ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。

――君を一番必要としている者のところに行くんだ。

レディネスが言っていたことを思い出す。

……そうだ、私は真織に会う為にここに来たんだ。

静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から波紋のようにある景色が広がっていく。



 「ただいま」
「お帰りなさい」

私は臨邪期後2年間国主として働き、真織と結婚してからは葉月に国主を引き継いでもらって今では専業主婦をしている。
それまで一族の長の補助的な仕事と村の自治を任されていた葉月の仕事を今は真織が受け持っており、
時折、実家の神社からは早く跡を継ぐが跡取りを産んで欲しいと催促の連絡が来るものの、
真織は両親と兄との間の確執が未だに解消されていない為か実家には帰りたがらず、また子どもも思うように授からず、
すっかり真織の実家とは縁遠くなっているのだった。

「お兄さんから手紙が来てたよ」
「…え……お兄さん…って僕の?」
「うん、いつもお手紙くれるじゃない」
「……そうだっけ……?」

彼の異変に気付き冷や汗が出た。
私のことはまだ忘れてはいない様子だが、いつも気にかけている兄のことを忘れてかけているようだ。

「真織、よくお兄さんのこと話してくれるじゃない。
 お兄さんがよく親に内緒でお菓子を沢山買ってきてくれたとか、
 お兄さんから借りた本にはいつも落書きがしてあったとか……」
「――あ…えっと、そう、そうだ。兄さんだ。
 僕、何とぼけたこと言ってるんだろうね。
 自分の兄さんをど忘れするなんて」
「まぁ……そういうこともあるかもね。
 疲れてるんじゃない?」
「うーん、そうなのかな」

いつもの調子に戻った彼にホッとして、腕に絡みついた。
どうやら間一髪だったらしい。
もう少し後だったら、彼は完全に兄のこと忘れていたであろうし、もしかすると私の記憶も失っていたかもしれない。
そう思うと酷く恐ろしくなる。

「じゃあ、今日はお風呂の後でマッサージしてあげるよ」
「わぁ、ホント? 楽しみにしてるね」

周りからは結婚しても恋人の時と変わらず初々しくて可愛い二人だとよく言われるが、
肩を並べて手を繋ぎ、彼と顔を見合せながら歩くと幸せな気持ちになれるので
これからも私たちのそんな関係は変わりそうにない。

そうして、彼と手を繋いだままリビングのドアを開ける。
次の瞬間、思わず真織の顔を見上げた。
ドアの向こうには辺り一面の真っ白な世界が広がっていたのだ。

「……何だろう、これ……」
「…分からない……」

後ろを振り返ってみると、これまで歩いてきた廊下と玄関もなくなって白い世界空間が広がっている。
そうした中、ハッとレディネスの言葉を思い出した。

今、こっちの世界は異次元のようになってるんだ。
一歩、家の外に出ただけなのに全然違う土地へ行ってしまったり、
それどころか違う時代に繋がることもあって、とても危険なんだ。

彼の言葉を思い返してみるとなんとなくピンとくるものがあった。
ここは――時空の狭間だ。
そう思ったと同時に、繋いでいる手に力を込める。

「――介入者……見つけた」

瞬間、心がざわつく。
自分たち夫婦しかいない筈の空間で確実に空耳ではない程のはっきりした声が聞こえたのだ。

「――お姉ちゃん、こっちに来てよ」

誰かが呼んでいる。
小学生くらいの女の子のような可愛らしい声。

「……君の知り合い?」
「ううん、全然思い当たる節はないけど……」

どうやら真織も謎の声が聞こえるらしい。

「話をしましょ、介入者のお姉ちゃん――」

ここにいてもどうしようもないので、とりあえず声の聞こえる方角へ歩いて行くことにした。
真織はしっかりと手を握ってくれている。
彼の手の温もりと感触が私を安心させた。

「――やっと会えたね、介入者のお姉ちゃん――」

突如、真後ろから聞こえた声に驚き振り向く。
するとそれまで森だった辺りの景色がガラリと変わっていた。
自分の足元に広がるのは花畑。
遠くは霧でぼんやりと白んでいるが、花畑はずっと地平線の先まで繋がっていそうだった。
状況がまったく掴めずにグルグルと回って辺りを見回すが、どうにも見たことのない景色だ。
すると白いワンピースを着た少女が立っている。

「貴女はだあれ?」

少女に優しく問いかける。
彼女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でた。

「――私はリグレス」

顔を上げずに少女は口を開く。

「リグレスちゃん……。
 貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?
 何故、私を知っているの?」

