ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。
――君を一番必要としている者のところに行くんだ。
レディネスが言っていたことを思い出す。
……そうだ、私はヤンに会う為にここに来たのだ。
静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から見慣れた景色が波紋のように広がっていく。
買い物袋を抱えて玄関を開ける。
薄いブルーの壁に白いドア。
爽やかだしヤンのイメージカラーのように思えた私は喜んだけれど、
何年かしたら汚れが目立ちそうだとヤンは苦笑していたのを思い出す。
「ただいま」
今日、ヤンは仕事が休み。
娘たちと目いっぱい遊ぶからと昨日は早くに就寝したけれど、
きっと早朝からずっと我儘に振り回されて疲れ果てている頃じゃないかと玄関に置いてある時計を見ながら思った。
すぐに昼食を作ってあげようと思いながら靴を脱ぎ、
スリッパ置きからスリッパを取り出そうとして屈むと、買い物袋に入っていたレモンが勢いよく転げ落ちる。
「あぁ、またやっちゃった……」
レモンを目で追うと、誰かの足が視界に入る。
「ヤン」
視線を上げるとヤンと目が合った。
また笑われてしまうなぁと思いつつ「ただいま」と言うと、彼は不思議そうな表情を浮かべる。
「……どちら様ですか?」
その瞬間、身体は凍りついたように固まった。
一気に動悸が激しくなる。
「やだな、ヤン。奥さんを忘れちゃったの?」
動揺を見せないようにニコッと笑う。
レディネスに病気のことを聞いていたから何とか冷静を保てたものの、背中には嫌な汗が流れていた。
「……奥さん? 貴女が?」
「そうだよ……」
何だか想像していたものと違うと思った。
レディネスは自分がこちらの世界に来れば、きっと記憶が消えるのを防ぐことができると言っていたから
会えばすぐに記憶が消えるのを止められると思っていたのに。
「……悪い冗談だな…」
目の前のヤンは訝しげな目でこちらを見ている。
――ヤンは既に私のことを忘れてしまっている――
ゴトンと大きな音を立てて買い物袋が床に落ちた。
両手を見ると自分の手は透き通っている。
「――ヤン……っ!!」
悲痛な叫び声が廊下に響く。
このままでは消えてしまう。
自分が存在した過去も全て無かったことになってしまう。
二人の間にできた娘たちも消えてしまうのだろうか。
途端に外から激しい雷鳴が聞こえてきた。
自分が完全に消えてしまえば、この世界の“今”も変わってしまう。
何よりヤンや子どもたちにもう二度と会えないのだ。
目からは次々と涙が零れ落ちる。
涙の感覚が即ち自分が形を成している証とは、なんて皮肉なことだろう。
「――う……ぁ………っ――さん!!」
崖っぷちで腕を掴まれたような感じだった。
ヤンが痛い程に強く身体を抱きしめる。
「嫌だ、消えないで…っ……僕を置いていかないでくださいっ!!」
「ヤン……っ…」
彼の背中に腕を回す。
身体の感覚が鮮明になってきた。
彼が着ている洋服の繊維の感覚すら愛おしい。
「何で…っ……もうこんなことにはならない筈なのに。
どうして……? どうしたら貴女を助けられるんですか!?
