ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。

――君を一番必要としている者のところに行くんだ。

レディネスが言っていたことを思い出す。

……そうだ、私は葉月に会う為にここに来たんだ。

静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から波紋のようにある景色が広がっていく。



 「ただいま」
「お帰りなさい」

チャイムが鳴ったので慌てて玄関まで走って行く。

「もう少し遅いのかと思ってた」
「うん、思ってたよりも早く仕事が片付いてね」

いつもと同じ彼の様子にホッと胸を撫で下ろす。
レディネスが言っていたような病気の症状はまだ葉月には出ていない。

「そうなの。
 今日もお疲れさまでした、国主様」
「やめてよね、元国主のくせに」
「あははっ」

私は臨邪期後2年間国主として働き、その後葉月と結婚してからは破邪の一族の後押しもあって葉月が国主となっている。
何も政を知らなかった私とは違い、葉月は国主に即位後、臨邪期で低迷していたジッカラートの政治や経済をみるみるうちに回復させ、
私が望んだ開放的な国へと変えるべくアークバーン国と国交を開始するなど、日々、多忙であり、国民や議会からの信頼が厚い立派な国主となった。

「響は?」
「ぐっすり寝てるよ」
「そう……」
「でも、もうすぐ起きるんじゃないかな。
 そろそろオムツを替える時間だもの」
「そっか」

子どもが生まれた時、葉月はとても喜んだけれど自分が親に愛された記憶がない為か、
どうやって接したらいいのか分からないようで、未だに我が子との距離感を測りかねている状況である。
手を伸ばすものの、手前で止めてしまう彼を見ていると、触りたいけれど触ったら傷つけてしまいそうだという彼の気持ちが痛い程伝わってくるのだった。
今では葉月の両親とも時折会って話をするまでに関係は改善されてきている。
彼自身の心の傷もだいぶ癒えてきているように思う。
それでも人を愛し慈しむということは簡単なようで難しいのだな、と今回のことで思った。

「ほぎゃ……ほぎゃふああんうああああん」
「あ、響が起きた」

寝室から聞こえてくる子どもの声に二人とも反応した。

「そうだ、今日は葉月がオムツ替えてみる?」
「……うん、そうしようかな」

そんな彼の言葉に一歩前進を感じて喜びながらドアを開けた瞬間、私は言葉を失って立ち止まる。
するとそこにはいつもの寝室の風景はなく、辺り一面真っ白な世界が広がっている。
後ろを振り返ると、ドアも無くなっていた。

「……一体、どうなってるんだ?」
「…分からない……」

そう呟いた後、ハッとレディネスの言葉を思い出す。

今、こっちの世界は異次元のようになってるんだ。
一歩、家の外に出ただけなのに全然違う土地へ行ってしまったり、
それどころか違う時代に繋がることもあって、とても危険なんだ。

彼の言葉を思い返してみるとなんとなくピンとくるものがあった。
ここは――時空の狭間だ。
そう思ったと同時に、隣にいる葉月の手を取る。

…、俺たち何かおかしなことに巻き込まれた感じがするね」
「うん。でも大丈夫。多分、大丈夫だよ」

自分に言い聞かせるように冷静に言葉を発した。
気を抜けば足元がなくなって、二人とも白い景色に溶けてしまいそうな気がする。

「――介入者……見つけた」

瞬間、心がざわつく。
自分たち夫婦しかいない筈の空間で確実に空耳ではない程のはっきりした声が聞こえたのだ。

「――お姉ちゃん、こっちに来てよ」

誰かが呼んでいる。
小学生くらいの女の子のような可愛らしい声。

「話をしましょ、介入者のお姉ちゃん――」

ここにいてもどうしようもないので、とりあえず声の聞こえる方角へ歩いて行くことにした。
葉月はしっかりと手を握ってくれている。
彼の手の温もりと感触が私を安心させた。

