ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。
――君を一番必要としている者のところに行くんだ。
レディネスが言っていたことを思い出す。
……そうだ、私はカイトさんに会う為にここに来たんだ。
静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から波紋のようにある景色が広がっていく。
いつも見ているサンティアカの自室の風景。
しかし、“今”が“いつ”なのかが分からない。
ここ最近の記憶や時間の感覚が一切なかった。
ただ思い出せるのはレラの村に向かうまでの記憶だけ。
もしかするとレディネスが言っていた病気の影響で、小説として残っている時点までのデータ、即ち記憶しか思い出せないのかもしれない。
ふと、他の者はどうなのだろうと思い立ち、慌ててカイトのところへ向かう。
「おう、。どうした?」
部屋のドアをノックすると、心配する必要がないくらいに明るいカイトが出てきた。
そんな彼の姿にホッとする。
「いえ、特に用はないんですけど……少しお話でもと思って」
「ああ、いいぜ。入れよ。
――あ、でもちょっと待ってもらっていいか?
今、銃の手入れしてたから」
「はい。待ってますので、気にせずごゆっくりどうぞ」
そう言って彼の部屋に入り、椅子がわりのベッドに腰掛ける。
カイトは床に胡坐をかいて座ると、広げていた銃の部品の手入れを続けた。
「カイトさんって銃は時々しか使わないけど、いつもお手入れされてますよね」
「ああ、まあな。
――でも、これからは使っていこうかと思って」
「え……?」
何だか一瞬、解せぬ気がした。
目の前のカイトがあまりにも明るく、鼻歌を歌いながら銃と向き合っているだけでなく、今後は銃を積極的に使おうと言い出したからである。
カイトにとって銃は因縁の代物の筈だ。
この小さな銃が家族を失ってしまうきっかけとなり、彼の心に大きく傷をつけた。
そんな銃を彼は余程のことがない限りは使おうとしない。
どうにもトンファだと倒せないような強敵や遠距離の魔物と対峙した時、最後の最後で漸く銃を使うような人間である。
なのに今はどうだろう。
無邪気な少年のように銃を磨いているではないか。
――もしかしてカイトは家族のことを忘れてしまったのではないか――
嫌な予感がした。
大切な者の記憶が失われる病気ならあり得ない話ではない。
殊にカイトのように家族の死を自分のせいだと思い込もうとしている者なら尚更だ。
何とかしなければと思うと同時に、しかし――と別の考えが浮かぶ。
全てを忘れてしまえば、彼は苦しみから解放される。
曇って悲しげに揺れる目をさせなくて済む。
自分のこともいずれ忘れられてしまうとしても、何もかも忘れた方が彼が幸せになれるなら――
そう思い、彼から目を反らすと、彼がいつも身に着けていたロケットペンダントが床に落ちていた。
あれは彼にとって大切な家族との絆を示すものだったのに――
「――駄目です」
反射的に言葉が出た。
「やっぱり忘れちゃ駄目です、カイトさん。
貴方を苦しめるだけだとは分かっているけど、でも……っ
ご家族のことを忘れてしまったら貴方の魂は永遠に救われない気がする」
「……?」
カイトのところへ歩み寄り、彼の肩を掴んで強く揺さぶる。
「ご家族のこと……、お父さんやお母さん、妹さんのこと、ホントに忘れてしまったんですか!?
