ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。
――君を一番必要としている者のところに行くんだ。
レディネスが言っていたことを思い出す。
……そうだ、私はアゲハくんに会う為にここに来たんだ。
静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から波紋のようにある景色が広がっていく。
「ただいま、アゲハくん」
「おぅ、お帰り」
布でできたテントに戻ってきた私に気付き、アゲハは作業していた手を止めた。
彼はナイフを研いでいる最中だったようだ。
私がアゲハを復活させた二日後に私たちはジッカラートを発ち、三日後、サウスランド大陸の最南端に降り立った。
サウスランドは加護する神が不在で大陸の八割が砂漠、一割が凍土、森が残っているのは残りの一割というとても厳しい環境の大陸である。
神の愛を受けられないこの大陸で生まれた人間は霊力を持たず、環境にも恵まれなかったことから
どの大陸よりも先駆けて道具を作ることに特化していったようで機械文化がいち早く栄え、
今では南側の海岸沿いは金属で作られた街・メタルシティと呼ばれた街が続々と増えているらしい。
しかし、それ以外の砂漠地域では未だに小さな部族間での紛争が絶えず、
また、厳しい環境を生き抜いてきた獰猛な動物たちがあちらこちらに生息し、常に危険と背中合わせの生活をしている者も多いという。
そんな中、最西端にかろうじて残っている森林地帯には、南にあるイビリア大陸から魔物が渡ってきており、
人と魔物、そして自然が共存する村が存在するという噂があった。
住む場所を失った私たちはその村に興味を持ち、その村に到達することを最終目的として、サウスランドを西に横断することにしたのだ。
そうして、サウスランドにやって来てから約5年。
野生の動物を狩って食料を確保したり、砂漠で野宿して凍え死にそうになったり、
時には村人に歓迎されて村の仕事を手伝ったり、逆に門前払いをされたりと、
これまで二人が経験したことのないことの連続で、大変な時もあったけれど思い出してみるとどれもいい経験だと思える。
想像していたよりも横断には時間がかった。
その間、アゲハはたまたま訪れた村の鍛冶屋の様子にすっかり魅了されて以来、
自分でも鍛冶の真似事をするようになり、今では注文を受ける程の腕前になった。
一方、私は子どもの頃から何となしにウメ婆から教えられてきた漢方や薬膳の知識が役に立ち、
時々村に立ち寄った際に取り引きしたり、病人に配ったりしていった結果、今では治癒士と呼ばれている。
戦いに関連することしか知らなかった自分がそう呼ばれるようになるとは、ジッカラートの皆は夢にも思っていないだろう。
「もうすぐ完成?」
「おう、今回は使い勝手の良さを重視してみたぜ」
そう言って彼は無邪気に笑ってナイフを見せた。
どうやらレディネスが心配していた病気の影響はまだアゲハには出ていないようだ。
ホッとした私は彼にニコッと笑顔を向ける。
「ん? いいことでもあったのか?」
「んんー、そういうわけでもないけど……。
――あ! 今日ね、多分正確であろう地図を見せてもらったよ」
そう言い、私は鞄から紙と木炭を取り出して、大まかな地図を描いた。
「ここから西南西に二週間くらい歩いた先に、森の入口があるんだって」
「マジか!? とうとうそんなトコまでやって来たんだな、オレたち!!」
「うん、やっと目的地が見えたね!」
研ぎ途中のナイフをその場に放ったらかし、アゲハは嬉しそうに私に抱きついてくる。
私も彼の背中をギュウッと抱きしめた。
「――介入者……見つけた」
瞬間、心がざわつく。
自分たちしかいない筈の空間で確実に空耳ではない程のはっきりした声が聞こえたのだ。
アゲハも声が聞こえたようで身体を硬直させる。
「――お姉ちゃん、こっちに来てよ」
誰かが呼んでいる。
小学生くらいの女の子のような可愛らしい声。
「……なぁ、ここにはオレたち以外、誰もいない筈だよな?」
「うん、その筈だけど……」
ピリッとした緊張感が辺りを包む。
私たちはバッと背中合わせになって周囲を見回した。
「話をしましょ、介入者のお姉ちゃん――」
姿は見えないが、少女の声が私を呼び続ける。
「…くそ、神殿にいた時の悪霊たちを思い出しちまった」
「でも、そんな邪悪な感じはしないよ。
……まぁ、私も霊力がなくなったから感じないだけかもしれないけど」
とりあえず、外の様子も確認しようと私たちはテントの外へ飛び出した。
すると砂と岩で味気ない筈の外の景色が、がらりと変わっている。
自分の足元に広がるのは花畑。
遠くは霧でぼんやりと白んでいるが、花畑はずっと地平線の先まで繋がっていそうだった。
状況がまったく掴めずに私たちは互いに顔を見合わせた。
どうにも見たことのない景色だし、サウスランドにはあり得ない状況に戸惑うばかりだ。
「――やっと会えたね、介入者のお姉ちゃん――」
突如、白いワンピースを着た少女が霧の中からスッと現れた。
アゲハが言ったような悪霊には見えないものの、生きた人間とは思えない不思議な雰囲気を醸し出している。
「……あ…貴女は誰?」
私の頭の中はたいそう混乱していたが、冷静さを保つように努めて少女に優しく問いかけた。
彼女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でる。
「――私はリグレス」
顔を上げずに少女は口を開く。
「リグレスちゃん……。
貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?
