ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。
――君を一番必要としている者のところに行くんだ。
レディネスが言っていたことを思い出す。
……そうだ、私は伊吹兄に会う為にここに来たんだ。
静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から波紋のようにある景色が広がっていく。
見慣れた景色。伊吹の家の母屋の玄関だ。
伊吹と結婚した私は2年間国主として働き、その後は葉月に国主を引き継いでもらって今では専業主婦をしており、
一方、伊吹は家業である武道場の師範代として毎日弟子たちを鍛えている。
そんな私たちは結婚後、伊吹の実家の離れに住んでいるので母屋にもよく顔を出すし、
母屋に行って両親と一緒に食事を取るのが習慣になっていた。
「……ただいま」
ガラリと玄関の引き戸が開く。
そこに現れたのは民間学校の制服を着ている伊吹。
今よりも10歳程若く見える。
「伊吹兄!」
よく分からないが、彼の名前を呼んでみた。
しかし、目の前で呼んでも彼は何の反応も示さない。
更に言うとこちらの存在にすら気づいていないようだ。
「おかえりなさい、伊吹」
奥から出てきた伊吹の母親――今となっては私の義母だが――も、やはり私には気付かずに伊吹に話しかける。
一体どういうことなのだろうか。
私は夢でも見ているのだろうか、と思った時。
「――貴方宛てに葉書が来ていましたよ。
巫女様がチャイラに発つそうです」
義母がそう言うと、それまで無表情に近かった伊吹の顔は命を吹き込まれたかのように色味を帯びる。
しかし、どこか残念そうに目を伏せた。
「貴方もそろそろ真剣で修行しましょうか」
「はいっ」
そう言うと伊吹は母親から葉書を受け取り、部屋に走って行く。
そんな彼らのやり取りを聞いていて私はピンとくる。
恐らく今、目の前で起こっていることは過去の出来事なのだろう。
レディネスが言っていたではないか。
今、こっちの世界は異次元のようになっていてね。
一歩、家の外に出ただけなのに全然違う土地へ行ってしまったり、
それどころか違う時代に繋がることもあって、とても危険なんだ。
――と。
自分は現在の伊吹ではなく、過去の彼の所へ来てしまったのだろうと直感から確信に変わった。
今、私が見ているのは14歳の伊吹。
きっと、時空を超えてやって来た私は違う時間に住む人間である為、彼らとは関われない存在なのだ。
だから二人はこちらに全く気付かないのだろう。
そう思いながら、私は二階にある伊吹の部屋へ向かう。
不思議な感覚でドアをすり抜け、伊吹の隣に立った。
彼は食い入るように当時の私からの葉書を読んでいる。
そんな彼の横顔を見ながら、私は葉書に書いた内容を思い出していた。
――伊吹兄、お元気ですか? 私は元気です。
毎日、修行頑張っています。
もう昔みたいに泣いてないよ。
今、チャイラに行く準備をしています。
明後日の朝には出発する予定です。
ジッカラートに帰ってきたら、伊吹兄に会いに行くね。
伊吹兄より強くなって戻ってくるから。
「っぷ…ははっ!」
葉書を読んだ伊吹は噴出していた。
「俺より強くなるって……らしい」
彼はクスクスと笑っている。
そんなに面白いことを書いたつもりはなかったのだが、と私は思ったが
彼が大事そうに葉書を壁に貼り付けたので、もうそんなことはどうでもよくなる。
――それでもこの後、伊吹は伊絽波と付き合うようになるのだ。
影のようなものが一瞬心を覆ったが、それでも最終的に彼は私を選んでくれたのだと思い返して
鍛練をしに父親の道場へ向かう彼の背中を見送った。
「――介入者……見つけた」
瞬間、心がざわつく。
伊吹も出ていき、自分しかいない筈の空間で確実に空耳ではない程のはっきりした声が聞こえたのだ。
「――お姉ちゃん、こっちに来てよ」
誰かが呼んでいる。
小学生くらいの女の子のような可愛らしい声。
「――やっと会えたね、介入者のお姉ちゃん――」
突如、真後ろから聞こえた声に驚き振り向く。
するとそれまで室内だった景色がガラリと変わっていた。
自分の足元には一面の花畑が広がっている。
遠くは霧でぼんやりと白んでいるが、花畑はずっと地平線の先まで繋がっていそうだった。
状況がまったく掴めずにきょろきょろと辺りを見回してみるものの、どうにも見たことのない景色だ。
「お姉ちゃん、過去を見てどうだった?」
霧の中から現れたのは白いワンピースを着た少女。
「……何だか安心した。
暫く会っていなかった時期があったけど、その間も私は彼を笑顔にしてた時があったって分かったから。
この頃はまだ、彼は私を恋愛対象としては見ていなかったけど、
でも、特殊な存在であったのは分かったから、何か嬉しかったな。
――それで、そんな私を呼んだ貴女はだあれ?」
頭の中は極めて混乱していたが努めて冷静さを保ちつつ、少女に優しく問いかける。
彼女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でた。
「――私はリグレス」
顔を上げずに少女は口を開く。
「リグレスちゃん……。
貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?
