ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。

――君を一番必要としている者のところに行くんだ。

レディネスが言っていたことを思い出す。

……そうだ、私はシャルトリューさんに会う為にここに来たんだ。

静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から見慣れた景色が波紋のように広がっていく。



 診察室のドアを優しくノックして返事を待つ。

「どうぞ」

向こうからは夫の声。

「ああ、ですか…」

ドアの方に振り向いたシャルトリューは何だか元気がないように見えた。
心配に思いつつ、私はいつも患者が座る椅子に腰かける。

「お昼休みの時間になっても戻ってこないから、どうしたのかと思って」
「すみません。ちょっと調べ物をしていて……ああ、もうこんな時間ですか」

そういう彼の机は沢山の本が乱雑に開かれて置かれている。
普段、勉強中でも机の上は整頓しているシャルトリューなのに、今日はやけに調べ物に熱中しているのだな、と思った。

「難しい病気の方がいらっしゃったんですか?」
「いえ…患者さんではなく……」

そう言うと彼は口を噤む。

「……シャルトリューさん自身の身体で何か気になることでも…?」
「……ええ、そうなのです」

本に視線を落したまま、小さく彼が呟く。
そんな彼の様子で何となくピンと来た。

「……ここ数日、記憶が曖昧になることがありまして。
 情けない話ですが、子どもたちの名前がすっと出てこない時があるんですよ」

初めて生まれた子どもが双子で、しかも男の子と女の子だったものだから、彼はとても喜んで
子どもたちにはこの上なく愛情を注いでいるにも関わらずその子たちの名前が出てこないなんて、これは恐らく――
動悸がし始めたものの、表情には出さないように努める。
きっと彼が言う症状は、レディネスが言っていた病気に侵されているからに違いないと確信した。
しかし、彼の顔色が急に良くなる。

「脳の病気かなと思ったのですけれど……でも……何故でしょう。
 貴女の顔を見たら、急に頭の中がはっきりしたというかスッキリしたというか……」

そんな彼の言葉で私は胸を撫で下ろす。
レディネスが言っていたのは本当だった。
自分がこっちの世界に来たことで、すぐに謎の病気の進行は止まったようだ。

「疲れが溜まっていたんじゃないですか?
 最近、季節の変わり目で体調を崩された患者さんが多くて忙しいですし」
「そうですね、そうかもしれません。
 ……嫌ですね、医者の不養生とはこのことです」

彼は珍しく恥ずかしそうに笑った。

「じゃあ、のんびり昼食を取りましょう。
 後でリラックス効果のあるハーブティー入れますよ」
「ありがとうございます」

そうして二人は立ち上がり、診療所の施錠をして隣の敷地にある自分の家へと向かう。
しかし、家の玄関のドアを開けた瞬間、シャルトリューは言葉を失って立ち止まった。
彼の様子がおかしいことに気付き、自分も辺りを見回してみる。
するとそこにはいつもの玄関の風景はなく、辺り一面真っ白な世界が広がっている。

「一体、これはどういうことでしょう……。
 まるで別の世界に足を踏み入れたようです」

シャルトリューの言葉でふとレディネスの話を思い出した。

今、こっちの世界は異次元のようになってるんだ。
一歩、家の外に出ただけなのに全然違う土地へ行ってしまったり、
それどころか違う時代に繋がることもあって、とても危険なんだよ。

彼の言葉を返すと合点がいく。
ここは――時空の狭間だ。

そう思ったと同時に、隣にいるシャルトリューの手を握った。

「――介入者……見つけた」

心がざわつく。
誰かの声が聞こえた。

「――お姉ちゃん、こっちに来てよ」

誰かが自分を呼んでいる。
小学生くらいの女の子のような可愛らしい声だ。

「……誰かが私を呼んでる……」
「…本当ですか? 私には何も……」

シャルトリューは辺りを見回したが、それらしい気配はない。
しかし、頭の中に直接呼びかけるような少女の声は止まらず、私を呼び続ける。

「……行ってみませんか、シャルトリューさん」
「しかし……」
「多分、大丈夫…だと思います。
 寧ろ放っておく方が何だか…悪いことが起こりそうで」
「…そうですね、原因を確かめた方がいいかもしれません」

シャルトリューの言葉で腹が決まった。
私は何となく声のする方向へ足を踏み出す。
彼はしっかりと手を繋いだまま、隣を歩いている。
辺りが真っ白な空間である為、前に進んでいるかも分らないし、この先に何があるのかも分からないが、声は次第に大きく鮮明に聞こえてきた。


「――よく来たね、介入者のお姉ちゃん――」

突如、真後ろから聞こえた声で二人の足が止まる。
急いで振り向いた先には、これまで走っていた白い世界ではなく、霧がかった花畑が広がっていた。
もう一度振り返ると、先に広がっていた白い景色も花畑に変わっている。
状況がまったく掴めずにシャルトリューと顔を見合わせたが、互いに見覚えのない景色だった為、首を傾げた。

「お姉ちゃん、来てくれたのね」

霧の中から現れたのは白いワンピースを着た少女。

「ええ……貴女が何度も私を呼ぶから…」
「そう…。お姉ちゃんって救世主って呼ばれてるだけ、勇気があるわね」
「勇気…? そういうのじゃない気がする。
 ただ私は呼ばれるがままにやってきただけよ。
 それに夫も傍にいてくれて心強かったから。
 ――それで、貴女はだあれ?」

頭の中は極めて混乱していたが努めて冷静さを保ちつつ、少女に優しく問いかける。
彼女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でた。