僕はどうしたらいい!?」
「……ヤン……」
もう大丈夫、と優しく彼の背中を撫でる。
レディネスの言うことが正しければきっとこれで過去の自分の存在を上書きできた筈だ。
いや、彼の推測は合っているだろうと確信すら抱いている。
途端に外からの雷鳴の音が消え、リビングからは娘たちが遊んでいる声が聞こえたからである。
「――ヤンは信じられないかもしれないけど……」
二人の気持ちが落ち着いたところで、事の次第をヤンに話すことにした。
「――そんなことって……」
「あるのよ。現にヤンは私を忘れかけてた」
「う……すみません」
ヤンは非常に申し訳なさそうな顔をして項垂れる。
そんな夫の姿を見てクスっと笑みがこぼれること自体が幸せなことだと思った。
「それにしても、そんな不可解な病気が流行っているなんて知りませんでした。
第一、大切な人の記憶から失っていくなんてアバウト過ぎます。
これは自然発生ではなく人為的な力が働いたとしか――」
リビングへのドアを開けた瞬間、ヤンは言葉を失って立ち止まる。
彼の様子がおかしいことに気付き、自分も辺りを見回してみた。
するとそこにはいつものリビングの風景はなく、辺り一面真っ白な世界が広がっている。
「……ここは…リビングでしたよね……?」
「うん」
ここでふとレディネスの言葉を思い出す。
今、こっちの世界は異次元のようになってるんだ。
一歩、家の外に出ただけなのに全然違う土地へ行ってしまったり、
それどころか違う時代に繋がることもあって、とても危険なんだ。
彼の言葉を思い出すとなんとなくピンとくるものがあった。
ここは――時空の狭間だ。
そう思ったと同時に、隣にいるヤンの手を取る。
「さん、ここは……」
「大丈夫。多分、大丈夫」
自分に言い聞かせるように冷静に言葉を発した。
気を抜けば足元がなくなって、自分もヤンも白い景色に溶けてしまいそうな空間。
ヤンの手の温もりと感触が自分をここに縛り付けているような感覚がする。
「――介入者」
心がざわつく。
誰かの声が聞こえた。
「――お姉ちゃんが介入者なの……?」
ハッと下を向く。
すると足元は水面のように波打っていた。
更にその奥には地球のような青と緑と茶の球体が浮かんでいるのが見える。
それはまるで自分が透明な湖の上に立っているような感じだった。
「……お姉ちゃんがこの世界を変える存在……」
そう聞こえたと同時に、自分と対称的に水面に立っている幼い少女の姿が映る。
こちらから見ると上下逆になっているのだが、
彼女がゆっくりと涙を流すと、その粒は頬を伝って落ちて顎の下から落下していく。
そして自分と少女が立っている水面にポツンと落ちた。
――瞬間、足元が消失する。
「……っ!」
辺りが泡になって自分たちを包むと、手を繋いだままの二人は渦に呑まれたかのように
どちらが上か変わらないような状態でぐるぐると回りながらどこかへ流されていく。
「――ここは……」
漸く波にもまれるような感覚がなくなったと思い、目を開けるとそこは霧がかった花畑が広がっていた。
地に足がつくとこんなにも安心できるものかと感動すら覚えつつ、辺りを見回す。
「ここは一体、どこなんでしょうね」
「うん……全然見覚えがない土地みたい」
握っている彼の手にもう片方の手も伸ばし、腕に絡みつけた。
未だに状況は掴めないけれど、ヤンと一緒なら何とかなるような気がする。
「――お姉ちゃんとお兄ちゃん、好き合ってるんだね。
ここに来るまで一度も手を離さなかった」
背後からの声に驚き、二人は同時に振り返った。
すると先程涙を流していた少女が立っている。
「貴女はだあれ?」
少女に優しく問いかける。
白いワンピースを着た少女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でる。
「――私はリグレス」
顔を上げずに少女は口を開く。
「リグレスちゃんね。
貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?」
少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。
「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸って……おとぎ話に出てくる大陸じゃないですか」
「そうね。普段は誰にも見えない大陸だからそう思われても仕方ないかな」
「じゃあ、どうして私たちはここにいるの?」
「それは私が呼んだから」
「貴女が……?」
「そう。私がお姉ちゃんを呼んだの。
――この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんをね」
少女は静かに立ち上がる。
「リグレスちゃん、貴女は一体……?」
そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。
「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私たちがここにいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
でも、不幸にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」
――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。
「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
そして次々と世界を変えていく……」
少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。
「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
