばれた老人のようで、起き上がろうとした私をそっと手で制した。「ここはプロメス島。ネープル帝国近隣の島です。
恐らく貴方は嵐によって海に投げ出され、運良くこの島に流れ着いたようですな。水はあまり飲んでいなかったみたいですが、消耗が激しかったのでしょう、半日くらい寝ていましたよ」
そう言って長老は周りの者に飲み物を持ってこさせるように指示した。その頃には私も身体を起こせたのでゆっくりと起き上がり、辺りを見回す。
どうやらここは誰かの家の軒先、というよりも拓けているので庭なのだろうか。とはいえ、10メートル程歩いた先には砂浜が広がっていてどこまでが敷地なのか分からないが、
その木の下に敷物と枕を用意され、私は寝かされていたようだった。人工的に配置されていたネープル帝国の街路樹とは種類の違う木がこの島には自生しているように見えた。
家も木と土で作られた平屋建て。ネープル帝国近隣の島なのにこんなにも文化や文明が違うのだなと私はやけに冷静な頭で辺りを観察するのだった。
「具合が悪いところはない?」長老に言われて水を運んできた少女が私に貝殻の装飾のあるカップを手渡した。年の頃13,4歳と言ったところか。
ピンクベージュの優しい髪色をした少女は心配そうではあるけれどもどこかおどおどした様子でこちらを伺っている。
「貴方、あの鞄を持っていたから助かったのよ」そう言って私の足下に置かれた鞄を指差した。そこには水に濡れて色が変わってしまっているけれども変わらぬ形をしていた鞄があった。
流石、ジッカラートの首都で名の知れた職人が作った鞄である。目が飛び出る程の金額ではあったが、ここまで頑丈で機密性に優れたものだったとは。
私はゆっくりと起き上がり、首から提げていた鍵を使って鞄を開けた。鞄の中は接合部以外は濡れておらず、中に入れてあった衣類や手帳、循環装置も無事であった。
私は様子を窺う少女に「すまないが荷物を一時的に入れておく為の籠か箱を貸して貰えないか」と言うと、彼女はにっこりと微笑んですぐに家から十分な大きさの籠を持ってきてくれた。
木を編んで作られた籠は素朴でこの島の雰囲気によく合っていた。早速、籠を使わせて貰い、私は手ぬぐいで鞄の表面や金具部分をよく拭き、軒先に干させて貰うことにした。
この島はどこに干しても風通しが良さそうである。そんな私を興味深そうに少女は眺めていた。することもなくなり、すっかり元気を取り戻した私は彼女に名を聞くと「オメット」と答えた。
オメットは孤児で赤子の頃から長老一家に育てられているのだという。周りの人々は褐色の肌をしているけれど、オメットは私と同じくらいの肌の白さである。
もしかすると島の外側から引き取られてきたのかもしれないし、島の外側の人間が両親の片方なのかもしれない。とはいえ、完全に部外者の私には知る必要の無いことであろう。
何でもかんでも興味を持つのは良くない。その後、長老に自分がここにいる経緯と目的地の話をすると、ネープル帝国に戻してくれるという。
船が沈没したなら国から救済処置があるだろうし、ネープル帝国の船でしか帰国は無理だろうとのことだった。
そうして、島にはネープル帝国からの定期船が週に一度しかこないし、手こぎボート程度の船しかないとのことから、次の定期船が訪れるまであと6日間、この島で世話になることになったのである。

 ――曾祖父の過ごしたプロメス島は当時とどれくらい変わっているのだろうか。私は荷造りをしながら思いを馳せる。
情報共有システム上の画像はとても美しい景色であった。しかしながら財源の確保に観光業を種としているのであれば、観光客用に整備されている箇所もあるかもしれない。
曾祖父のいた頃の景色が完全に残っているわけではないだろう。余り期待しすぎないように自分に言い聞かせる。こういうのは期待しすぎると後で実物を見てがっかりすることになりかねない。

「恐れ入ります、プロメス島旅行プランを予約された御園(みその)様でしょうか」
 初めての国外旅行で緊張しながらネープル帝国の巨大な港へ降り立った私に声がかけられる。
曾祖父の足取りを追う形で船旅を選んだは良いが、2日程船の上だったこともあり地に足を着けると妙に身体に浮遊感がある。
