ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。
――君を一番必要としている者のところに行くんだ。
レディネスが言っていたことを思い出す。
……そうだ、私は……キャスカに会う為にここに来た。
静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から波紋のようにある景色が広がっていく。
全く見たことのない風景。
殺風景とまではいかないが、華美な装飾品などは一切ない部屋。
ただ目の前には両手で抱えられないような大きな赤い石が置かれている。
『――ミーシャ』
ふと赤い石から少年の声がした。
驚いて石を見つめると、石の中に黒い髪で赤い瞳をした少年が映っている。
『いいか、お前が生まれ変わってもオレが必ず見つけ出す。
お前を捜して、お前が本当に生まれ変わって良かったか確かめるからな』
――キャスカだ。
石越しに目が合ってピンと来た。
彼は幼いけれど、レディネスに間違いない。
今に比べると随分と容姿は変わったが、それでも強い眼差しは今も昔もそのままだ。
そうなると、今、目の前で起こっていることは恐らく過去の出来事なのだろう。
こちらの世界に来る前、レディネスが言っていたではないか。
今、こっちの世界は異次元のようになっていてね。
一歩、家の外に出ただけなのに全然違う土地へ行ってしまったり、
それどころか違う時代に繋がることもあって、とても危険なんだ。
――と。
自分は現在のレディネスではなく、過去のレディネスの所へ来てしまったのだろうと直感から確信に変わる。
こんな石越しに彼を見ることしかできないけれど……。
『おい、聞こえてるのか?』
涙をこらえた様子のレディネスは強い調子で問いかける。
ああ、きっとこれは彼がミーシャと別れる場面なのだと感じ取れた。
どういう理由かは分からないけれど、自分はミーシャの中からこの状況を見ているらしい。
『――お前を、きっと見つけ出す。
何百年かかっても、ずっとお前が転生するのを待ってるから』
彼に伝わるかどうかは分からなかったが、頷いてみた。
すると彼は穏やかに笑う。
――キャスカはこんなにもミーシャさんのことを想っていたなんて――
胸がチクリと痛む。
気が付いたらこのような状況になっていたものの、彼の過去を勝手に覗いてしまったことに対する罪悪感や、
表現しがたい胸の疼くような痛みを私は感じていた。
ずっと彼はミーシャを想っている。
前に守護石の話をしてくれた時、女神の転生が確認されたと言っていたから、恐らく彼が捜し出したのだろう。
それでも今は私の頭の機械を取り除いてくれる為に、一緒にいてくれている。
転生したミーシャの傍にはいなくてもいいのだろうか……。
――何だろう、この痛み。
これまで感じてきた頭痛とはまた別の痛みを抱える胸。
不安で、怖くて、もやもやして苛々して……自分の身体で起こっている筈なのに自分では理解不能なこの感情は一体何だろう。
「――こんなところにいたの、介入者のお姉ちゃん」
瞬間、心がざわつく。
自分しかいない筈の空間で確実に空耳ではない程のはっきりした声が聞こえたのだ。
「お姉ちゃん、こっちに来てよ」
確かに誰かが呼んでいる。
小学生くらいの女の子のような可愛らしい声。
恐る恐る声のする方に歩を進める。
「――やっと会えたね、介入者のお姉ちゃん――」
突如、真後ろから聞こえた声に驚き振り向いた。
するとそれまでただの部屋だった辺りの景色がガラリと変わっている。
自分の足元に広がるのは花畑。
遠くは霧でぼんやりと白んでいるが、花畑はずっと地平線の先まで繋がっていそうだった。
状況がまったく掴めずにグルグルと回って辺りを見回すが、どうにも見たことのない景色だ。
「お姉ちゃん、誰の過去を見てきたの?」
霧の中から現れたのは白いワンピースを着た少女。
「……何だかんだ言っていつも傍にいてくれる人よ。
何があってもぶれない強さを持つ彼の根源を見てきたわ……。
――それよりも、貴女は…誰?」
状況をつかめずに混乱しているものの、得体のしれない少女にゆっくりと問いかける。
彼女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でた。
「――私はリグレス」
顔を上げずに少女は口を開く。
「リグレスね。
貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?
何故、私を知っているの?」
少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。
「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸って……カッシート遺跡の壁画にあったあの大陸?」
「ふーん、そうなの? でも、よく知ってたね。
はじまりの大陸は、普段は誰にも見えなくておとぎ話くらいしか出てこない大陸なのに」
「そんなおとぎ話の大陸にどうして私を呼んだの?」
「私がお姉ちゃんを呼んだのは……会ってみたかったから。
この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんにね」
少女は静かに瞳を閉じる。
「リグレス、貴女は一体何者なの……?」
そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。
「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私がこの世界にいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
でも、不運にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」
――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。
「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
そして次々と世界を変えていく……」
少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。
「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
こんなのって不公平過ぎる……っ」
両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。
「……それに、この世界は良からぬ方向に変わっていってるの。
介入者の数だけ、未来は分岐していってる。
それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているわ。
このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」
そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。
「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
私、迷子になっちゃう……」
「リグレス……」
彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
死というものは誰もが一度しか経験しないこと。
そしてその瞬間は誰にも必ず訪れるもの。
先の見えない恐怖と、終わりが近づく恐怖は言葉にしがたい恐ろしさがあるだろう。
――それでも……皆、生きていくしかないのだ。
「永遠の命と終わりのある命、どちらがいいと思うかは千差万別かもしれない。
でも、永遠ということは大まかにみると大きな変化がないということよ。
この世界の生きとし生けるもの全てが永遠の時間を持っていたら、
この世界は小さな箱庭の中の規則正しく置かれたブロックの重なりでしかないわ。
そんな無機質な世界を一体誰が望むかしら?