何故、私を知っているの……?」
少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。
「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸って……そんな大陸、聞いたことないな。
アゲハくん……も知らないよね?」
「ああ、聞いたことねぇな」
「そう……。それもそうね。
はじまりの大陸は普段は誰にも見えないから……」
「そんな大陸にどうして私を呼んだの?」
「私がお姉ちゃんを呼んだのは……会ってみたかったから。
この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんにね」
少女は静かに瞳を閉じる。
「リグレスちゃん、貴女は一体……?」
そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。
「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私やアゲハくんがこの世界にいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
でも、不運にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」
――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。
「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
そして次々と世界を変えていく……」
少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。
「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
こんなのって不公平過ぎる……っ」
両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。
「……それに、この世界は良からぬ方向に変わっていってるの。
介入者の数だけ、未来は分岐していってる。
それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているわ。
お姉ちゃんが生きているのは、その世界の一つよ。
このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」
そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。
「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
私、迷子になっちゃう……」
「リグレスちゃん……」
彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
死というものは誰もが一度しか経験しないこと。
そしてその瞬間は誰にも必ず訪れるもの。
先の見えない恐怖と、終わりが近づく恐怖は言葉にしがたい恐ろしさがあるだろう。
――この子の心をどうやったら救えるのだろう。
このままでは彼女は第二のサルサラになって何もかもを憎んでしまう。
「――何かうぜぇ」
「あ、アゲハくん!?」
一緒に彼女を見つめていたアゲハの発した言葉に私は驚き焦る。
「元はお前を幸せにしたいと思った奴が作った世界ってことだろ?
お前はそいつから誰よりも愛されてんのに、何でを羨むんだ?
お前はと同じように戦ったのか?
いつも表ではヘラヘラしてるけど、こいつは自分のことよりも他人の為に生きてきた奴なんだよ。
お前は簡単に可能性を口にするが、お前が言う通りが世界を変えるくらいの大きな力を持つのなら、
そこまでしなきゃ世界は変えられないってことだろ」
「アゲハくん……」
そっと彼に寄り添う。
「介入者とか言われてもオレは訳わかんねぇけど、でもオレは何度も再生と消滅を繰り返し、最終的にのおかげで人間になれた。
だからお前が言う願いとか祈りの話は信じられる。
だが、を恨むのはお門違いだぜ。
こいつは愛を結晶化したみたいな奴なんだから」
「……確かに…そうかもね。
お姉ちゃんは恨まれるような存在じゃないってことは自分でも理解してる。
…でもね、それでもお姉ちゃんは力を持ち過ぎなのよ。
身体はこちらの世界のものだけど、精神や魂は外から介入されたものじゃない」
「……うん、そうかもしれない。
私はこの世界で暮らす人たちと比べたら、特殊過ぎるかも。
でもね、こうやって貴女やアゲハくんの話を聞いていたら、私、何となく分かった気がするの。
そもそも自分が何故この世界にやってきたか……」
自分は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。
「――私、誰かに呼ばれてこの世界に来た気がするの。
はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
……きっとその入り口は、この世界をもっと良くしたいと願った人が作ったんだと思うの。
もしかしたらリグレスちゃんのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で形と成ったんだわ。
だから私は今、この世界にいるのよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」
