ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。
――君を一番必要としている者のところに行くんだ。
レディネスが言っていたことを思い出す。
……そうだ、私はカルトスに会う為にここに来たのだ。
静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から見慣れた景色が波紋のように広がっていく。
玄関のチャイムが鳴る。
私は鍋の火を弱め、手を洗うと玄関へ急いだ。
「お帰りなさい」
「ただいま、」
「今日もお仕事お疲れ様。
先にお風呂にするでしょ?」
「ああ」
いつもと同じように彼は私の腰に手を添えて、ただいまのキスを頬に落とす。
そんな当たり前のように思っていた風景が何だかとても愛おしい。
レディネスの言っていた病気には、まだカルトスはかかっていなかったのだろうと思い、
にっこり笑って台所に戻ると、再び料理を続ける。
「……ああ、そういえば今日、困ったことがあってな」
「あら、どうしたの?」
風呂場へ向かおうとしていたカルトスが足を止めた。
「出先でいい鍛冶屋を見つけてな。
美しく切れ味もよさそうな刀を見つけたものだからレノンに送ってやろうと思ったのだが……、
レノンのフルネームが全然浮かばなかったんだ。こんな年でど忘れするなんて、かなり焦ったぞ」
その言葉に背中が一気に寒くなる。
カルトスにとってレノンは命すら預けることのできる大切な存在だ。
そんな彼のフルネームをカルトスが忘れる筈がない。
「…それで、結局、住所も覚えていなかったからアドレス帳を確認して解決したのだが……
今、お前の顔を見た途端にすっと思い出せた。
俺としてはホッとしたものの、一体、何なのだろうな?
疲れているのだろうか」
そう言ってカルトスは苦笑する。
「……そうね、疲れてたのよ」
どうやら間一髪だったようだ。
私はホッと胸を撫でおろす。
もう少し後にカルトスと会っていたら、彼は完全にレノンのことだけでなく私のことも忘れていたかもしれない。
「有休を取れといつも煩く言われているし、今度まとめて取るかな」
「うん、いいんじゃない。
たまにはのんびり過ごす日があってもいいわよ」
涙が出そうなくらいに安心したものの、ここで泣いては彼を心配させるだけなので
なんとか泣かないように気をつけながら彼に微笑みかけた。
「ジッカラートに来てからまだ旅行もしたことがなかったな」
「そうだね。
でも、カルトスはいつも忙しいし、あまりここを離れられない仕事してるんだから仕方ないよ」
「それもそうだが……。
お前は寂しくはないか? 退屈していないか?」
「私?
私は毎日楽しいよ。カルトスと一緒にいられるだけで幸せ」
「そうか……ありがとう、」
着替えを抱えていない方の手でカルトスが抱きしめる。
暫し二人は無言で寄り添った。
「――あ、お鍋焦げちゃう」
「そうだな、悪かった。
じゃあ、先に湯をいただくぞ」
「うん、どうぞごゆっくり」
そうして彼は風呂場へ、自分はコンロにかけている鍋のところへと向かう。
慌てて鍋の中を見たが、まだ焦げてはいなかったようだ。
ホッとしてひと混ぜし、火を落とす。
「――あ、タオル…」
ふとカルトスが着替えだけしか持って行っていなかったことを思い出した。
慌てて洗濯したてのバスタオルを持って行く。
――すると、脱衣所のドアを開けた途端、眩しい光に襲われた。
ドアの向こうは辺り一面真っ白な世界が広がっている。
何が起こっているのか理解不能だったが、次の瞬間、レディネスの言葉を思い出した。
今、こっちの世界は異次元のようになっていてね。
一歩、家の外に出ただけなのに全然違う土地へ行ってしまったり、
それどころか違う時代に繋がることもあって、とても危険なんだよ。
彼の言葉を思い返してみて、なんとなくピンとくる。
ここは――時空の狭間だ。
「――介入者……見つけた」
心がざわつく。
誰かの声が聞こえた。
「――お姉ちゃん、こっちに来てよ」
誰かが自分を呼んでいる。
小学生くらいの女の子のような可愛らしい声だ。
「……誰か私を呼んでる……」
辺りを見回してみたが、それらしい人影は全く見当たらない。
しかし、頭の中に直接呼びかけるようなはっきりとした少女の声はずっと自分を招いている。
一体、何がどうなっているのか、その少女が誰なのか、
第一、この白い空間はちゃんとした地面があるかどうかも分らなかったが、声に導かれるままドアの向こうに足を踏み出した。
そうして何となく声のする方向へ向かう。
前に進んでいるかも分らないし、この先に何があるのかも分からないが、声は次第に大きく鮮明に聞こえてきた。
「――よく来たね、介入者のお姉ちゃん――」
突如、真後ろから聞こえた声で足が止まる。
慌てて振り向いた先には、これまでの白い世界ではなく、霧がかった花畑が広がっていた。
もう一度振り返ると、前方も花畑に変わっている。
状況がまったく掴めずにグルグルと回って辺りを見回すが、どうにも見たことのない景色だ。
「お姉ちゃん、来てくれたのね」
霧の中から現れたのは白いワンピースを着た少女。
「ええ……貴女が何度も私を呼ぶから…」
「そう…。お姉ちゃんって救世主って呼ばれてるだけ、勇気があるわね」
「勇気…? そういうのじゃない気がする。
ただ私は呼ばれるがままにやってきただけよ。
――それで、貴女はだあれ?」
頭の中は極めて混乱していたが努めて冷静さを保ちつつ、少女に優しく問いかける。
彼女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でた。
「――私はリグレス」
顔を上げずに少女は口を開く。
「リグレスちゃんね。
貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?
どうして私を知っているの?」
少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。
「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸って……?」
「お姉ちゃん、知らないの?