こんなのって不公平過ぎる……っ」
「リグレスちゃん……」
両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。
「――私の考えを言ってもいいですか?」
一緒に彼女を見つめていたヤンがゆっくり口を開いた。
「貴女が言うことが正しいなら、さんがこの世界にやってきて世界を変えていくことも誰かの願いなんじゃないでしょうか」
「ヤン……」
そっと彼に寄り添う。
「もしかすると貴女を想う人は、貴女の生きることになるであろうこの世界が作られた当初よりも
もっと幸せなものになっているように、と祈っているかもしれません。
さん自身もそりゃ運命を切り開くような強い心を持った人ですけど、それだけでは世界はそうそう変わりませんよ。
――きっと誰しも思う筈です。
もし愛する者が死んでしまっても、また生まれ変わることができたら、その時はうんと幸せになってほしいと。
そんな当たり前の願いが救世主をこの世界に呼んだんじゃないでしょうか」
「……でもこの世界は良からぬ方向に変わっていってるわ。
介入者の数だけ、未来は分岐していってる。
それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているの。
このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」
そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。
「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
私、迷子になっちゃう……」
「リグレスちゃん……」
彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
自分も死を目の当たりにした時、足元が崩れ落ちて真っ逆さまに落ちていくような不安に襲われた。
何もかもを恨めしく思えたし、途轍もなく未練が残った。
――それでも……この世界に戻ってこれた。
ヤンとリグレスの話を聞き、自分がこの世界にやってきた理由がなんとなく分かった気がする。
私は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。
「――リグレスちゃん、私もヤンの言うことに賛成だよ。
私は誰かに呼ばれてこの世界に来た気がする。
はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
……きっとその入り口は、この世界を良くしたいと願った人が作ったんだよ。
もしかしたらリグレスちゃんのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で“”として形を成したんだわ。
だから私は今、ここにいるんだよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」
そう言って自分の胸に手を当てる。
「ここよ、人の心の中にあるのよ。
この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”よ。
だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」
いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。
「――お姉ちゃんはやっぱり救世主なんだね」
「ううん、本当の救世主は貴女のお姉さんかもしれないよ」
「……そうだね。
でも……ありがとう、お姉ちゃん」
リグレスはそう言うと穏やかに笑った。
――長い夢を見ていたような感じがする。
気がつくと二人はリビングのソファにいた。
ヤンと私はどうやら互いにもたれて眠っていたらしい。
「……どうしたの?」
「――いえ、何でも……」
茫然と身体を起こしたヤンの目から突然涙が零れる。
「……僕自身じゃなくて、魂が泣きたがってる気がするんです」
「ヤン……」
そっと彼を抱きしめる。
何だか彼の身体の奥が震えているような気がした。
「――きっと僕は貴女と出会えたことで救われました。
このまま無事に天寿を全うすれば、魂も満足するでしょう」
「そうだといいね」
優しく背中を撫でてやる。
何だか途端にヤンだけでなく、この世界の全てが愛しいものに思えてきた。
リグレスは優しさに溢れたこの世界を何と呼んでいたのだろう。
……リグレスがこの世界の核と言うならば――
――Regres――
そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。
〜エピローグ〜
「……そう言えば、ヤンって一人称“僕”だったっけ?」
「え……?」
「私が消えそうになった時、“僕”って言ってたからさ。
いつもは“私”って言ってるよね?」
「あー……うー……」
とても微妙な表情を浮かべるヤン。
「いえ……、実は普段の一人称は“僕”なんですよ」
「え? でも私、今日初めて聞いたよ」
そう言うと彼は恥ずかしそうに頭をポリポリと掻いてみせる。
「その…貴女と初めて会ったのは職場でしたから“私”と言っていたんですけど……」
「だったら結婚してからは“僕”って言えばよかったのに。
家でまで仕事モードだなんて、気を遣うでしょ?」
「いや、なんていうか……今更“僕”というのも子どもっぽい気がして…」
「そうかな?
私、結構好きかも」
「え、ホントですか?」
「うん」
笑顔で頷くと、ヤンは照れながら嬉しそうに笑った。
「じゃあ、これからは“僕”でいきます」
「うん」
こんな取りとめもない内容でも、一緒に並んで笑い合えることがとても幸せだと思った。
――介入を終了する――