何故、私を知っているの?」
少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。
「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸って……?」
「お姉ちゃん、知らないの?
……それもそうよね。
普段は誰にも見えない大陸だからおとぎ話くらいしか出てこないもの」
「そんなおとぎ話の大陸にどうして私を呼んだの?」
「私がお姉ちゃんを呼んだのは……会ってみたかったから。
この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんにね」
少女は静かに瞳を閉じる。
「リグレスちゃん、貴女は一体……?」
そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。
「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私がこの世界にいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
でも、不運にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」
――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。
「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
そして次々と世界を変えていく……」
少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。
「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
こんなのって不公平過ぎる……っ」
両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。
「……それに、この世界は良からぬ方向に変わっていってるの。
介入者の数だけ、未来は分岐していってる。
それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているわ。
このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」
そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。
「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
私、迷子になっちゃう……」
「リグレスちゃん……」
彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
死というものは誰もが一度しか経験しないこと。
そしてその瞬間は誰にも必ず訪れるもの。
先の見えない恐怖と、終わりが近づく恐怖は言葉にしがたい恐ろしさがあるだろう。
――この子の心をどうやったら救えるのだろう。
このままでは彼女は第二のサルサラになって何もかもを憎んでしまう。
「……ねぇ、リグレスちゃん。
永遠の命と終わりのある命、どちらがいいと思うかは人によって異なるとは思うけど、
でも、永遠ということは大まかにみると大きな変化がないということでしょ?
サルサラ――ううん、私の知ってる人がまさにそんな感じなんだ。
身体だけでなく魂もその時やその時の感情にずっと縛られたまま。
他人の私から見てもそれはとても不幸なことだと思う。
私はそんな悲しい世界は嫌よ。そんな世界を望む人はいるかな?
もしも本当に貴女の言葉通り、人々の願いや祈りでこの世界が作られたとしたのなら、きっと幸せな世界に生まれ変われるようにって祈ると思うよ。
私だったらそう願う」
「……確かにそう。
お姉ちゃんの言うことは何となく分かる気がする。
でもね、それでもお姉ちゃんは力を持ち過ぎよ。
身体はこちらの世界のものだけど、精神や魂は外から介入されたものじゃない」
「……うん、そうね。
でもこうやって貴女と話していたら、私、何となく分かった気がするの。
そもそも自分が何故この世界にやってきたか……」
自分は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。
「――私は誰かに呼ばれてこの世界に来た気がする。
はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
……きっとその入り口は、この世界を良くしたいと願った人が作ったんだと思うの。
もしかしたらリグレスちゃんのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で形と成ったんだわ。
だから私は今、この世界にいるのよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」
そう言って自分の胸に手を当てる。
「ここよ、人の心の中にあるのよ。
この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”よ。
だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」
いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。
「――お姉ちゃんは…今の“”になれて良かったと思う?」
「うん、そう思うよ。
大切な人に会えたし、その人を通して自分のことも世界も好きになれたもの」
「そっか。そういう幸せの形もあるんだね。
……ありがとう、お姉ちゃん。
私も、生まれ変わったら素敵な恋をしたいな」
リグレスはそう言うと穏やかに笑った。
――不思議な夢を見ていた気がする。
世界の全てが愛おしくなるような、温かい夢……。
「ただいま」
玄関から聞こえた声でハッと意識を取り戻した。
目の前にはいつもと同じ居間の風景。
自分はどうやら長椅子で眠っていたらしいと現状を把握しながら慌てて立ち上がり、玄関へ向かった。
「どうした? そんなに慌てて」
「実は居眠りしちゃってて、今起きたんだ」
「ああ、そうなのか。でも、慌てて出迎えに来てくれなくてもいいのに」
「ううん。こうやって家に帰ってきた伊吹兄をお出迎えする瞬間が好きなの」
そう言って私は彼の背中に手を回して目を閉じる。
「は俺の前ではいつまでたっても甘えん坊で子どものままだな」
「えへへ」
顔を上げた私の額に伊吹がキスを落とす。
結婚してからずっと続いており習慣化しているにもかかわらず、未だに私はキスされる瞬間が照れ臭くて笑ってしまう。
そんな私を見た彼は穏やかな笑顔で私の頭をくしゃりと撫でた。
ああ、なんて愛しい人――私は腕に力を込める。
この伊吹の魂も、誰かの祈りによってこの世界にやって来たのだ。
それだけではない。
温かい風、揺れる花、空を飛ぶ鳥たち――これら全ても人々の想いと願い、そして死した者の新たな魂の輝きによって作られた存在なのだ。
この優しさに溢れた世界をリグレスは何と呼んでいたのだろう。
……リグレスがこの世界の核と言うならば――
――Regres――
そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。
〜エピローグ〜
「……ところでさ、昔、私が伊吹兄に出した葉書のこと覚えてる? ほら…チャイラに行く前くらいに出した奴」
夕食を終え、片づけも済ませた私は母屋の縁側に座って涼んでいる伊吹の隣に座った。
「……ああ、あれか!