少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。

「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸って……そんな大陸、私は知らないな。
 真織は知ってる?」
「子どもの頃に祖父から聞いたことがある気がする。
 おとぎ話の中に出てくる霧に覆われた大陸……だったかな」
「うん、そうね。
 はじまりの大陸は普段は誰にも見えないから、
 その存在を知っていてもおとぎ話に出てくる幻の大陸くらいにしか思われないみたいね」
「そんな大陸にどうして私を呼んだの?」
「私がお姉ちゃんを呼んだのは……会ってみたかったから。
 この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんにね」

少女は静かに瞳を閉じる。

「リグレスちゃん、貴女は一体何者なの……?」

そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。

「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
 私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
 私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私や真織がこの世界にいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
 最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
 でも、不運にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
 いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
 そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」

――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。

「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
 私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
 なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
 そして次々と世界を変えていく……」

少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。

「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
 どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
 私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
 ――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
 こんなのって不公平過ぎる……っ」

両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。

「……それに、この世界は良からぬ方向に変わっていってるの。
 介入者の数だけ、未来は分岐していってる。
 それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているわ。
 このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」

そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。

「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
 こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
 私、迷子になっちゃう……」
「リグレスちゃん……」

彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
死というものは誰もが一度しか経験しないこと。
そしてその瞬間は誰にも必ず訪れるもの。
先の見えない恐怖と、終わりが近づく恐怖は言葉にしがたい恐ろしさがあるだろう。

――この子の心をどうやったら救えるのだろう。
このままでは彼女は第二のサルサラになって何もかもを憎んでしまう。

「――と介入者がどういう関係があるのかは僕にはよく分からないけど……
 僕が祖父にいつも聞かされてた話をしていいかな?」

一緒に彼女を見つめていた真織がゆっくり口を開いた。

「僕はこの世界には神が存在し、世界は愛で満たされているから僕らは霊力を持って生まれて来たのだと聞かされて育ったんだ。
 その他にも神の愛は色々と形を変えて、この世界で生きる者たちに注がれていると……。
 ――もし君が言うことが正しいなら、神の愛はこことは別の世界にいる誰かの想いなわけだよね?
 君が言う介入者という存在は、誰かの想いが形を変えて生まれたものじゃないのかな?」
「真織……」

そっと彼に寄り添う。

「介入者がどんな影響をもたらしたのかは分からないけど、君の話が本当なら、介入者は悪意ではなく善意の塊だと僕は思うよ。
 そんな存在が悪い方向に世界を変えるかな」
「……そう……そうね。
 お兄ちゃんの言うことは何となく分かる気がする。
 でもね、それでもお姉ちゃんは力を持ち過ぎよ。
 身体はこちらの世界のものだけど、精神や魂は外から介入されたものじゃない」
「……うん、そうかもしれない。
 でもこうやって貴女や真織の話を聞いていたら、私、何となく分かった気がするの。
 そもそも自分が何故この世界にやってきたか……」

自分は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。

「――リグレスちゃん、私の言うことは全部推測でしかないんだけど聞いてくれる?」

そう前置きして、彼女に向かって話し始める。

「私は誰かに呼ばれてこの世界に来た気がする。
 はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
 ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
 ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
 ……きっとその入り口は、この世界をもっと良くしたいと願った人が作ったんだと思うの。
 もしかしたらリグレスちゃんのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
 でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で形と成ったんだわ。
 だから私は今、この世界にいるのよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
 いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」 
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」

そう言って自分の胸に手を当てる。

「ここよ、人の心の中にあるのよ。
 この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
 そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
 でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”よ。
 だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
 でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
 貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」

いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。

「――お姉ちゃんは…今の“”になれて良かったと思う?」
「うん、そう思うよ。
 大切な人に会えたし、その人を通して自分のことも世界も好きになれたもの」
「そっか。そういう幸せの形もあるんだね。
 ……ありがとう、お姉ちゃん。
 私も、生まれ変わったら素敵な恋をしたいな」

リグレスはそう言うと穏やかに笑った。






 ――不思議な夢を見ていた気がする。
世界の全てが愛おしくなるような、温かい夢……。

『Pluuuuu...Pluuuuu...』

電話の音でハッと意識を取り戻した。
目の前にはいつもと同じリビングの風景。
今日何度目になるだろうか、隣にいる真織と顔を見合わせる。
先程の夢のような出来事はドアを開けたその一瞬の事だったのだろうか。

「……あ、電話」

慌てて電話を取ると、真織の母親からの電話だった。
彼に受話器を手渡すと、いつもは曇った表情で電話を変わるのに今日はどこか違う。

「……うん。…うん、母さんの言いたいことは分かるよ。
 うん……前向きに…考えてみる。
 ウメ様とも話し合ってみるから……」

静かに彼は頷く。

「――それから兄さんがね、結婚するんだって。
 それで、こっちの親族にも向こうの親族にも迷惑かけたくないから、蓮妙路とは完全に縁を切ってサウスランドに行くことにしたって。
 自分は死んだことにしてくれってさ。
 ……もう、十分でしょ。
 兄さんに勝手に期待して失望するのはやめてあげて」