無意識に頭が揺れているような感覚だ。大きい船だったので激しく揺れたり船酔いすることはなかったが、やはり若干の揺れを身体は感知していたようで、
揺れない大地に降り立ってからも私の脳は無意識に揺れに対応しようとしているらしい。そんな若干の戸惑いの中で声をかけられた私は鈍い反応しか返せなかった。
「はあ、そうです」
 成人にもなって情けない対応をしてしまったとすかさず反省したものの、出てしまった言葉は取り消せない。
「船酔いはされませんでしたか?」
「ええ、酔いはしませんでしたがずっと船の上にいたもので、今でも身体が無意識に揺れる感じがして違和感があります」
 漸く声をかけてきた相手の顔を見て返答することができた。目が合った相手は私の返事を聞き、柔らかい笑みを返す。
「酔っていなくて良かったです。身体の違和感は暫く経つと治るでしょう。
 ――申し遅れました。私はこの度御園様の案内をいたします旅行代理店マヤークの安雲美樹(あくもよしき)と申します。3日間、宜しくお願いいたします」
「宜しくお願いします」
 旅行中は一人でゆっくりと島を巡りたかったので一人用の二泊三日プランを予約した――ジッカラートからの船旅も合わせると六泊七日だが。
 旅行の間は彼がパートナーだ。安雲のお辞儀につられて自分も頭を下げる。ネープル帝国の旅行代理店の人なのに、ジッカラート人らしき人が対応してくれることにひっそりと驚いていた。
考えていたよりもずっとジッカラート人は世界に羽ばたいて活躍しているらしい。
 そんな気持ちが表情に表れていたのか、安雲は「私もジッカラート出身なんですよ」と人懐っこく笑って見せた。
彼は旅行客を日々案内して回るせいか日に焼けた健康的な肌をしていて、太陽光の下でオリーブ色に見える緩いウエーブヘアが襟足で短く揃えられている。
笑うと目尻が下がる彼は見るからに優しそう。いわゆる爽やかな好青年だ。彼は会社のロゴマークが胸元に刺繍された白いポロシャツとセンタープレスされた十分丈のベージュのパンツを纏い、
蒲色のモカシンシューズを履いていてこの地域の気候と仕事にあった装いだ。彼の言動も相まって軽やかで誠実に見える。
 一方、私は初めての国外旅行だというのに普段着ているような装いで来てしまった。暗めの紺色ワンピースに七分袖の白いパーカーと歩きやすい日頃履いているスニーカー。
もう少しリゾート風な装いにすれば良かったと周りの旅行客を見ながら思ったものだ。
 そんな普段着にトランクを引いた私と好青年は、エルヴィの港から今度はヴィノー島行きのフェリーに乗り換えた。
停泊中に安雲は既に社用車を積み込んでいたらしく、島に着いてから私は彼の社用車へと誘導される。
「事前資料にも目を通していただいているかと存じますが、確認の為にこちらでも説明させていただきます」
 フェリーの中では私の疲労を考慮したようであまり話しかけられなかったが、宿泊予定のホテルに案内される車の中で私はこの旅行における免責や規則などを簡単に説明される。
そしてスケジュールの確認や周辺地域の説明などもされた。
 運転しながら流暢に説明する安雲とバックミラー越しに時々目が合う。その度に彼は目で笑って見せた。異国に来たばかりの客を安心させようとしているのだろう。
 プロメス島にはホテルはなく、旅行者はプロメス島から数キロ離れたヴィノー島のホテルに泊まることになっている。
それというのもプロメス島はネープル帝国の開発禁止区域なのだそうだ。なので昔ながらの島の風景が保たれているという。しかしながら不便なことが多いので次第に住人の数は減ってきているらしい。
 今回宿泊予定のヴィノー島はブドウ栽培が盛んでワイン造りで栄えている島で、年に一度、ワイン祭りなどもあって観光客も多いことからホテルや別荘などもそれなりにあるらしい。
 私は今日、このままヴィノー島のホテルにチェックインし、旅行代理店のお勧め店で昼食を取ることになっている。
その後、小型船でプロメス島へ向かって夕方の島を軽く散策し、暗くなる前にまたヴィノー島へ戻ってホテルで夕食を取る。
「一対一ですので、基本的に御園様のお好きなように過ごしていただけます。プロメス島へは行きたい時に連れて行きますし、ヴィノー島に戻りたい時も仰っていただければいつでも戻ります。