「――私はリグレス」

顔を上げずに少女は口を開く。

「リグレスちゃんね。
 貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?」

少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。

「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸? ……古いおとぎ話に出てくる大陸と同じ名前ですね」
「そう…おとぎ話の中にしか出てこないの。
 ……まぁ、普段は誰にも見えない大陸だからそう思われても仕方ないかな」
「じゃあ、どうして私たちはここにいるの?」
「それは私が呼んだから」
「貴女が……?」
「そう。私がお姉ちゃんを呼んだの。
 ――この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんをね」

少女は静かに立ち上がる。

「リグレスちゃん、貴女は一体……?」

そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。

「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
 私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
 私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私たちがここにいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
 最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
 でも、不幸にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
 いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
 そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」

――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。

「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
 私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
 なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
 そして次々と世界を変えていく……」

少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。

「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
 どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
 私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
 ――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
 こんなのって不公平過ぎる……っ」
「リグレスちゃん……」

両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。
彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
自分も死を目の当たりにした時、足元が崩れ落ちて真っ逆さまに落ちていくような不安に襲われた。
何もかもを恨めしく思えたし、途轍もなく未練が残った。

――それでも……この世界に戻ってこれた。

「――貴女の言うことは、信憑性を欠いているようにも思えますが……
 それでも私は貴女の言葉を信じたくなってしまいますね。
 の……妻の存在があるものですから」

一緒に彼女を見つめていたシャルトリューがゆっくり口を開いた。

「これでも夫ですからね、妻が悪者にされるのは嫌なので少し話させてもらってもいいでしょうか?
 あまり私は好きではないのですが、もしも、の話をします。
 もし、貴女が言うことが正しいなら、私は妻がこの世界にやってきたことも誰かの願いに因るものではないかと思いますよ」
「シャルトリューさん……」

そっと彼に寄り添う。

「もしかすると貴女を想う人は、貴女の生きることになるであろうこの世界が、
 作られた当初よりももっと幸せなものになっているように、と祈っているかもしれません。
 妻は確かにとても前向きで芯の強い人ですが、それだけでは世界はそうそう変わるものではないと思いますよ。
 実際に我々が大陸の未来を変える為には多くの人々の祈りと力を必要としました。
 世界を大きく変えるにはそれだけのエネルギーが必要なのでしょう。
 ですから救世主がこの世界に来たのも、多くの人の願いによるものと考えるのが一番しっくりくる気がします」
「……でも、でも……っ…この世界は良からぬ方向に変わっていってるわ。
 介入者の数だけ、未来は分岐しているのよ。
 それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているの。
 このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」

そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。

「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
 こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
 私、迷子になっちゃう……」
「リグレスちゃん……」

シャルトリューとリグレスの話を聞き、自分がこの世界にやってきた理由がなんとなく分かった気がする。
自分は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。

「――リグレスちゃん、私もシャルトリューさんの言うことが真理だと思う。
 私は誰かに呼ばれてこの世界に来た気がする。
 はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
 ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
 ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
 ……きっとその入り口は、この世界を良くしたいと願った人が作ったんだよ。
 もしかしたらリグレスちゃんのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
 でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で“”として形を成したんだわ。
 だから私は今、ここにいるんだよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
 いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」 
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」

そう言って自分の胸に手を当てる。

「ここよ、人の心の中にあるのよ。
 この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
 そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
 でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”よ。
 だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
 でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
 貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」

いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。

「――お姉ちゃんはやっぱり救世主なんだね」
「ううん、本当の救世主は貴女のお姉さんかもしれないよ」
「……そうだね。
 でも……ありがとう、お姉ちゃん」

リグレスはそう言うと穏やかに笑った。






 ――長い夢を見ていたような感じがする。

気がつくと辺りはいつもの玄関の景色に戻っていた。
どうやらそんなに時間は経っていなかったようである。

「……、抱きしめてもいいですか?」
「はい」

二人ともどこか夢うつつな表情を浮かべていたが、互いの体温を感じると現実に意識が戻ってくる。
骨張った彼の身体の感触、微かに聞こえる鼓動、そして部屋の奥の方で子どもたちが泣き始めた声――
これまでと全く違うところはない筈なのに、何故かとても愛おしくて有り難い。

「貴女や子どもたちだけでなく、この世界全てがとても愛おしくなりました」
「私もです……」

沢山の人々の祈りと命で作られたこの世界。
この優しさに溢れた世界をリグレスは何と呼んでいたのだろう。

……リグレスがこの世界の核と言うならば――


――Regres――


そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。












  〜エピローグ〜


 「……想いの力って想像していた以上に凄いものだったんですね」

すやすやと眠る子どもたちの顔を見ながらシャルトリューに話しかける。

「私や貴女だけでなく、世界全てが魔法の塊のようなものですからね」
「……それでも、その中で私たちは意思を持って生きて、こうやって新たな命を生み出すこともできる。
 何だか不思議ですね」
「ええ、想いという魔法で作られているなら全て魔法で事足りる筈です。
 もしかすると生き物を永遠の命にすることもできた筈。
 ……しかし、それでは真の幸せは望めないのでしょう。
 幸せの定義を説明するのは難しそうですが、心情的には理解できます」
「はい」
「……ともあれ、私は今の不完全な人の姿で作られて本当に良かったと思いますよ。
 こうやって貴女と――」

シャルトリューは頬に手を添える。

「生物的な営みをすることもできますし、
 貴女と一緒に年を重ねて、子どもたちの成長を見ていけるという楽しみがあるのですから」

優しくキスを落とした後、彼はこう言って少しお茶目に笑って見せた。

「――私も、そう思います」

子どもたちの頭にそっとキスをして、彼の首に手を伸ばす。


――この世界に来れて良かった――





















――介入を終了する――