ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。

――君を一番必要としている者のところに行くんだ。

レディネスが言っていたことを思い出す。

……そうだ、私はアステムさんに会う為にここに来たんだ。

静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から波紋のようにある景色が広がっていく。


 見知らぬ森の風景。
木漏れ日で全体的に明るく見える。

「アステムー」

どこか分からない場所の中で、唯一、よく知った名前が聞こえ、思わずそちらを振り向いた。
そちらには金色のショートボブでエメラルドグリーンの瞳をしたエルフの少女が上に向かって手を振っている。

「キノコ採りに行こうよ」
「ちょっと待って」

誰かに話しかけたかと思うと、上から少年の声がした。
思わず見上げると、木の上に作られた家の窓から少年が顔を出している。
そしてすぐに家の入り口から真っ直ぐ下に延ばされた棒のようなものを伝ってスッと降りてきた少年の顔を見て愕然とした。

暗い藍色の髪、ビリジアンの瞳――アステムだ。

声も顔立ちもまだ幼いが、微かに今の彼の面影を残している。
そんな彼を見てピンと来た。
恐らく、今、目の前で起こっていることは過去の出来事なのだろう。
こちらの世界に来る前、レディネスが言っていたではないか。

今、こっちの世界は異次元のようになっていてね。
一歩、家の外に出ただけなのに全然違う土地へ行ってしまったり、
それどころか違う時代に繋がることもあって、とても危険なんだ。

――と。
自分は現在のアステムではなく、過去のアステムの所へ来てしまったのだろうと直感から確信に変わる。
彼らは全くこちらの気配には気付かないのにも合点がいく。
その当時この世界に存在しなかった自分は、時空を超えてやって来たとしてもその時の彼らとは関われない存在なのだ。

「シエル、ちょっと待ってよ」
「早くしないと暗くなっちゃうよ」

――あれが、シエルさん…。

これまで名前だけしか聞いたことがないが、あんな可愛らしい子だったのかと思った。
アステムよりも少し年上のようである。
彼も彼女にとても懐いている様子だ。
これから彼は彼女を失って、人や魔硝石を憎む悲しい運命に呑みこまれていく――そう思うと、
彼らをここから連れ出してしまいたい気持ちに駆られるが、自分はこの時間に生きる人間ではないのだから、そんなことは許されないし
彼らの過去という事実を捻じ曲げる程の恐ろしい介入はできなかった。
楽しげに森の奥へ駆けて行く二人の背中を見送る。

「――こんなところにいたの、介入者のお姉ちゃん」

瞬間、心がざわつく。
自分しかいない筈の空間で確実に空耳ではない程のはっきりした声が聞こえたのだ。

「お姉ちゃん、こっちに来てよ」

確かに誰かが呼んでいる。
小学生くらいの女の子のような可愛らしい声。
恐る恐る声のする方に歩を進める。

「――やっと会えたね、介入者のお姉ちゃん――」

突如、真後ろから聞こえた声に驚き振り向いた。
するとそれまで森だった辺りの景色がガラリと変わっている。
自分の足元に広がるのは花畑。
遠くは霧でぼんやりと白んでいるが、花畑はずっと地平線の先まで繋がっていそうだった。
状況がまったく掴めずにグルグルと回って辺りを見回すが、どうにも見たことのない景色だ。

「お姉ちゃん、誰の過去を見てきたの?」

霧の中から現れたのは白いワンピースを着た少女。

「愛している人の過去よ。
 悲しみに囚われる前の彼だった……」

ポツリと呟いた後、すっと顔を上げて少女を見据えた。

「――それで、貴女は…誰?」

状況をつかめずに混乱しているものの、得体のしれない少女にゆっくりと問いかける。
彼女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でた。

「――私はリグレス」

顔を上げずに少女は口を開く。

「リグレスね。
 貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?
 何故、私を知っているの?」

少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。

「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸って……カッシート遺跡の壁画にあったあの大陸?」
「ふーん、そうなの? でも、よく知ってたね。
 はじまりの大陸は、普段は誰にも見えなくておとぎ話くらいしか出てこない大陸なのに」
「そんなおとぎ話の大陸にどうして私を呼んだの?」
「私がお姉ちゃんを呼んだのは……会ってみたかったから。
 この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんにね」

少女は静かに瞳を閉じる。

「リグレス、貴女は一体何者なの……?」

そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。

「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
 私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
 私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私がこの世界にいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
 最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
 でも、不運にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
 いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
 そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」

――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。

「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
 私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
 なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
 そして次々と世界を変えていく……」

少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。

「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
 どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
 私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
 ――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
 こんなのって不公平過ぎる……っ」

両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。

「……それに、この世界は良からぬ方向に変わっていってるの。
 介入者の数だけ、未来は分岐していってる。
 それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているわ。
 このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」

そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。

「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
 こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
 私、迷子になっちゃう……」
「リグレス……」

彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
死というものは誰もが一度しか経験しないこと。
そしてその瞬間は誰にも必ず訪れるもの。
先の見えない恐怖と、終わりが近づく恐怖は言葉にしがたい恐ろしさがあるだろう。