 但し安全の為、夜間の航行はしておりませんので夕方にはヴィノー島へ戻っていただきます」
「分かりました。それにしても自由に行き来できるっていうことはヴィノー島にマヤーク社さんの船があるんですか?」
「ええ、弊社の小型船舶を置かせていただき、港も自由に使える契約を結んでいます。ですので私はここに勤めてから小型船舶の操縦士の免許を取ることになりました。
 まさか旅行会社に入って早々船や海洋の勉強をすることになるなんて思っていませんでしたよ」
「凄い、安雲さんが船を操縦してくださるんですか?」
「あはは、褒められることなんて滅多にないので照れますね。――というわけなので島間を移動したい時は遠慮せずお申し付けくださいね」
「はい」
 因みに、ネープル帝国のエルヴィからヴィノー島間は15分、ヴィノー島とプロメス島間の移動には20分程かかるらしい。
 その後、オレンジ色の屋根をしたホテルへ到着する。ネープル帝国に多い石造りで重厚な建物とは違い、この島の建物は木材や煉瓦など自然の風合いを利用したものが多く、
このホテルも辺りの景色に馴染むような木と土の温かみを感じる造りとなっていた。
 ホテルの部屋数は十部屋しかなく、ヴィノー島やプロメス島の穏やかで静かな時間を少人数でのんびりと満喫して貰いたいという意向なのだそうだ。
 安雲は夜になったらヴィノー島の民家に泊まるらしい。会社が使われなくなった民家を借り上げているとのことだ。
会社用の宿泊所があったり、小型船を持っていたりするのだから、プロメス島観光客は案外多いのかもしれない。そう思って彼に聞いてみた。
「ええ、お客様は多いですよ。ネープル帝国内の方が七割で、国外の方は三割でしょうか。ネープル帝国は管理された庭や公園はあるのですがそのままの自然はあまりないので、時々自然の息吹に触れたくなるのでしょうね。
 国内旅行者が案外多いです。日帰りの方も多いですよ。しかしそんな方は私たちのよう案内はつけずに、自分で漁師さんなんかと交渉して島に渡っていますけどね」
「なるほど、ネープル帝国では自然は珍しいものなんですね。だからプロメス島は開発禁止区域なんでしょうか」
「ええ、そういうことらしいです」
 昼食に頼んだ魚のスープとパンを待ちながら私は安雲との会話をそこそこに楽しむ。
安雲は運転や観光案内の時は傍にいるけれどもそれ以外の食事やお店を回ったりする時間は私を一人にしてくれる予定だったそうだが、私が一緒にいてくれるように頼んだ。
異国の地で一人で食事をしたり、お土産を買ったりするのは心細かったのだ。彼は感じも良いし何よりジッカラート出身ということで不思議と親近感があった。
更に私は彼にもう少し肩の力を抜いた対応をして貰いたい、と無理を言った。このままお客様扱いされ続けるのは若輩者の私にはこそばゆすぎて。
「個人的なことをお聞きしていいのか分からないのですが、御園さんはどうしてプロメス島に一人旅行を?」
「――家の掃除をしていたら偶然、曾祖父の日記を見つけて。そこにプロメス島のことが載っていたんです。とても素敵な島だったって。それでいても経ってもいられなくなって勢いのまま予約して飛び出してきました」
「そうなんですね。でも、ひいおじいさんの年代でプロメス島へ来たことがあるなんて、お金持ちか、偉い官僚だったんじゃないですか?」
「いえいえ、貧乏で工場に勤めながら勉強していたらしいです。プロメス島へはこっそり行ったそうです、身元を隠すような形で。
 でも、それも全部国の発展の為で、ネープル帝国の技術をジッカラートに持って帰りたかったって書いていました」
 運ばれてきたばかりの鶏のヨーグルトソース煮込みを食べようとしていた安雲はすっとにフォークとナイフを皿に置いた。
真正面は食べづらいと思ったのか、垂直に並ぶように席を取った斜め横の彼は真っ直ぐに私の目を見て興味深く話を聞いている。
「そしてネープル帝国の工場で一年程働いた後、帰国しようとして乗り込んだ船が嵐に巻き込まれ座礁し、その後運良くプロメス島へ流されたそうなんです。そこで島の住人たちに保護され、プロメス島で暫く過ごしたそうです」
