ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。
――君を一番必要としている者のところに行くんだ。
レディネスが言っていたことを思い出す。
……そうだ、私はランくんに会う為にここに来たんだ。
静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から波紋のようにある景色が広がっていく。
茜色の空と海――私の見知らぬ景色だ。
波の音が響く中、ふと気付いたのは砂浜にポツリと見える小さな影。
あれは――ランくん?
彼は子どものように小さく身体を丸めて砂浜に座っていた。
「ランくん、どうしたの?」
ゆっくり彼の元に近寄り呼びかけても彼はこちらを振り向かない。
こちらの声も気配すらも感じない様子でぼんやりと砂を弄っている。
「ねぇ、ランく――」
「――…」
突然そう言うと、ランは両手を地面にぴたりとくっつけた。
すると両手の間から砂が盛り上がり、山のようなものが現れる。
その山は人の像であった。
「……私…?」
彼の隣に膝を付き、砂の像を見つめると自分そっくりである。
「……ボクはずっと魔法が使えないと思ってたけど……
でも、君の言葉を信じて、自分の力を信じたら…魔法、使えたよ。
だけど――」
どんなに魔力が強い人でも死んだ人を生き返らせることはできないんだ――と、彼はボロボロと涙を零した。
その言葉でピンと来る。
恐らく今、目の前で起こっていることは私がこの世界から消えてしまった後の事。
レディネスが言っていたではないか。
今、こっちの世界は異次元のようになっていてね。
一歩、家の外に出ただけなのに全然違う土地へ行ってしまったり、
それどころか違う時代に繋がることもあって、とても危険なんだ。
――と。
自分は現在のランではなく、過去のランの所へ来てしまったのだろう。
しかし、その当時この世界に存在しなかった自分は、時空を超えてやって来たとしてもその時の彼とは関われない。
悲しみに打ちひしがれているランの震える肩を抱きしめてやることもできないことが悔しい。
いつも明るくて元気な彼が、こんなにも悲愴な表情で苦しんでいたなんて全然知らなかった。
「……ランくんに会いたい」
願いが言葉となって零れ落ちる。
過去に来てしまったということは、現在進行形で今を生きているランは
レディネスが言ったように自分と過ごした記憶を失いかけているかもしれないと思ったのだ。
どうにかして早く今に戻らねば――と焦る気持ちを抑えられず辺りをうろつく。
「――介入者……見つけた」
瞬間、心がざわつく。
ランと自分しかいない筈の空間で確実に空耳ではない程のはっきりした声が聞こえた。
「――お姉ちゃん、こっちに来てよ」
誰かが呼んでいる。
小学生くらいの女の子のような可愛らしい声。
「――ここにいたんだね、介入者のお姉ちゃん――」
突如、真後ろから聞こえた声に驚き振り向く。
するとそれまでの海辺の景色がガラリと変わっていた。
自分の足元には一面の花畑が広がる。
遠くは霧でぼんやりと白んでいるが、花畑はずっと地平線の先まで繋がっていそうだった。
状況がまったく掴めずにグルグルと回って辺りを見回すが、どうにも見たことのない景色だ。
先程目の前にいたランの姿もない。
「お姉ちゃん、過去を見てどうだった?」
霧の中から現れたのは白いワンピースを着た少女。
「ランくん――夫があんなに悲しんでいたなんて今まで知らなかった。
私もとても悲しい気持ちになったわ。
――それで、貴女はだあれ?」
頭の中は極めて混乱していたが努めて冷静さを保ちつつ、少女に優しく問いかける。
彼女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でた。
「――私はリグレス」
顔を上げずに少女は口を開く。
「リグレスちゃんね。
貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?
どうして私を知っているの?」
少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。
「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸って……?」
「お姉ちゃん、知らないの?
……それもそうよね。
普段は誰にも見えない大陸だからおとぎ話くらいしか出てこないもの」
「そんなおとぎ話の大陸にどうして私を呼んだの?」
「私がお姉ちゃんを呼んだのは……会ってみたかったから。
この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんにね」
少女は静かに瞳を閉じる。
「リグレスちゃん、貴女は一体……?」
そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。
「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私がこの世界にいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
でも、不運にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」
――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。
「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
そして次々と世界を変えていく……」
少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。
「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
こんなのって不公平過ぎる……っ」
両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。
「……それに、この世界は良からぬ方向に変わっていってるの。
介入者の数だけ、未来は分岐していってる。
それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているわ。
このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」
そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。
「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
私、迷子になっちゃう……」
「リグレスちゃん……」
彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
自分も死を目の当たりにした時、足元が崩れ落ちて真っ逆さまに落ちていくような不安に襲われた。
何もかもを恨めしく思えたし、途轍もなく未練が残った。
――それでも……この世界に戻ってこれた。
リグレスの話と自分の存在を突き詰めて考えると、という人間は改めて死んだのだということが分かる。
