ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。

――君を一番必要としている者のところに行くんだ。

レディネスが言っていたことを思い出す。

……そうだ、私はレジェンスに会う為にここに来たのだ。

静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から波紋のようにある景色が広がっていく。



 全く見たことのない風景。
しかし、装飾品の豪華さと雰囲気で何となくわかった。
ここは金持ちの家、もしくは城である――と。

「お兄様!」

後ろから声が聞こえた。
振り向くと、利発そうな金髪の少女が駆け寄ってくる。

「レイラ……」

思わず相手の名を呼んだが、彼女は反応を示さずにそのまま走り続け、あっ、と思った時には自分をすり抜けていった。
突然のことで訳が分からずに茫然と彼女の後姿を見つめると、向こうから自分の夫であるレジェンスがやってくる。

「レジェンス!」

レイラと同じように彼の元に急ぐ。
何故なら彼はとてもやつれて憔悴しきった様子で歩いていたからだ。

「レジェンス、どうしたの?」

レイラの隣で彼に声をかけるが、彼もレイラもこちらの気配すら感じていない様子である。

「――ククルからの手紙を読みました。
 宝玉を集めても言い伝えのような反応は起こらず、同時にお兄様は大切な人を失ったと……」

レイラの言葉でピンと来た。
そして改めてレジェンスを見つめる。
数年が経っても大してレジェンスの容姿は変わっていないけれど、それでも今、目の前にいるレジェンスは少年に近い姿をしていた。
現在の夫である彼はもっと立派な青年の体格をしているし、精神的にも落ち着いて逞しい男性である気がする。

――恐らく今、目の前で起こっていることは過去の出来事なのだろう。
レディネスが言っていたではないか。

今、こっちの世界は異次元のようになっていてね。
一歩、家の外に出ただけなのに全然違う土地へ行ってしまったり、
それどころか違う時代に繋がることもあって、とても危険なんだ。

――と。
自分は現在のレジェンスではなく、過去のレジェンスの所へ来てしまったのだろうと直感から確信に変わる。
そしてこれは自分がこの世界から消えた後の出来事なのだ。
そうやって考えると、レイラとレジェンスがいるこの場所はアーク城だと理解する。
きっとその当時、この世界に存在しなかった自分は、時空を超えてやって来ても彼らとは関われない存在なのだ。
だから二人はこちらに全く気付かないのである。

「お兄様、どうかお休みになられてください。
 とてもお疲れのようですわ」
「いや……」

悲しみに打ちひしがれている様子のレジェンスをレイラは心配したが、彼はゆっくりと首を振った。

は――最愛の女性は死の間際まで、この世界のことを考えてくれていた。
 そしてこの世界を救う為のヒントを私たちに残してくれた。
 私はこの国の未来を担う者、彼女の為にもこの大陸を何としても救わねばならない。
 休む暇はないのだ」
「ですが、お兄様が身体を壊されては……っ」
「レイラ、私はそこまで脆くはないぞ?
 この旅で少しは強くなったつもりだ。
 ――それに今、行動せねば明日はないかもしれぬ」

悲壮な決意を固めたレジェンスは出会った時よりもずっと大人びて見えた。
そして現在の夫である彼と姿が重なる。

「……レジェンスに会いたい」

想いは言葉となって零れ落ちた。
彼は私と大陸の為に必死に自分にできることをやろうとしている。
いや、実際に奇跡に近いことをやってのけたのだ。
だから今、自分はここに存在している。
早く彼に会って、今まで以上に愛していると伝えたいと思った。
そしてありったけの感謝の気持ちも。
それに、過去に来てしまったということは、現在進行形で今を生きているレジェンスは
レディネスが言ったように自分と過ごした記憶を失いかけているかもしれないと思ったのだ。
どうにかして早く現在に戻らねば――と焦る気持ちを抑えられず城の中をうろついてみる。

「――介入者……見つけた」

瞬間、心がざわつく。
自分以外誰もいない筈の空間で確実に空耳ではない程のはっきりした誰かの声が聞こえた。

「――お姉ちゃん、こっちに来てよ」

誰かが呼んでいる。
小学生くらいの女の子のような可愛らしい声。

「――ここにいたんだね、介入者のお姉ちゃん――」

突如、真後ろから聞こえた声に驚き振り向く。
するとそれまでの豪華な内装だった辺りの景色がガラリと変わっていた。
自分の足元には一面の花畑が広がる。
遠くは霧でぼんやりと白んでいるが、花畑はずっと地平線の先まで繋がっていそうだった。
状況がまったく掴めずにきょろきょろと辺りを見回してみるものの、どうにも見たことのない景色だ。