「なんて凄い人だ!君のひいおじいさんは使命感に溢れて実行力もある方だったんですね。しかも運も良い。きっと帰国してからも国の為に多大な貢献をされたんでしょう」
「そうなんだと思います。私はその日記を読むまで全然曾祖父のこと、知らなかったですけど」
 どうぞ、と彼に食事を勧める。私の話を聞いて興奮気味だった彼は少し照れ臭そうにはにかんだ後、食事を始める。私も湯気を立てて美味しそうな白身魚のスープをすくって口に運んだ。
魚の優しい自然な塩味と、香ばしくて爽やかな香辛料で炒められたタマネギとジャガイモのスライスから出た旨味がスープに染み出していて舌だけでなく鼻でも楽しめるスープだ。
 この旅行に来て良かったと私はまだプロメス島にも行っていないのに思っていた。
旅行先に着いた解放感によるものかもしれないし、自分で決めて計画して行動したことによって自信がついて気が大きくなっているだけかもしれないけれど、普段の私はここまでスムーズに人と話せないからである。
 私は人と上手く話せないというコンプレックスがある。とはいえ、話を聞くことは好きだし得意な方だ。聞き手になる会話はそんなに苦ではない。
 けれど話しかけることは昔から特に苦手で、勤め始めてからもずっと苦しみ続けた。まず、相手の都合の良いタイミングを測ることが苦手である。
相手が仕事をしている時に話しかけて仕事の邪魔をして手を止めさせるのは途轍もなく迷惑をかけることにように思えた。
 その為、話しかける時にどのように話しかけるかを頭の中でシミュレートし、ある程度の会話内容を考えるようになってしまった。
しかし折角タイミング良く話しかけることができても、相手に想定外のことを言われると頭が混乱してその後は上手く返事ができなくなってしまう。
 そんな状態の私は遂に「いつも横で黙ってずっと立ってるけど、用があるなら早く言って」と先輩に叱られてしまった。それから尚更苦手意識が増した。
 相手の区切りの良い時を見極めようとするのだけれどなかなか良いタイミングがないもので、結局話しかけるのは諦め自分で全て仕事を済ませるようになってしまった。
他の人に任せるような内容でも、話しかけるよりも自分が少し残業して済ませる方が余程精神的に楽だからと、小さな雑務から専門業務まで様々な仕事を背負い込むようになった。日に日に仕事が増え、残業時間も増えていった。
 そんな私はやる気があるように会社側からは見えたようで、次第に重要な案件も任されるようになった。ますます気が抜けなくなった。
 そうして約二年が過ぎた頃、夜中に何故か涙が溢れて眠れなくなってしまった。眠れないと集中力が落ちて注意散漫になり、仕事で些細な入力ミスをするようになった。
更にミスを恐れるせいで睡眠時間が気になって逆に目が冴えて眠れなくなる、という悪循環が始まった。
 ただでさえミスをして会社に迷惑をかけてしまったのだから絶対に遅刻だけはしてはならないという緊張感で目覚まし時計が鳴ると一発で飛び起きたし、
寧ろ目覚まし時計のアラームが鳴る前の事前動作の僅かなカチリという音で目覚めるくらい眠りが浅かった。
身体が重く朝食も必要ないくらい胃に何かが詰まったような重さを感じる不調が続いていたが、朝起きられるならメディアなどで時折見かける鬱病の類いではない、と謎の言い訳を自分に言い聞かせていた。
ただ私は話すことが下手でそれを気にしすぎているだけなのだ。他の人に言わせれば大したことではないのだ、と。
 けれど通勤途中、気づくと道を走る車を眺めることが増えた。あの車が自分に突っ込んでくれたらいいのに。
そうしたらここから逃げられる――そんな風に思い始めた頃、仕事のことを家で話すことはなかったものの心身共にぼろぼろになっていた私の異変に流石に気づいた家族がストップをかけた。
自分を壊してまで仕事をするものではない、と。
 それで私は漸く立ち止まった。逃げ出してもいいのだ、と。
 次の日、退職願を書いて職場に出した。退職願をタイミングを測って上司に提出することも私にとっては苦痛だったが何とか渡すことができた。
