ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。

――君を一番必要としている者のところに行くんだ。

レディネスが言っていたことを思い出す。

……そうだ、私はレノンさんに会う為にここに来たんだ。

静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から見慣れた景色が波紋のように広がっていく。



 二つのマグカップにハーブティーを注ぎ、トレイに載せるとリビングに持っていく。
今日は温かいので庭向かいの大きな窓はずっと開放しており、時折レースのカーテンがひらひらと揺れる。
自分の分をリビングのテーブルに置き、もう一つのカップは窓から庭に出て小さなテーブルの上に置く。

「レノンさん、ここにハーブティー置いとくね」
「ああ、ありがとう」

庭で黙々と木刀を振って鍛練をしていたレノンは一旦、腕を下ろしてこちらに向き直る。
そして首にかけていたタオルで額の汗を拭うと、再び木刀を振り始めた。
結婚して数年が経ち、子どもも生まれて3人家族になったが、
レノンの行動は基本的に植物に向かっているか、身体を鍛えているか、読書をしているか、育児をするかのどれかである。
それがあまりにも規則正しく行われるので、何だか邪魔をするのは申し訳ない気分になり、
特に用はないものの傍にいたいと思うような時であっても、なかなか彼に甘えることができないのであった。

そんなわけで、自分の子どもから彼の仕事、はたまた植物にまで嫉妬することもある。
彼は自分も子どもも仕事も植物も、何もかもを平等に大切にしているのは分かるのだが、
それでも“特別”な部分が欲しいと思うのも確かな気持ち。
もっと素直に甘えようといつも思うんだけど、実行できてないんだよなぁ――と彼の背中を見つめながら苦笑する。

「――介入者……見つけた」

瞬間、心がざわつく。
自分たち夫婦しかいない筈の庭で確実に空耳ではない程のはっきりした声が聞こえたのだ。

「――お姉ちゃん、こっちに来てよ」

誰かが呼んでいる。
小学生くらいの女の子のような可愛らしい声。

「話をしましょ、介入者のお姉ちゃん――」

突如、真後ろから聞こえた声に驚き振り向く。
するとリビングである筈の景色は全く見たことのない景色に変わっていた。
窓の向こうには辺り一面の真っ白な世界が広がっている。

「――え…っ?」

思わず一歩後ずさろうとしたが、足が地面に張り付いてしまったかのように動かない。
すると窓の向こうの白い世界から誰かが近づいてくるのが見える。
白いワンピースを着た少女、先程の声の主だろうか。
その彼女と目が合ったと同時に身体に白い霧がまとわりつく。
実体がないにもかかわらず、紐で硬く縛られたような感覚。
身体が少しずつ白い世界へ引き寄せられていく。

「――れ…レノンさん……っ!!」

動揺しすぎて出せなかった声を何とか絞り出し、後ろにいる彼の名を呼ぶ。
声を聞き、こちらの様子がただ事でないと気付いた彼は咄嗟に戦闘態勢でこちらを振り向くが、一瞬、理解不能な表情を浮かべた。
百戦錬磨のレノンが存在に気づかなかったのだから、やはりこの霧のようなものは実体がないのだろう。
しかし、強い力で私を窓の向こうの世界へ連れて行こうとしているのは分かった。
先程の少女の声は次第に大きくなってくる。
彼女がこの霧を操っているのだろうか。
だが、一体どうして――

「――!!」

背中から次第に窓に吸い込まれるような感覚の中、レノンが追いかけてくるのが見える。

「レノンさん……っ!」

必死に伸ばした手を彼が掴んだと同時に、眩しい光に覆われ思わず目を瞑った。
微かに木刀が転がる音が聞こえた気がした。






 「――ここは……」

目の奥まで突き抜けるような眩しい光の感覚が和らいだのでゆっくり目を開けると、
そこには霧がかった花畑が広がっていた。
自分はどうやらその花畑の中で倒れているようだ。
すぐに左手に感じる温もりに気付き、視線を移すとレノンの右手がしっかりと握られている。

「大丈夫か?」
「うん、私は大丈夫。レノンさんは?」
「なんともない」

そう言うと彼は立ち上がり、手を差し伸べた。
その手に掴まって立ち上がり、辺りを見回す。

「ここは一体、どこなんだろうね」
「……全然見当もつかぬ」

隣にいる彼の腕に手を伸ばした。
未だに状況は掴めないけれど、レノンと一緒なら心強い。

「――お姉ちゃん、愛されてるんだね。
 お姉ちゃんしか呼んでないのに、そのお兄ちゃんったら強引にこっちの世界に割り込んじゃった」

背後からの声に驚き、二人は同時に振り返った。
すると少女が立っている。

「貴女……だあれ?」

少女に優しく問いかける。
白いワンピースを着た少女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でる。

「――私はリグレス」

顔を上げずに少女は口を開く。

「リグレスちゃんね。
 貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?」

少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。

「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸……? 聞いたことがない」
「二人とも知らないの?
 ……それもそうよね。
 普段は誰にも見えない大陸だからおとぎ話くらいしか出てこないもの」
「そんなおとぎ話の大陸にどうして私を呼んだの?」
「私がお姉ちゃんを呼んだのは……会ってみたかったから。
 この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんにね」