――それでも……皆、生きていくしかないのだ。

「永遠の命と終わりのある命、どちらがいいと思うかは千差万別かもしれない。
 でも、永遠ということは大まかにみると大きな変化がないということよ。
 この世界の生きとし生けるもの全てが永遠の時間を持っていたら、
 この世界は小さな箱庭の中の規則正しく置かれたブロックの重なりでしかないわ。
 そんな無機質な世界を一体誰が望むかしら?
 もしも本当にリグレスの言葉通り、人々の願いや祈りでこの世界が作られたとしたのなら、
 きっと幸せな世界になるように、そしてそんな世界に生まれ変われるようにと祈ることでしょう。
 でもね、1人1人の考える“幸せ”は一つではないわ。
 ある一定の枠にはめ込むことはできないのよ。
 そんな人々の祈りをこの世界では可能性と言うんじゃないかしら。
 その可能性によってこの世界に生まれた者たちは変化していく。
 それがまた新たな世界を作っていくの。
 この世界で生きる者たちが作っていく世界、それが真の幸せな世界だと私は思うわ」
「……確かにそう。
 お姉ちゃんの言うことは何となく分かる気がする。
 でもね、それでもお姉ちゃんは力を持ち過ぎよ。
 身体はこちらの世界のものだけど、精神や魂は外から介入されたものじゃない」
「……うん、そうね。
 でもこうやって貴女と話していたら、私、何となく分かった気がするの。
 そもそも自分が何故この世界にやってきたかが……」

自分は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。

「――リグレス、私の言うことは全部推測でしかないんだけど聞いてもらえる?」

そう前置きして、彼女に向かって話し始める。

「私は誰かに呼ばれてこの世界に来た気がする。
 はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
 ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
 ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
 ……きっとその入り口は、この世界をもっと良くしたいと願った人が作ったんだと思うの。
 もしかしたらリグレスのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
 でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で形と成ったんだわ。
 だから私は今、この世界にいるのよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
 いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」 
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」

そう言って自分の胸に手を当てる。

「ここよ、人の心の中にあるのよ。
 この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
 そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
 でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”よ。
 だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
 でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
 貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」

いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。

「――お姉ちゃんは…世界を愛してる?」
「ええ、愛してるわ」
「そっか。
 ……ありがとう、お姉ちゃん。
 私、生まれるとしたらお姉ちゃんの世界がいいな」

リグレスはそう言うと穏やかに笑った。






 ――不思議な夢を見ていた気がする。
心の奥に語りかけてくるような……。

ゆっくり目を開けると近くに誰かの気配を感じた。

「……起きたか」

傍の椅子に腰掛けてこちらの様子を伺っていたらしいアステムは心配そうな表情で私の頭を撫でる。

「どこか悪いところはないか?」
「いえ、大丈夫です。
 よく眠ったみたいですし」
「そうか、それなら良かった」

彼は少しホッとした表情を浮かべた。

「もしかしてずっと傍についててくれたんですか?」
「……ああ。
 お前が苦しそうな顔で寝ていたのでな」
「あ……すみません。
 でも…ありがとうございます」

そう言うと、アステムは穏やかに微笑んで再び私の頭を撫でた。
彼の手の感触が嬉しくて有り難くて涙が出そうだ。

「もう少し休むといい。
 食事ができたら起こしてやる」
「はい」

彼の言葉に甘えて、ゆっくりと瞼を閉じる。
彼の足音が遠ざかり、部屋のドアを閉めた音の後、辺りは急に静かになり、鳥たちのさえずりしか聞こえない。
あの鳥たちも、木々を揺らす風も、あの青い空も――全て人々の想いと願い、そして死した者の新たな魂の輝きによって作られた存在なのだ。
世界全てが誰かの想いによって生かされているのだと身を持って知ってしまった今、何もかもが愛しく思えてくる。
優しさに溢れたこの世界をリグレスは何と呼んでいたのだろう。

……リグレスがこの世界の核と言うならば――


――Regres――


そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。











  〜エピローグ〜


 「……」
「起こして悪いな」
「いえいえ。――わぁ、いい匂い」

ゆっくり起き上がった先には深い皿と水をトレイに載せたアステムが。

「アステムさんが作ってくださったんですか?」
「ああ。ただの粥だがな。
 疲労回復の薬草が入っているから、少し苦いかもしれない」
「ありがとうございます。
 ――じゃあ、いただきます」

そう言ってスプーンを持とうとしたが、うまく手に力が入らずそのままポトリと布団の上に落とした。

「あれ…寝違えたかな」
「……俺が食べさせよう」
「え、でも……」

彼は何も言わずにスプーンを手に取ると、皿の粥を少しすくってこちらに向ける。
口の前に持ってこられたスプーンを見て反射的に口が開いた。

「……美味しい…です」

何だか途轍もなく恥ずかしいような嬉しいような気持ちで正直味がよく分からない。
それでも、彼は優しく笑うのでこちらも笑った。

「まだ食べれるだろう?」
「はい」

そうして再び彼が私の口にスプーンを運ぶ。
そんな雛鳥のような私の様子を見て面白いのか、彼はずっと微笑んでいる。
理由はどうであれ、これからもっと彼に笑ってもらいたいと思った。




















――介入を終了する――