今、俺が住んでる方の家にあるぞ」
「え? 母屋の方じゃなくて?」
「ああ。大事なものだから身近な所にいつも置いてる」
彼のその言葉に私の胸と目頭が熱くなる。
「合宿で家を空ける時とかも持って行ってたし、
お前の家の離れに住んでた臨邪期の時も持ってたな」
「何で? たかが一枚の葉書なのに」
「たかがって……。俺にとっては特別なものなんだよ。
あの葉書を見たらさ、お前も頑張ってるんだなって思えて何か俺も元気になれるっていうか。
……俺にとってはお守りみたいなものだったのかもな」
「そう……ありがとう」
そっと彼の手に自分の手を重ねる。
伊吹は優しい目で私を見つめた。
「じゃあ、そろそろ自分ちに戻るとするか」
「うん」
そう言って二人は手を取り立ち上がる。
そうして両親に挨拶をして母屋を離れた。
手を繋いで庭を歩いているだけなのにいつも以上に幸せな気持ちになるのはきっとリグレスのお陰。
「……それにしても、あの葉書のことよく覚えてたな」
「えっあ、まぁ……自分が書いたものだしね」
「内容は覚えてるか?」
「うん、何となく」
私がそう言うと伊吹は何かを思い出したように笑った。
葉書を読んだ時の彼と同じ顔だ。
「何がおかしいの?」
「いや……お前があの葉書に書いてたことを思い出したら思わず笑いが出るんだよ」
「そんなに面白いこと書いてたっけ?」
「面白いってわけじゃないけど、内容が何かお前らし過ぎてな」
「私らし過ぎるって何?」
全く自覚のない私はキョトンとした様子で首を傾げる。
「“ジッカラートに帰ってきたら、伊吹兄に会いに行くね。伊吹兄より強くなって戻ってくるから”――だったかな。
滅茶苦茶、お前らしいと思わないか?
普通、当時のお前くらいの年頃の女の子だったら“もっと可愛くなって戻ってくる”とかマセたこと言うかなと思って、
そういう方面を期待したんだが、全くお前は色気めいたこと書かずに強さにこだわってるから、もう逆に可愛くてな」
「……だってホントに強くなることしか考えてなかったんだもん」
ぷくっと私は頬を膨らませる。
そんな私の頭を伊吹はよしよしとあやすように撫でた。
「まぁ、強くならなきゃいけない環境だったから仕方はないか。
それでもちゃんと綺麗な女の子に成長して戻って来たんだから、遺伝子が良かったんだろうな」
「うーん、遺伝子ねぇ……」
「俺のと混ざったらどんな子どもが生まれてくるんだろうな」
「え……」
私は思わず立ち止まった。
「そろそろ子ども、欲しいと思わないか?」
「……うん、いいね」
彼の腕をギュッと抱きしめる。
「髪の色はどっちの色になるのかな。それとも俺らの色を混ぜたような色かな。目の色はどうなると思う?
俺は男だったら俺に似て、女だったらに似た方がいいと思うけど、基本的に男は女親、女は男親に似るって聞くからな……。
あ、でも似の娘が他の男に取られるのは絶対に嫌だから俺に似てくれた方が……」
「伊吹兄、今からもうそんなことまで考えてるの?」
「う……だって…その…気になるだろうが」
私はクスクスと笑う。
今でも十分幸せなのに、これからもっと幸せなことがやってきそうだ。
――貴方とこの世界に、いっぱいいっぱい、ありがとう――
――介入を終了する――