もしも本当にリグレスの言葉通り、人々の願いや祈りでこの世界が作られたとしたのなら、
きっと幸せな世界になるように、そしてそんな世界に生まれ変われるようにと祈ることでしょう。
でもね、1人1人の考える“幸せ”は一つではないわ。
ある一定の枠にはめ込むことはできないのよ。
そんな人々の祈りをこの世界では可能性と言うんじゃないかしら。
その可能性によってこの世界に生まれた者たちは変化していく。
それがまた新たな世界を作っていくの。
この世界で生きる者たちが作っていく世界、それが真の幸せな世界だと私は思うわ」
「……確かにそう。
お姉ちゃんの言うことは何となく分かる気がする。
でもね、それでもお姉ちゃんは力を持ち過ぎよ。
身体はこちらの世界のものだけど、精神や魂は外から介入されたものじゃない」
「……うん、そうね。
でもこうやって貴女と話していたら、私、何となく分かった気がするの。
そもそも自分が何故この世界にやってきたかが……」
自分は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。
「――リグレス、私の言うことは全部推測でしかないんだけど聞いてもらえる?」
そう前置きして、彼女に向かって話し始める。
「私は誰かに呼ばれてこの世界に来た気がする。
はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
……きっとその入り口は、この世界をもっと良くしたいと願った人が作ったんだと思うの。
もしかしたらリグレスのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で形と成ったんだわ。
だから私は今、この世界にいるのよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」
そう言って自分の胸に手を当てる。
「ここよ、人の心の中にあるのよ。
この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”よ。
だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」
いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。
「――お姉ちゃんは…世界を愛してる?」
「ええ、愛してるわ」
「そっか。
……ありがとう、お姉ちゃん。
私、生まれるとしたらお姉ちゃんの世界がいいな」
リグレスはそう言うと穏やかに笑った。
――不思議な夢を見ていた気がする。
心の奥に語りかけてくるような……。
ゆっくり起き上がると近くに誰かの気配を感じた。
「……起きて大丈夫?」
窓辺に椅子を移動させ外の様子を眺めていたらしいレディネスは立ち上がるとこちらに近づいてくる。
「うん……」
「食事、持って来ようか?
顔色悪いよ」
「……ありがとう。でも、今はいいよ」
「じゃあ、とりあえず水でも飲んだら」
「うん…」
彼が手渡してくれたコップがとても重く感じた。
コップが重いというよりも、手に思うように力が入らないという方が正しいのかもしれない。
「そんな持ち方じゃ零すよ」
「うん……ごめん」
いつになく世話を焼くレディネス。
背中を支え、コップを持っている私の手に自分の手を添えて水を飲ませてくれた。
「…キャスカ……」
「何?」
「ありがとう。
水、美味しかった」
「はぁ? いつもの水だけど……変なの」
キョトンとするレディネスが何だか愛しく思えた。
世界全てが誰かの想いによって生かされているのだと身を持って知ってしまった今、何もかもが愛しく思えてくる。
この優しさに溢れた世界をリグレスは何と呼んでいたのだろう。
……リグレスがこの世界の核と言うならば――
――Regres――
そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。
〜エピローグ〜
「……ずっと傍にいてくれたの?」
「まぁね」
「そう……ありがとう」
そう言うと、レディネスは少し深刻な表情を浮かべる。
「もしかして具合悪い?」
「ううん、悪くないよ。ただ……」
――過去と今と未来、全ての貴方に会えて嬉しいと思っただけ。
目が覚めて最初に会えたのが貴方で良かったと思っただけ――
きっとリグレスが笑顔を取り戻した時点で、未来の彼が心配した病気はこの世界から消え去っただろう。
あの彼はこれからの私たちを知っている。
今のレディネスと、私の行く末を――
「ただ…何なの?」
「大したことじゃないの。
ただ、キャスカに会えて嬉しかっただけ」
「……はぁ?
――ホント、これだから無自覚な奴は。
そんなことさらりと言うなんて逆に性質が悪いったら」
ブツブツと呟いたレディネスが少しの間、じっとこちらを見つめていたのでニコッと笑い返した。
すると彼は「ふぅ」とため息をついた後、私からコップを取り上げてぎゅうっと抱きしめる。
「……そういうこと言うの、オレの前だけにしときなよ」
「うん、そうする……」
目を瞑って彼に身を預ける。
胸の痛みは治まっていた。
――介入を終了する――