しかし、宝玉と皆の願いによって生き返ることができた。
元の世界ではなく、こちらの世界で。
それはこちらの世界だからこそのことだったのだ。
宝玉の力が万能だとしても、魔法の力が及ばない元の世界では生き返れない筈である。
それに死んでしまった自分の居場所はもうこの世界に移っていたから、皆の祈りでこの世界に“”として形を成せたのだろう。
そしてどんな魔法を用いても実質不可能な生き返りができたのも、
リグレスが言ったようにこの世界が人々の願いと祈りで作られたことに所以するのだ。
そうやって考えていくと、そもそも自分がこの世界にやってきた理由がなんとなく分かった気がする。
自分は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。
「――リグレスちゃん、私の言うことは全部推測でしかないんだけど聞いてもらえる?」
そう前置きして、彼女に向かって話し始める。
「私は誰かに呼ばれてこの世界に来た気がする。
はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
……きっとその入り口は、この世界を良くしたいと願った人が作ったんだと思うの。
もしかしたらリグレスちゃんのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で形と成ったんだわ。
だから私は今、この世界にいるのよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」
そう言って自分の胸に手を当てる。
「ここよ、人の心の中にあるのよ。
この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”よ。
だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」
いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。
「――お姉ちゃんはやっぱり救世主なんだね」
「ううん、本当の救世主は貴女のお姉さんかもしれないよ」
「……そうだね。
でも……ありがとう、お姉ちゃん」
リグレスはそう言うと穏やかに笑った。
――不思議な夢を見ていた気がする。
悲しくて寂しくて温かくて……とても優しい夢。
「いらっしゃ……あ、」
ドアを開けた時のカランという貝殻の音と、ランの声で我に返る。
先程の夢のような出来事はランの店のドアを開けたその一瞬の事だったのだろうか。
「どうしたの? 何かあった?」
「あ、ううん。特に何かあったわけじゃないんだけど、おやつを差し入れに来たの。
今日のお弁当、少しボリュームが少なかったかなと思って」
「うわぁ、ありがとう」
嬉しそうにランは笑った。
出会った頃から比べると、今はずっと逞しくて穏やかな青年の顔になったものの、
笑った顔は以前と変わらず無邪気で可愛らしい。
そんな彼を見ると、現在の彼には特に何の影響もなく全て丸く収まったらしいことが何となく感じ取れる。
「……いつも思うけど、ランくんって器用だよね。
ここのアクセサリーの殆ど、ランくんの手作りでしょ?」
「うん、そうだよ」
お店に並べられているアクセサリーをぐるっと眺める。
羽根がモチーフになったもの、天然石が編み込まれたものなど、色々なものが置かれている。
「全部自分の手で作るの? 魔法とか使ったりする?」
「殆ど自分の手で加工するかな。
魔法でこういう細かいものを作れる程、ボク、魔法が得意じゃないから」
「そっか。それでも自分で作れちゃうんだから凄いな。
どれも可愛かったり恰好良かったりセンスいいし……」
「あはっ、ありがとう。
――あ、でもね。
ボク、一つだけ得意な魔法があるんだよ」
「へぇ……」
そう言った後でパッと先程の茜色の光景がフラッシュバックした。
私の砂の像を作り、その前で涙を流していた彼が目の前にいる彼と重なる。
「……どんな魔法?」
「んー……恥ずかしいから内緒」
「え〜教えてよ」
「ふふっ、だーめ」
「珍しくランくんが意地悪……」
何だか泣きそうになったのを誤魔化したくて、彼の腕に抱きついて額を押しつけた。
――私の為に魔法が使えるようになったランくん。
私を何とかして再びこの世界に生き返らせたいと願ってくれたランくん。
ありがとう……。
「……じゃあ今度さ、定休日に博物館に行こうか」
大人しくなった私を見ていたたまれなくなったのか、彼はそっと頭を撫でた。
「博物館…? いいけど、急にどうして?」
「そこにボクの魔法の成果があるんだ」
「成果…?」
「あんまり大したことないけど……でも、久しぶりのデートだし楽しみにしててよ、」
「うん……ありがとう、ランくん」
私を愛しこの世界に再び作り出してくれて、そして私をこの世界に繋ぎとめてくれたラン。
彼だけではなく、温かい風、揺れる花、空を飛ぶ鳥たち――これら全ても人々の想いと願い、
そして死した者の新たな魂の輝きによって作られている。
なんて愛しい世界に私は生れてきたのだ。
この優しさに溢れた世界をリグレスは何と呼んでいたのだろう。
……リグレスがこの世界の核と言うならば――
――Regres――
そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。
〜エピローグ〜
「……もしかして、ランくんの魔法の成果って…」
「うん、そうだよ。
……でも、一目見ただけでよく分かったね」
数日後、二人は早朝から出発し、アークバーン大陸を縦断する魔動汽鉄というこちらでいうところの蒸気機関車に乗り、
旧バーン国城をそのまま利用して作られた博物館にやって来た。
そして入り口の扉を開けた瞬間、私は立ちつくす。
博物館に足を踏み入れて最初に目に入る大きな銅像。
その銅像はまさしく私の像だった。
台座のプレートには“救世主像”と刻まれている。
「……ちょこっと私の像が建てられてるって話は聞いたことがあったけど、
こんなにも立派で、且つ、そっくりな像だとは……」
「あんまりじっくり見られると恥ずかしいんだけどな」
「私自身も何だか恥ずかしくなってきたよ」
自分の像が堂々と飾られているのは何だかとてもこそばゆい感じだった。
それに特に自分はこの大陸を救ったつもりもない。
ただ、“想い”は想像以上の力を生み出すということを書き残しただけだ。
「――が消えてしまった後ね。ボク、物凄く落ち込んでさ…。
ずっと君の面影を求めては魔法で君の像を作ってたんだ」
当時を思い出しているのだろう。
像を見つめるランの瞳が少し悲しげに揺れる。
「でも、皆に励まされてね。
君の想いを無駄にしない為にも大陸を救おうって思うようになったんだ。
そして、この像を作ったんだよ。
君に危機を乗り越え、平和になった大陸を見せる為に……」
「ランくん……」
彼の腕にそっと触れる。
「――ありがとう、。
君がいたからこの大陸は大きくいい方向に変わった。
ボクも……ほんの少しだけだけど強くなれたと思う」
「私の方こそ……」
涙で彼の笑顔が滲む。
「この世界に呼び戻してくれてありがとう。
私を……好きになってくれて、ありがとう……」
そう言うと、彼は私の涙を拭った後、周りの目も気にせず額にキスを落とした。
――介入を終了する――