上司は驚いていたけれど、別室で事情を話す内に涙が止まらなくなってしまった私を見たら納得がいったようで受理された。
 本来は退職願が受理されても一ヶ月程は働くそうだが、上司が早く辞めた方が私の為にも良いだろうということで後日適応障害と書かれた診断書を提出することで、
残り二ヶ月分の有休処理をされることとなり、結局、退職願を出してから一週間後には実質退職することができた。最終日、上司や先輩方が気づかなくてすまないと言ってくれたのが逆に申し訳なく、有り難かった。
 多忙だったが悪質な職場ではなかった。ただ私が自分の苦手分野を自覚して対策できなかった挙げ句、全部の仕事を背負い込んでしまったことが悪かったのだと、分析できる程度には今は冷静になっている。
 けれど心はずっと凍ったままのように思えた。何故そうなってしまったのか上手く言えないけれど、自分に失望してしまったからかもしれない。
どうして人に話しかけるなんて簡単なことができないの?これでこの先やっていくつもり?他の仕事についても同じことが起きるのでは?だって、私は話しかけることすらできない駄目な人間なんだもの――って。
「御園さん、スープそんなに熱かったですか?」
 どきりとした。ほんの少し思い返しただけだったのに気づいたらあの時の闇に飲まれそうになっていた。
私は無意識にずっとスプーンでスープをかき混ぜていたらしい。
「夕方までどうしますか?今日は2時間程しかありませんので島の隅々まで案内するのは難しいかもしれませんけど」
 幸い私の異変には気づいていなさそうな安雲のはきはきした声にほっとした。そうだ、旅行に来たのだから今は旅行のことだけを考えよう。
「まずは海岸を歩いてみたいです。それからもし可能なら住人の方と話してみたいです。今回、曾祖父の日記と共に保管されていた写真を持ってきたんです。もしかしたら曾祖父のことを知っている年長者の方がいるかもって」
「いいですね、住人の方に聞いてみましょう。村長さんでしたら何か知っているかもしれませんね」
 安雲は自分のことのようにわくわくした様子だ。年齢は私の四,五歳は上だと思うが威圧感や緊張感を感じさせない人だ。
案内人がこの人で良かったと思いながら私は残りのスープとパンを心持ち急いで口に運んだ。スープは冷めていても美味しかった。














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公開できるのはここまでです!(書けてないともいう)
いつか紙の本で出せますように!!

……というわけで、本日サイト開設18周年です。
今年は本当に何もできなくて、こんな書き途中の使いまわしな感じですみません。
やはり年を重ねると恋愛から遠くなってしまうのとジェネレーションギャップというか、最近の流れみたいなのが分からず
今まで自分の好きなことばかり書いていたけれど尚更「こんな古臭い恋愛もの需要なくない?」と思えてしまうのでした。
でも、書き途中のものもいつかちゃんと表に出すので!忘れた頃にまた遊びにいらしてくださったらと存じます。

さて、この話は、旧Twitterでフォロワーさんにタイトルを決めてもらうというような企画で、いつもお世話になっている方につけていただいたものです。
このタイトルから簡単なあらすじやプロローグを考えたら、こんな話になりました。
これを紙の本にしたいと思えて頑張れているのも全てじゃらし様というフォロワーさんのおかげです。
本当にありがとうございました。
何とか完結させていつか献本したい!というのが私の夢です。

この話は穏やかで静かな心の動きとほんのりとしたリグレス世界の歴史補完というかmissingバッドエンド後の話を書きたくて作ってます。
いや、ベストエンド後も似たような歴史の流れなんですけど、ネープル帝国でのレジスタンス活動が多分レディネスが間に入ることで過激なものでなくなると思う。
感情の変化が乏しくなってしまった主人公が少しずつ心の動きを取り戻して前を向いて歩いていく、その時まで頑張って書き続けます!

皆様、本当にいつも応援をありがとうございます!
どうぞ今後ともよろしくお願いいたします!!


吉永裕 (2023.11.3)