「――やっと会えたね、介入者のお姉ちゃん――」

突如、真後ろから聞こえた声に驚き振り向く。
するとそれまで森だった辺りの景色がガラリと変わっていた。
自分の足元に広がるのは花畑。
遠くは霧でぼんやりと白んでいるが、花畑はずっと地平線の先まで繋がっていそうだった。
状況がまったく掴めずにグルグルと回って辺りを見回すが、どうにも見たことのない景色だ。
すると白いワンピースを着た少女が立っている。

「貴女……だあれ?」

少女に優しく問いかける。
彼女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でた。

「――私はリグレス」

顔を上げずに少女は口を開く。

「リグレスちゃん……。
 貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?
 何故、私を知っているの?」

少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。

「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸って……そんな大陸、私は知らないな。
 葉月は知ってる?」
「おとぎ話の中に出てくる幻の大陸だった気がする」
「うん、そうね。
 はじまりの大陸は、普段は誰にも見えないからそう言われても無理ないわ」
「そんなおとぎ話の大陸にどうして私を呼んだの?」
「私がお姉ちゃんを呼んだのは……会ってみたかったから。
 この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんにね」

少女は静かに瞳を閉じる。

「リグレスちゃん、貴女は一体何者なの……?」

そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。

「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
 私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
 私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私や葉月がこの世界にいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
 最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
 でも、不運にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
 いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
 そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」

――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。

「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
 私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
 なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
 そして次々と世界を変えていく……」

少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。

「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
 どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
 私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
 ――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
 こんなのって不公平過ぎる……っ」

両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。

「……それに、この世界は良からぬ方向に変わっていってるの。
 介入者の数だけ、未来は分岐していってる。
 それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているわ。
 このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」

そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。

「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
 こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
 私、迷子になっちゃう……」
「リグレスちゃん……」

彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
死というものは誰もが一度しか経験しないこと。
そしてその瞬間は誰にも必ず訪れるもの。
先の見えない恐怖と、終わりが近づく恐怖は言葉にしがたい恐ろしさがあるだろう。

――この子の心をどうやったら救えるのだろう。
このままでは彼女は第二のサルサラになって何もかもを憎んでしまう。

「――介入者とか可能性とか俺にはよく分からないけど、一言いいかな?」

一緒に彼女を見つめていた葉月がゆっくり口を開いた。

「君が言うことが正しいなら、その介入者とやらがこの世界にやってきて世界を変えていくことも誰かの願いなんじゃないかな」
「葉月……」

そっと彼に寄り添う。

「無限の命と有限の命、どちらがいいのかは俺には分からない。
 でも、永遠に続くということは大きな変化がないということ。
 この世界の生き物全てが不死だとしたら、俺はこの世界はつまらないものになっていたと思うね。
 何も変わらない、何をしても変化しない、成果が出ないなんてそんな無気力で無機質な世界を一体誰が望むだろう。
 もし本当に君の言葉通り、人々の願いや祈りでこの世界が作られたとしたのなら、そんな世界に大切な人を住ませたくはないと思わない?
 それよりも今まで生きてきた世界よりももっと幸せな世界で生きて欲しいと祈ることだろう。
 だが、個々人の考える“幸せ”は一つじゃない。
 言葉一つでも色んな人によって色んな形を持っている。
 そんな人それぞれ違う幸せの形をこの世界では可能性と言うんじゃないかな。
 その可能性によってこの世界に生まれた者たちは変化していく。
 それがまた新たな世界を作っていく。
 この世界で生きる者たちが作っていく世界、それが真の幸せな世界なのかもしれない」
「……確かにそう。
 お兄ちゃんの言うことは何となく分かる気がする。
 でもね、それでもお姉ちゃんは力を持ち過ぎよ。
 身体はこちらの世界のものだけど、精神や魂は外から介入されたものじゃない」
「……うん、そうね。
 でもこうやって貴女や葉月の話を聞いていたら、私、何となく分かった気がするの。
 そもそも自分が何故この世界にやってきたか……」