……それもそうよね。
普段は誰にも見えない大陸だからおとぎ話くらいしか出てこないもの」
「そんなおとぎ話の大陸にどうして私を呼んだの?」
「私がお姉ちゃんを呼んだのは……会ってみたかったから。
この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんにね」
少女は静かに瞳を閉じる。
「リグレスちゃん、貴女は一体……?」
そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。
「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私がこの世界にいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
でも、不運にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」
――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。
「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
そして次々と世界を変えていく……」
少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。
「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
こんなのって不公平過ぎる……っ」
両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。
「……それに、この世界は良からぬ方向に変わっていってるの。
介入者の数だけ、未来はは分岐していってる。
それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているわ。
このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」
そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。
「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
私、迷子になっちゃう……」
「リグレスちゃん……」
彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
自分も死を目の当たりにした時、足元が崩れ落ちて真っ逆さまに落ちていくような不安に襲われた。
何もかもを恨めしく思えたし、途轍もなく未練が残った。
――それでも……この世界に戻ってこれた。
リグレスの話と自分の存在を突き詰めて考えると、という人間は改めて死んだのだということが分かる。
しかし、宝玉と皆の願いによって生き返ることができた。
元の世界ではなく、こちらの世界で。
それはこちらの世界だからこそのことだったのだ。
宝玉の力が万能だとしても、魔法の力が及ばない元の世界では生き返れない筈である。
それに死んでしまった自分の居場所はもうこの世界に移っていたから、皆の祈りでこの世界に“”として形を成せたのだろう。
そしてどんな魔法を用いても実質不可能な生き返りができたのも、
リグレスが言ったようにこの世界が人々の願いと祈りで作られたことに所以するのだ。
そうやって考えていくと、そもそも自分がこの世界にやってきた理由がなんとなく分かった気がする。
自分は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。
「――リグレスちゃん、私の言うことは全部推測でしかないんだけど聞いてもらえる?」
そう前置きして、彼女に向かって話し始める。
「私は誰かに呼ばれてこの世界に来た気がする。
はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
……きっとその入り口は、この世界を良くしたいと願った人が作ったんだと思うの。
もしかしたらリグレスちゃんのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で形と成ったんだわ。
だから私は今、ここにいるのよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」
そう言って自分の胸に手を当てる。
「ここよ、人の心の中にあるのよ。
この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”よ。
だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」
いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。
「――お姉ちゃんはやっぱり救世主なんだね」
「ううん、本当の救世主は貴女のお姉さんかもしれないよ」
「……そうだね。
でも……ありがとう、お姉ちゃん」
リグレスはそう言うと穏やかに笑った。
――うまくは説明できないけど、頭の中で何となく理解できたような気がする。
そんな風に漠然と思いながらリグレスと手を振って別れて踵を返すと、目の前に見慣れたドアが現れた。
そしてそのドアを開くと、いつもの脱衣所の光景が広がる。
風呂場の方からは勢いよく流れるシャワーの音。
何だか妙に安心した。
「カルトス、タオルここに置いとくよ」
「ああ、ありがとう。すっかり忘れていたな」
彼の声がとても温かく胸に沁み入ってくる。
そっとタオルを着替えの前に置くと、台所へゆっくり戻った。
目から温かい涙が溢れ出す。
彼がいて、私がいる、そんな当たり前のように思っていた世界の有り難さが心に降り注ぐ。
自分をこの世界に繋ぎとめてくれる愛しい人――カルトス。
「貴方も人の想いの欠片で作られた存在だったのね……」
温かい風、揺れる花、空を飛ぶ鳥たち――全て人々の想いと願い、そして死した者の新たな魂の輝きによって作られている存在なのだ。
優しさに溢れたこの世界をリグレスは何と呼んでいたのだろう。
……リグレスがこの世界の核と言うならば――
――Regres――
そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。
〜エピローグ〜
『ピンポーン』
「はーい!」
食事の準備も終わり、カルトスも風呂から上がったので、さあ夕食にしようと思っていた時、
玄関のチャイムが鳴った。
「様にお届けものです」
「ありがとうございます……」
玄関の向こうから配達人が持ってきた鉢植えの花の可愛らしさに思わずサインをする手が止まった。
しかし、受領書を受け取って立ち去ろうとした配達人に慌てて差出人を訪ねる。
「カルトス様……あ、ご主人様からですね」
「え?」
驚いて後ろを振り向く。
するとカルトスはにっこり笑っていた。
「ありがとう、可愛いお花ね。
でも、どうして?
今日、何かの記念日だったっけ?」
「今日はがこの世界で新たに生まれた日だろう?」
「え……」
すっかり忘れていたけれど、そういえば毎年この日はカルトスが私の再誕をお祝いしてくれていたのだった。
「ありがとう……」
思わず涙が零れる。
貰った鉢植えを抱えていた私を包むようにカルトスが抱きしめた。
「がこの世界にやって来て、バーン国に来て、出会い、恋に落ちて……
一度は失ったが再びまた一緒にいられることになるなんて、奇跡の連続だと思うのだ。
俺はとても運がいい。
神や仲間たちにどれほど感謝してもしきれないくらいに俺は救われている。
の存在そのものに……」
「私も…カルトスがいて良かった」
彼の胸に首をもたれる。
カルトスは微笑んでそっと涙を拭った。
「薄紫で可愛いお花ね。
何ていう名前なの?」
「カンパニュラ・フラギリス。先日、レノンに教わったのだ。
花言葉は“感謝”らしい」
「素敵ね……」
「庭植えできるそうだから、今度、一緒に植えよう」
「うん」
鉢植えを持つ私の手にカルトスが自分の手を重ねる。
彼の温もりを感じられることがとても幸せだと思った。
――介入を終了する――