貴方は皆さんの死の十字架を抱えて生きていくと仰ってたんですよ!?」
「――っ…う……ぅあ…」
記憶の欠片が次々に蘇ってくるのか、次第にカイトの顔が強張って来た。
彼の精神を自分が殺しかねないと思いながらも、呼びかけ続ける。
「――私のことは、忘れてもいい。
私はまだ生きているから……これからまた知っていくことができる。
でも、貴方の家族はもういないんです。
二度と記憶は作られません。
……カイトさん、ご家族が亡くなったことを忘れては駄目です」
「…う……あ……っ…」
カイトは涙を流して頭を抱える。
そんな彼を抱きしめることもできずに茫然を見つめた。
今の自分がどうして彼を抱きしめることができようか。
彼をこんなにも追い詰めてしまったのに。
「………俺は……」
顔を上げた彼は時折見せる悲しみを奥に秘めた瞳に戻っていた。
「――介入者はその未来を選ぶ……か」
瞬間、心がざわつく。
カイトと自分しかいない筈の空間で確実に空耳ではない程のはっきりした誰かの声が聞こえたのだ。
しかし、目の前のカイトは全くその声に反応を示さない。
もしかすると自分にしか聞こえていないのだろうか――
「お姉ちゃん、こっちに来てよ」
確かに誰かが呼んでいる。
小学生くらいの女の子のような可愛らしい声。
恐る恐る声のする方に歩を進める。
「――やっと会えたね、介入者のお姉ちゃん――」
突如、真後ろから聞こえた声に驚き振り向いた。
するとそれまでただの部屋だった辺りの景色がガラリと変わっている。
自分の足元に広がるのは花畑。
遠くは霧でぼんやりと白んでいるが、花畑はずっと地平線の先まで繋がっていそうだった。
状況がまったく掴めずにグルグルと回って辺りを見回すが、どうにも見たことのない景色だ。
すぐ傍にいたカイトの姿もなくなっている。
「お姉ちゃん、どうしてお兄ちゃんをあのままにしておいてあげなかったの?」
霧の中から現れたのは白いワンピースを着た少女。
「とても酷なことをしたのは分かっているわよ。
でも、あのままだと結局、彼の魂そのものは救えない気がしたの。
私が知っている彼は何もかも忘れることを望んでいなかった。
そして私はそんな彼に悲しみを乗り越えて、自身を許し、幸せになってもらいたいと思っていたのよ。
だから忘れさせるわけにはいかなかった。
私が知ってる彼は、全てを忘れてしまう自身をきっと許さない。それはとても不幸なことよ。
――貴女は忘れてしまう方がいいと思った?
私は貴女が誰だか分からないけれど、貴女は何もかも知っているような気がする。
……今回のことを引き起こした張本人のような雰囲気だもの」
最初は状況をつかめずに混乱していたものの、カイトのことを聞かれて妙に冷静になれた。
得体のしれない少女にゆっくりと問いかける。
彼女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でた。
「――私はリグレス」
顔を上げずに少女は口を開く。
「リグレスね。
貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?
何故、私やカイトさんを知っているの?」
少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。
「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸って……カッシート遺跡の壁画にあったあの大陸?」
「ふーん、そうなの? でも、よく知ってたね。
はじまりの大陸は、普段は誰にも見えなくておとぎ話くらいしか出てこない大陸なのに」
「そんなおとぎ話の大陸にどうして私を呼んだの?」
「私がお姉ちゃんを呼んだのは……会ってみたかったから。
この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんにね」
少女は静かに瞳を閉じる。
「リグレス、貴女は一体何者なの……?」
そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。
「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私がこの世界にいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
でも、不運にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」
――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。
「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
そして次々と世界を変えていく……」
少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。
「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
こんなのって不公平過ぎる……っ」
両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。
「……それに、この世界は良からぬ方向に変わっていってるの。
介入者の数だけ、未来は分岐していってる。
それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているわ。
お姉ちゃんがさっきいたのは、その世界の一つよ。
このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」
そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。
「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
私、迷子になっちゃう……」
「リグレス……」
彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
死というものは誰もが一度しか経験しないこと。
そしてその瞬間は誰にも必ず訪れるもの。
先の見えない恐怖と、終わりが近づく恐怖は言葉にしがたい恐ろしさがあるだろう。
――それでも……皆、生きていくしかないのだ。
「永遠の命と終わりのある命、どちらがいいと思うかは千差万別かもしれない。
でも、永遠ということは大まかにみると大きな変化がないということよ。
この世界の生きとし生けるもの全てが永遠の時間を持っていたら、
この世界は小さな箱庭の中の規則正しく置かれたブロックの重なりでしかないわ。
そんな無機質な世界を一体誰が望むかしら?