自分は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。

「――リグレスちゃん、私の言うことは全部推測でしかないんだけど聞いてくれる?」

そう前置きして、彼女に向かって話し始める。

「私は誰かに呼ばれてこの世界に来た気がする。
 はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
 ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
 ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
 ……きっとその入り口は、この世界をもっと良くしたいと願った人が作ったんだと思うの。
 もしかしたらリグレスちゃんのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
 でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で形と成ったんだわ。
 だから私は今、この世界にいるのよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
 いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」 
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」

そう言って自分の胸に手を当てる。

「ここよ、人の心の中にあるのよ。
 この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
 そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
 でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”よ。
 だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
 でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
 貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」

いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。

「――お姉ちゃんは…今の“”になれて良かったと思う?」
「うん、そう思うよ。
 大切な人に会えたし、その人との間にできた子どももいるしね」
「そっか。そういう幸せの形もあるんだね。
 ……ありがとう、お姉ちゃん。
 私も、生まれ変わったら好きな人見つけて、家族を作るよ」

リグレスはそう言うと穏やかに笑った。






 ――不思議な夢を見ていた気がする。
世界の全てが愛おしくなるような、温かい夢……。

「ああんうああああん…ほぎゃほんぎゃあ」

響の声でハッと意識を取り戻した。
目の前にはいつもの寝室の光景が広がる。
隣にいる葉月とは手を繋いだままだった。
先程の夢のような出来事はドアを開けたその一瞬の事だったのだろうか。

……大丈夫?」
「うん、私は平気よ。
 葉月は…?」
「大丈夫。ただ……頭では理解不能だけど、心が理解したような不思議な気分だよ」

そう言って二人は泣いている我が子のベッドを囲んだ。

「……俺の思うようにしてもいいかな?」
「うん、いいよ」

葉月はそう言うと、響を抱き上げた。
そうして「よしよし」と言いながら背中を優しく撫でる。
少しだけ響の泣き声のボリュームが下がった。

「オムツが気持ち悪そうだね。今、替えてあげるよ。
 、やり方教えてね」
「うん」

葉月は再び響をベッドに下ろすと、こちらが教える通りにオムツを替えてやる。
するとご機嫌斜めだった響の顔がスゥっと穏やかなものに変わっていった。

「スッキリしたの?
 分かりやすいね、お前は」

そう言って葉月は響の紫色の髪の毛を指で梳く。
愛しい二人を見ていると何だか涙が出そうだった。
彼らだけではなく、世界の全てが人々の想いと願い、そして死した者の新たな魂の輝きによって作られた存在なのだ。
この優しさに溢れた世界をリグレスは何と呼んでいたのだろう。

……リグレスがこの世界の核と言うならば――


――Regres――


そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。












  〜エピローグ〜


 「……上手にできたね」
「うん、何も考えずにやったのが良かったみたい」

子どもにするように、私は葉月の頭を撫でてやる。
彼は大人しく撫でられると嬉しそうに笑った。

「……でもさ、この世界に望まれて生まれてきても、
 サルサラのように悪いことに走ってしまう人もいるのよね……」
「うん。それが不完全さ故なのかもしれないね。
 どちらに転ぶかはその人の生き方や周りの環境に左右される。
 俺だって、がいなければ180度違う人生を歩んでいたと思うし。
 それこそ可能性だよ」
「そうだね、皆が幸せになる可能性を秘めてる世界か……」

私は目を閉じて葉月の腕を抱きしめる。

「――あ、ねぇ。
 もし、この世界で生まれても幸せになれずに一生が終わった人はどうなるんだろう」

葉月の言葉でサルサラを思い出した。
彼はまだ生きている。
まだ彼の魂は救われていない。

「……幸せになるまで回帰するんじゃないかな、この世界で」
「幸せに終わった人は?」
「別の世界に行くかもしれないね」
「ふーん……。
 俺、空想は苦手なジャンルなんだけど……
 でも、がそう言うならそんな気がしてきたよ」

そう言って彼が顔を近づける。
彼の唇の感触が私の今の幸せの形。


――でも……いつか世界の人々全てが幸せになれますように――




















――介入を終了する――