少女は静かに瞳を閉じる。

「リグレスちゃん、貴女は一体……?」

そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。

「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
 私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
 私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私がこの世界にいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
 最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
 でも、不運にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
 いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
 そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」

――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。

「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
 私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
 なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
 そして次々と世界を変えていく……」

少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。

「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
 どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
 私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
 ――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
 こんなのって不公平過ぎる……っ」

両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。

「……それに、この世界は良からぬ方向に変わっていってるの。
 介入者の数だけ、未来は分岐していってる。
 それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているわ。
 このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」

そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。

「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
 こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
 私、迷子になっちゃう……」
「リグレスちゃん……」

彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
自分も死を目の当たりにした時、足元が崩れ落ちて真っ逆さまに落ちていくような不安に襲われた。
何もかもを恨めしく思えたし、途轍もなく未練が残った。

――それでも……この世界に戻ってこれた。

リグレスの話と自分の存在を突き詰めて考えると、という人間は改めて死んだのだということが分かる。
しかし、宝玉と皆の願いによって生き返ることができた。
元の世界ではなく、こちらの世界で。
それはこちらの世界だからこそのことだったのだ。
宝玉の力が万能だとしても、魔法の力が及ばない元の世界では生き返れない筈である。
それに死んでしまった自分の居場所はもうこの世界に移っていたから、皆の祈りでこの世界に“”として形を成せたのだろう。
そしてどんな魔法を用いても実質不可能な生き返りができたのも、
リグレスが言ったようにこの世界が人々の願いと祈りで作られたことに所以するのだ。

そうやって考えていくと、そもそも自分がこの世界にやってきた理由がなんとなく分かった気がする。
自分は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。

「――リグレスちゃん、私の言うことは全部推測でしかないんだけど聞いてもらえる?」

そう前置きして、彼女に向かって話し始める。

「私は誰かに呼ばれてこの世界に来た気がする。
 はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
 ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
 ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
 ……きっとその入り口は、この世界を良くしたいと願った人が作ったんだと思うの。
 もしかしたらリグレスちゃんのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
 でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で形と成ったんだわ。
 だから私は今、この世界にいるのよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
 いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」 
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」

そう言って自分の胸に手を当てる。

「ここよ、人の心の中にあるのよ。
 この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
 そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
 でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”。
 だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
 でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
 貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」

いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。

「――お姉ちゃんはやっぱり救世主なんだね」
「ううん、本当の救世主は貴女のお姉さんかもしれないよ」
「……そうだね。
 でも……ありがとう、お姉ちゃん」

リグレスはそう言うと穏やかに笑った。






 ――長いな夢を見ていたような感じがする。


気がつくと二人は手をつないだままリビングの窓辺に腰掛けていた。
どうやら互いにもたれて眠っていたらしい。

「……レノンさん」
「どうした?」

そっと彼の肩に頭をのせる。
何だか心は温かい気持ちで満ちていた。

「リグレスに言ったことは私の推測にしか過ぎないけど、でも……」
の言った通りだと思う。
 いや、言った通りであって欲しい……だな」

レノンが優しく頭を撫でる。
暮れていく太陽を眺めながら私は頷いた。
レノンだけでなく、この世界の全てが愛しいと思う気持ちが溢れてくる。
この世界が優しい気持ちで満ちているのを実感する。
その優しさが神の加護であり、世界そのものを形作っているだなんて。
この素晴らしい世界をリグレスは何と呼んでいたのだろう。

……彼女がこの世界の核と言うならば――


――Regres――


そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。












  〜エピローグ〜


 「……これからはもっと色んなことに感謝するようにしようっと」
「ああ」

伸びをしながら呟くと、レノンも穏やかな表情で頷く。

「あと、植物に妬くのも止める」
「……妬いていたのか?」

驚いた様子で彼がそう言うので、素直に頷いた。

「植物の方が毎日色々手入れされて大切にされてるみたいに見えたから……ちょっと寂しかったの」
……」
「でも、そんな風に人も自然も全てを同じように大切にするレノンさんだから好きになったのよ、私。
 ――今回のことでレノンさんを好きになった時の気持ち、思い出した」
「…そうか」
「うん」

笑顔で頷くと、レノンは少し頬を赤くしながら笑った。

「じゃあ、お風呂沸かすね。
 あ、あの子のオムツも見てこなきゃ」
「――…」

立ち上がろうとした瞬間、手を掴まれ抱き寄せられる。

「レノンさ…ん?」
「――ありがとう」

頭の上から静かに聞こえる彼の低い声。

「おぬしのお陰でこの大陸は救われた。
 世界も……きっと救われていると思う。
 勿論、俺自身も」
「レノンさん……」
 
微かに感じる温もりでも確かな幸せの証。


――ありがとう――




















――介入を終了する――