そう言って自分の胸に手を当てる。
「ここよ、人の心の中にあるのよ。
この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”よ。
だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」
いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。
「――お姉ちゃんは…今の“”になれて良かったと思う?」
「うん、そう思うよ。
大切な人に会えたし、その人を通して自分のことも世界も好きになれたもの」
「そっか。そういう幸せの形もあるんだね。
……ありがとう、お姉ちゃん。
私も、生まれ変わったら素敵な恋をしたいな」
リグレスはそう言うと穏やかに笑った。
――不思議な夢を見ていた気がする。
世界の全てが愛おしくなるような、温かい夢……。
ゆっくりと目を開けると、いつものテントの風景が目に入った。
それと同時に背中に温かいぬくもりを感じる。
どうやら私とアゲハは座ったまま背中をくっつけて眠っていたらしい。
確かに外に出たと思ったのだが、先程の夢のような出来事は本当に夢だったのだろうか。
「……あのガキ…」
ポツリと背中越しにアゲハが呟く。
どうやら彼も目覚めたようだ。
「どうしたの?」
「いや……あのリグレスってガキが、別れ際にある一つの可能性の世界って奴を見せやがったんだ」
「はじまりの大陸から繋がってる別の世界を見たってこと?」
「ああ……」
そう言うと、彼は口を噤んで私を力強く抱き寄せた。
私は黙って彼に身を任せる。
「……もし、お前が俺を生き返らせなかったら…今頃、お前は他の男と結婚して子どもを産んで……」
「やだ、そんな世界だったの?」
「結局はお互いに生まれ変わって再会できたみたいだけどよ。
……その過程が良くねぇ。
しかも相手があのヤローとか……っぜってぇ許さねぇぞ、あん畜生!」
「アゲハくんが知ってるってことは、婚約者候補だった内の1人ってこと?」
「……言わねぇ」
見上げた彼の顔は非常にムスッとして不機嫌だった。
そんな彼にクスッと笑いがこぼれる。
彼がこうやって目の前にいるのも想いの力によるもの。
そして温かい風、揺れる花、空を飛ぶ鳥たち――これら全ても人々の想いと願い、そして死した者の新たな魂の輝きによって作られた存在なのだ。
アゲハを復活させた時以上に、この世界は思っていたよりもずっと優しく温かいものと実感する。
この優しさに溢れた世界をリグレスは何と呼んでいたのだろう。
……リグレスがこの世界の核と言うならば――
――Regres――
そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。
〜エピローグ〜
「……ねぇ、どうしてアゲハくんは何度もこの世界に生まれたんだろう」
何となく顔が見辛くなった私は、彼に背中を向けて膝を抱えながら静かに尋ねた。
アゲハはそんな私の後ろにぴったりとくっついて両足の間に私を挟むようにして座る。
そして私の背中に自分の体重を預けるようにもたれると私のウエストに腕を巻きつけた。
「幸せになるまで生が繰り返されるんだよ、多分」
「それって有り難いようでいて、結構つらいかもしれないね。
幸せになるまで何度も何度も生きなきゃいけないんだもん」
「でも、オレは今回で終わる」
「もう転生はしないってこと?」
「そんな気がする」
「幸せだから?」
「ああ、幸せだから。
オレの魂はのお陰で救われた。
もうこの世界に居続ける必要もないんじゃないかな。
――まぁ、もしかしたらこれから先、何か不幸なことがあったりしたらどうなるか分かんねぇけど」
そう言うとアゲハは髪の上から首にキスを落とす。
「オレはさ、お前さえ傍にいれば多分これから先も幸せだ。
それ以上は望まないつもり。それ以上の幸せがやってきたらラッキー、なくらいの気持ちでいるぜ。
そういう当てのない欲っていうのはでかくなると厄介だからな。
――まぁ、もしもまたどこかで生まれることがあったら、その時はお前にもう一度会いたいけど」
「うん……」
私もアゲハと同じように考えていたので何だか嬉しく思ったけれど、
ふとサルサラのことを思い出した。
アゲハは救ってあげられたけれど、サルサラは未だに寒くて暗い地下に眠ったまま。
死なない以上、転生することもできないのだ。
「……当てのない欲…か」
ポツリと呟く。
「――は……もう一度転生するかもしれねぇな。
あの人を…救う為に……」
「……ううん。
できるだけ早く……私の転生とか待たずに、誰かが彼を救ってくれたら……」
そう言うと、アゲハは私を抱きしめている手に力を込めた。
「……優しさの塊みたいながオレは好きだ。
でも…やっぱり悔しい。
お前の愛を独り占めできねぇから……」
「そうかな?
異性に向ける愛はアゲハくんだけのものだよ」
首を斜め後ろに傾け、彼に向かって微笑んだ。
アゲハは少し頬を赤らめる。
「じゃあ、俺が一番って証明しろよ」
「ませた子どもみたいなこと言うのね」
「子どもじゃねーし!」
耳まで赤くしたアゲハにニヤニヤしながら、私は彼の方に向き直り首に腕を回した。
「好きだよ、アゲハくん」
「…もっと」
「大好き」
「……もっと分かりやすく」
「はいはい」
吹き出しそうになるのを何とか堪え、私は彼にキスをする。
「――ずっと傍にいてね。
アゲハくんが私の名前を呼ぶ度に、私に触れる度に、私は幸せを実感するの」
「……」
――君を世界で一番、愛してる――
――介入を終了する――