もしも本当にリグレスの言葉通り、人々の願いや祈りでこの世界が作られたとしたのなら、
きっと幸せな世界になるように、そしてそんな世界に生まれ変われるようにと祈ることでしょう。
でもね、1人1人の考える“幸せ”は一つではないわ。
ある一定の枠にはめ込むことはできないのよ。
そんな人々の祈りをこの世界では可能性と言うんじゃないかしら。
その可能性によってこの世界に生まれた者たちは変化していく。
それがまた新たな世界を作っていくの。
この世界で生きる者たちが作っていく世界、それが真の幸せな世界だと私は思うわ」
「……確かにそう。
お姉ちゃんの言うことは何となく分かる気がする。
でもね、それでもお姉ちゃんは力を持ち過ぎよ。
身体はこちらの世界のものだけど、精神や魂は外から介入されたものじゃない」
「……うん、そうね。
でもこうやって貴女と話していたら、私、何となく分かった気がするの。
そもそも自分が何故この世界にやってきたかが……」
自分は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。
「――リグレス、私の言うことは全部推測でしかないんだけど聞いてもらえる?」
そう前置きして、彼女に向かって話し始める。
「私は誰かに呼ばれてこの世界に来た気がする。
はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
……きっとその入り口は、この世界をもっと良くしたいと願った人が作ったんだと思うの。
もしかしたらリグレスのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で形と成ったんだわ。
だから私は今、この世界にいるのよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」
そう言って自分の胸に手を当てる。
「ここよ、人の心の中にあるのよ。
この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”よ。
だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」
いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。
「――お姉ちゃんは…世界を愛してる?」
「ええ、愛してるわ」
「そっか。
……ありがとう、お姉ちゃん。
私、生まれるとしたらお姉ちゃんの世界がいいな」
リグレスはそう言うと穏やかに笑った。
――不思議な夢を見ていた気がする。
心の奥に語りかけてくるような……。
「――…大丈夫か?」
好きな人の声にハッとして目を大きく開いた。
「…カイトさん……」
ベッドに腰掛けているカイトは心配そうにこちらを覗き込んでいた。
寝ていた身体をゆっくりと起こす。
「魘されてたってわけじゃないけど……悲しそうな顔して寝てたから。
起こして悪かったな」
「いえ……大丈夫です。
最後はとってもいい夢でしたから」
「そうか」
そう言うと彼はホッとした様子で微笑んだ。
瞬間、彼の胸元でペンダントが揺れる。
――これでいい。
彼の心の傷は簡単には癒えないものだとは分かっている。
しかし彼は苦しみ続ける必要はないし、幸せになっていいと思う。
私は彼を幸せにする為に生きよう――そう決めたのだから。
これまで以上にカイトが愛しく思えた。
カイトだけでなく、世界全てが愛しい我が子のように思えてくる。
優しさに溢れたこの世界をリグレスは何と呼んでいたのだろう。
……リグレスがこの世界の核と言うならば――
――Regres――
そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。
〜エピローグ〜
「……でも、どんな夢、見てたんだ?」
「え?
えーっと…そうですね……場面は色々転換したんですけど、カイトさんが出てきましたよ」
そう言うと、カイトは少し頬を赤らめて驚いた様子を見せた。
「カイトさんを叱咤激励する夢でした」
笑顔でそう言うと、彼はゲホッとむせる。
「……夢の中でも強いんだな、」
「そうですね、カイトさんに対しては最強かもしれないです」
「うっ……俺、そんなに頼りないか?」
「いえ、そういうわけじゃないですよ。
寧ろ頼ってますから、私」
そっと目を閉じる。
「カイトさんがいるから、私、生きていられるんだと思います」
「……やっぱり、は強いな」
「精神が図太いんですよ」
彼が存在する世界に生まれてきた自分はとても幸せだと思った。
――介入を終了する――