「お姉ちゃん、過去を見てどうだった?」

霧の中から現れたのは白いワンピースを着た少女。

「彼があんなにも頼もしい人なのだと今になって漸く分かったわ。
 いつも優しくて穏やかで、何をするにも優雅な人だから……意外だった。
 でも、力を貰えたわ。私も今できることをしなきゃって。
 ――それで、貴女はだあれ?」

頭の中は極めて混乱していたが努めて冷静さを保ちつつ、少女に優しく問いかける。
彼女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でた。

「――私はリグレス」

顔を上げずに少女は口を開く。

「リグレスちゃんね。
 貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?
 どうして私を知っているの?」

少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。

「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸って……?」
「お姉ちゃん、知らないの?
 ……それもそうよね。
 普段は誰にも見えない大陸だからおとぎ話くらいしか出てこないもの」
「そんなおとぎ話の大陸にどうして私を呼んだの?」
「私がお姉ちゃんを呼んだのは……会ってみたかったから。
 この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんにね」

少女は静かに瞳を閉じる。

「リグレスちゃん、貴女は一体……?」

そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。

「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
 私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
 私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私がこの世界にいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
 最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
 でも、不運にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
 いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
 そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」

――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。

「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
 私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
 なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
 そして次々と世界を変えていく……」

少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。

「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
 どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
 私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
 ――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
 こんなのって不公平過ぎる……っ」

両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。

「……それに、この世界は良からぬ方向に変わっていってるの。
 介入者の数だけ、未来は分岐していってる。
 それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているわ。
 このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」

そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。

「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
 こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
 私、迷子になっちゃう……」
「リグレスちゃん……」

彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
自分も死を目の当たりにした時、足元が崩れ落ちて真っ逆さまに落ちていくような不安に襲われた。
何もかもを恨めしく思えたし、途轍もなく未練が残った。

――それでも……この世界に戻ってこれた。

リグレスの話と自分の存在を突き詰めて考えると、という人間は改めて死んだのだということが分かる。
しかし、宝玉と皆の願いによって生き返ることができた。
元の世界ではなく、こちらの世界で。
それはこちらの世界だからこそのことだったのだ。
宝玉の力が万能だとしても、魔法の力が及ばない元の世界では生き返れない筈である。
それに死んでしまった自分の居場所はもうこの世界に移っていたから、皆の祈りでこの世界に“”として形を成せたのだろう。
そしてどんな魔法を用いても実質不可能な生き返りができたのも、宝玉の力だけでなく、
リグレスが言ったようにこの世界が人々の願いと祈りで作られたことに所以するのだ。

そうやって考えていくと、そもそも自分がこの世界にやってきた理由がなんとなく分かった気がする。
自分は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。

「――リグレスちゃん、私の言うことは全部推測でしかないんだけど聞いてもらえる?」

そう前置きして、彼女に向かって話し始める。

「私は誰かに呼ばれてこの世界に来た気がする。
 はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
 ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
 ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
 ……きっとその入り口は、この世界を良くしたいと願った人が作ったんだと思うの。
 もしかしたらリグレスちゃんのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
 でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で形と成ったんだわ。
 だから私は今、この世界にいるのよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
 いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」 
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」

そう言って自分の胸に手を当てる。

「ここよ、人の心の中にあるのよ。
 この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
 そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
 でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”よ。
 だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
 でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
 貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」

いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。

「――お姉ちゃんはやっぱり救世主なんだね」
「ううん、本当の救世主は貴女のお姉さんかもしれないよ」
「……そうだね。
 でも……ありがとう、お姉ちゃん」

リグレスはそう言うと穏やかに笑った。




 ――不思議な夢を見ていた気がする。
悲しくて寂しくて温かくて……とても優しい夢。

『ピンポーン』

ソファから起き上がると同時に玄関のチャイムが鳴った。
慌てて立ち上がろうとするが、ふとあることを思い出し、ゆっくりと立ち上がる。

、ただいま」
「お帰りなさい」
「遅くなってすまない。
 ……また今夜もエメラルドの瞳はお預けだな」
「そうね。あの子、寝るの早いから」

残念そうに寝室のドアを見つめるレジェンスにクスッと笑みが零れる。

「もう食事は済ませたのか?」
「ううん、レジェンスを待ってたの」
「先に食べていてよかったのに。
 ずっと待っていてお腹が空いただろう?」
「いいのよ、今日はちょっと特別なの」
「特別? 一体、何だろう」