兄からの手紙を見つめながら真織は穏やかに受話器に向かって言った。
母親の反応はよく分からなかったけれど、彼は手短に挨拶をして静かに受話器を置く。

「真織……」
「大丈夫だよ。
 自分でも驚くくらい、穏やかな気持ちなんだ」
「でも、前向きに考えるって言ってたけど……」
「うん、家を継ぐことをね、前向きに考えてみようと思って」
「いいの…?」
「うん。
 リグレスに出会って、この世界は本当に愛で満たされていると知ったから……
 自分の家業をちゃんと見直そうと思ったんだ。
 神社は神を祀る場所――即ち、人々の“想い”を大事にし、感謝する役割を持つんだと考えたら、
 とても有り難い家に生まれたなぁと思えてね。
 ……それに、僕だけでなく家族やこの世界全てが想いの力で作られてると分かったら、
 ちょっとした家族のいざこざとかどうでもよくなるくらい、世界の全部が有り難くて愛しいものに思えたんだ」
「そうだね……ホントに、そう……。
 この世界はとても有り難くて愛おしくて優しい……」

温かい風、揺れる花、空を飛ぶ鳥たち、そして私たち人間――世界の全てが人々の想いと願い、
そして死した者の新たな魂の輝きによって作られているなんて……。
この優しさに溢れた世界をリグレスは何と呼んでいたのだろう。

……リグレスがこの世界の核と言うならば――


――Regres――


そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。












  〜エピローグ〜


 「……お兄さん、サウスランドに行っちゃうって?」

電話を終えても正座の姿勢を崩さない彼の隣に私は足を投げ出して座った。
しかし、もしも今後、彼の実家に行くことがあるならこれからは気をつけなければ思い、
少しだけ足を揃えてしおらしく曲げ、お尻の下に敷いてみる。

「うん。霊力が存在しないって言われてる大陸で一からやり直すって。
 霊力の存在は兄さんにとっては擁護されてるみたいに思えるから鬱陶しいんだってさ」
「擁護か……確かに、霊力が神の愛によるものだとしたら、私たちは神に守られてるのよね。
 ……まぁ、神というか誰かの“想い”、か」
「そんな神の愛が失われたサウスランドって……一体どんな場所なんだろう。
 どうしてそんなことになったんだろうね」
「うん……」

これまで閉鎖的だったジッカラートはここ数年で漸く開放的になってきているが、
国交があるのはアークバーン大陸のアークバーン国と隣国のチャイラのみで、それ以外の外国の情報は殆ど入ってきていない。
サウスランド大陸はアークバーン大陸よりもずっと近くにあり、船で3日程で渡航できるものの、
海域に魔物や鉄の軍船のようなものが多く出没して昔から被害に遭う者が多い為に、正確な情報の入手が難しい大陸である。

「それにしても、そんな場所についていく相手の女性も凄いよね」
「ホントだね。僕だったら君をそんな所には連れて行けないけど……」
「お兄さんも凄いけど、そんな彼について行くんだから余程愛してるんだよ。
 それに強くて勇気がある人なんだわ」
「あはっ、兄さんと僕って兄弟だけあって同じような人が好きなのかな」
「え? 私、そんなイメージ?」
「うん。は強いね」
「……普通の専業主婦としましてはあんまり嬉しくないですけれど」

不貞腐れた私は膝を抱えると顎を膝の上にのせて唇を尖らせる。
そんな私の頭をよしよしと真織が撫でた。

「まぁ、は物理的にも強いけど……そういう意味じゃないんだ。
 ってさ、自分がつらい状況でも相手の立場になって考えられるでしょ?
 そして見返りがなくても相手を救いたいって思えるじゃない。
 そういう優しさっての絶対的な強みだと思うんだ」
「真織……」
「その分、傷つきやすかったりもするけどね。
 でも、今は僕がいるから……」
「うん……。
 ――真織がいるから、私はいつも笑っていられる……」

彼の方に身体を傾ける。
するとそのまま彼は私を倒して膝の上に私の頭をのせた。
膝の上から見上げた彼は、とても優しく微笑んでいる。

「僕もね、君の為なら世界で一番強くなれる気がするよ」
「真織……」
「君に会えてよかった。
 君のお陰で僕は毎日幸せなんだもの」
「……私も」


――この世界に生まれてきてくれて、ありがとう――




















――介入を終了する――