そう言ってレジェンスはリビングダイニングのドアを開ける。
テーブルの上には花を飾り付け、いつもよりも少し豪華な食事が。

「……今日は特別な記念日だったかな?
 私としたことが全く覚えていない」
「ううん、レジェンスが正しいわよ。
 今日はね、記念日っていうわけじゃないの。
 でもね――」

そう言って、私は机の上に裏返しにして置いていた母子手帳を取ってレジェンスに見せた。

「2人目、授かりました」
「そうなのか!? それは祝わねばな!」

パァっと頬を薔薇色にしてレジェンスは喜ぶ。
そんな夫の姿を見て嬉しさが倍増した。

「ここのところ何だか身体がだるかったから病院に行ったのよ。
 そしたら妊娠してるって分かってね。
 先生にまだ安定期じゃないから暫くは大人しくしとくように、って言われちゃった。
 ほら私ってすぐバタバタ走り回っちゃうから」
「ははっ、違いない。
 これからは身体をいっそう大事にせねばな」
「暫くは美味しいワインも我慢しなきゃね」
「じゃあ私も付き合おう」

そう言うと、席に着いたレジェンスはワイングラスにミネラルウォーターを注いだ。
私もお腹に力を入れないように椅子に座る。

目の前に存在するレジェンス、一人はまだ人間の形すらしていないけれど二人の間にできた子どもたち、
そして温かい風、揺れる花、空を飛ぶ鳥――これら全ても人々の想いと願い、
死した者の新たな魂の輝きによって作られた存在だなんて、今まで全く考えたこともなかった。
当たり前のように生きていたけれど、この世界に込められた優しい祈りに包まれて今まで自分は生きてきたのだ。
この優しさに溢れた世界をリグレスは何と呼んでいたのだろう。

……リグレスがこの世界の核と言うならば――

――Regres――

そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。












  〜エピローグ〜


 「新しい命に」
「この世界の全てに感謝して――」

レジェンスと私は静かにミネラルウォーターを掲げる。

「「乾杯」」

ニコッと笑い、二人ともグラスに口を付けた。
今までになく美味しい水。

「ねぇ、レジェンス。
 私、生き返った時点ではもう過去のことになっていたから今までじっくり考えたことがなかったけど、大陸を救うのって大変だったでしょう?」
「ああ、そうだな」
「バーン国と和平を結ぶだけでも大変だったろうな、って」
「ああ。しかし、カルトス殿が色々と父の我儘を聞いてくれてな。
 最終的に私も父を説得することに成功して、全てを任されることになったのだ」

少し目を伏せて過去を懐かしんでいるレジェンスはやはりもう出会った頃の麗しい王子様ではなかった。
自分の仕事に責任を持ち、信念を持って行動する青年である。

「……それで大陸を救った後、すぐに私を生き返らせに来てくれたのよね?
 大仕事が終わったんだから、暫くゆっくり休めば良かったのに」
「休もうと思う気持ち以上に、早くそなたに知らせたかった。
 そなたが望んだ平和な世になったことを、そなたが愛した大陸を無事に救えたことを。
 ――それに、何だか確信があったのだ。
 ラスティア山に行けば、そなたが生き返ることができる、と。
 我々は力の限り努力したからな、神が褒美をくれるような気がした」
「そうだったの……。
 ありがとね、レジェンス」
「いや、感謝を言うのは私の方だ。
 そなたのお陰でこの大陸は救われた。
 私の人生も大きく変わった。
 全部、そなたとの出会いがあったがゆえ――」

そう言うと、レジェンスはグラスから手を離して手を伸ばし、私の手にそっと触れる。

「――ありがとう、
「レジェンス……」

彼の手の温もりと優しい眼差しが私を幸せな気持ちで満たす。
レジェンスの傍にいられるだけでも自分は幸せなのに、可愛い子どもともう1人の新しい命まで授かった。

この世界にやってこれて本当に良かった。

――そう思いながら彼の手を握り返した。




















――介入を終了する――