ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。
――君を一番必要としている者のところに行くんだ。
レディネスが言っていたことを思い出す。
……そうだ、私はエドワードに会う為にここに来たのだ。
静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から波紋のようにある景色が広がっていく。
見慣れた日常の風景ではない。
しかし、どこか見覚えのある部屋。
窓の外は夜にもかかわらず明りは灯されておらず、暗い室内に噎ぶ声が響いている。
窓からの微かな明かりを頼りに目を凝らして辺りを見回すと、机に突っ伏して泣いている人影が見えた。
「……エドワード…?」
肩を震わせて泣いているその者の長くて美しい髪と仄かに漂う薔薇の香りは絶対に間違えようがない。
目の前にいる人物は最愛の夫のエドワードである。
「エドワード、どうしたの? 大丈夫?」
呼びかけても彼はこちらには気づかない。
ただ声にもならないような泣き声を上げている。
これまで彼の怒る姿は何度も見たことがあったが、このように悲しみに囚われている彼は見たことがない。
一体、どうしたことかと訳が分からずに茫然と彼を見つめる。
「――、どうして……どうして何も言ってくれなかった…」
「え…何を?」
問いかけて見ても彼は答えず話し続ける。
「お前がこの世界から消えてしまうと分かっていたら、
私は大陸よりも先にお前を救う術を探していたのに――っ」
その言葉でピンと来た。
そして改めて周囲を見回す。
すると壁にかかっていたカレンダーで全て解決した。
カレンダーにはAD3450年と書かれている。
AD3450年に自分は死に、その2年後に宝玉の力で生き返ったのだ。
恐らく今、目の前で起こっていることは過去の出来事。
レディネスが言っていたではないか。
今、こっちの世界は異次元のようになっていてね。
一歩、家の外に出ただけなのに全然違う土地へ行ってしまったり、
それどころか違う時代に繋がることもあって、とても危険なんだ。
――と。
自分は現在のエドワードではなく、過去のエドワードの所へ来てしまったのだろう。
そしてこれはきっと自分がこの世界から消えたその日の夜の出来事なのだ。
そうやって考えると、この景色は前日に泊まった宿屋の一室だと判明する。
しかし、その当時この世界に存在しなかった自分は、時空を超えてやって来たとしても彼とは関われない。
悲しみに打ちひしがれているエドワードの震える肩を「大丈夫」と抱きしめて安心させてやることもできないのだ。
「エドワード……ごめんね」
前日に全てを思い出し、自分がもうすぐ消えると分かったといえども、また奇跡的に数年後に生き返ることができるとしても、
何もかも黙ったまま彼を残して死んでしまったことが酷く申し訳ないと思った。
「……エドワードに会いたい」
願いが言葉となって零れ落ちる。
過去に来てしまったということは、現在進行形で今を生きているエドワードは
レディネスが言ったように自分と過ごした記憶を失いかけているかもしれないと思ったのだ。
早く、どうにかして今に戻らねば――と焦る気持ちを抑えられず辺りをうろつく。
「――介入者……見つけた」
瞬間、心がざわつく。
エドワードと自分しかいない筈の空間で確実に空耳ではない程のはっきりした誰かの声が聞こえた。
「――お姉ちゃん、こっちに来てよ」
誰かが呼んでいる。
小学生くらいの女の子のような可愛らしい声。
「――ここにいたんだね、介入者のお姉ちゃん――」
突如、真後ろから聞こえた声に驚き振り向く。
するとそれまで宿の部屋だった辺りの景色がガラリと変わっていた。
自分の足元には一面の花畑が広がる。
遠くは霧でぼんやりと白んでいるが、花畑はずっと地平線の先まで繋がっていそうだった。
状況がまったく掴めずにグルグルと回って辺りを見回すが、どうにも見たことのない景色だ。
先程目の前にいたエドワードの姿もない。
「お姉ちゃん、過去を見てどうだった?」
霧の中から現れたのは白いワンピースを着た少女。
「好きな人の悲しむ姿を見て胸が痛かったかな……。
――それで、貴女はだあれ?」
頭の中は極めて混乱していたが努めて冷静さを保ちつつ、少女に優しく問いかける。
彼女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でた。
「――私はリグレス」
顔を上げずに少女は口を開く。
「リグレスちゃんね。
貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?
どうして私を知っているの?」
少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。
「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸って……?」
「お姉ちゃん、知らないの?
……それもそうよね。
普段は誰にも見えない大陸だからおとぎ話くらいしか出てこないもの」
「そんなおとぎ話の大陸にどうして私を呼んだの?」
「私がお姉ちゃんを呼んだのは……会ってみたかったから。
この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんにね」
少女は静かに瞳を閉じる。
「リグレスちゃん、貴女は一体……?」
そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。
「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私がこの世界にいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
でも、不運にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」
――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。
「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
そして次々と世界を変えていく……」
少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。
「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
こんなのって不公平過ぎる……っ」
両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。
「……それに、この世界は良からぬ方向に変わっていってるの。
介入者の数だけ、未来は分岐していってる。
それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているわ。
このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」
そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。
「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
私、迷子になっちゃう……」
「リグレスちゃん……」
彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
自分も死を目の当たりにした時、足元が崩れ落ちて真っ逆さまに落ちていくような不安に襲われた。
何もかもを恨めしく思えたし、途轍もなく未練が残った。
――それでも……この世界に戻ってこれた。
リグレスの話と自分の存在を突き詰めて考えると、という人間は改めて死んだのだということが分かる。
しかし、宝玉と皆の願いによって生き返ることができた。
元の世界ではなく、こちらの世界で。
それはこちらの世界だからこそのことだったのだ。
宝玉の力が万能だとしても、魔法の力が及ばない元の世界では生き返れない筈である。
それに死んでしまった自分の居場所はもうこの世界に移っていたから、皆の祈りでこの世界に“”として形を成せたのだろう。
そしてどんな魔法を用いても実質不可能な生き返りができたのも、
リグレスが言ったようにこの世界が人々の願いと祈りで作られたことに所以するのだ。
そうやって考えていくと、そもそも自分がこの世界にやってきた理由がなんとなく分かった気がする。
自分は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。
「――リグレスちゃん、私の言うことは全部推測でしかないんだけど聞いてもらえる?」
そう前置きして、彼女に向かって話し始める。
「私は誰かに呼ばれてこの世界に来た気がする。
はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
……きっとその入り口は、この世界を良くしたいと願った人が作ったんだと思うの。
もしかしたらリグレスちゃんのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で形と成ったんだわ。
だから私は今、この世界にいるのよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」
そう言って自分の胸に手を当てる。
「ここよ、人の心の中にあるのよ。
この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”よ。
だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」
いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。
「――お姉ちゃんはやっぱり救世主なんだね」
「ううん、本当の救世主は貴女のお姉さんかもしれないよ」
「……そうだね。
でも……ありがとう、お姉ちゃん」
リグレスはそう言うと穏やかに笑った。
――不思議な夢を見ていた気がする。
悲しくて寂しくて温かくて……とても優しい夢。
「――…ただいま」
聞き慣れた、しかし、何度聞いても飽きたりしない声が頭の上から聞こえて目を開けた。
そこには穏やかな顔のエドワード。
現在のエドワードには特に何の影響もなく全て丸く収まったらしいことが何となく感じ取れる。
「…ん…おかえりなさい」
ぼんやりしたまま両手を伸ばすと、彼は膝を曲げて額にキスを落とした。
彼の首に腕を絡めて頬を寄せると薔薇の香りがふわりと鼻をかすめる。
そのままエドワードは背中に手を差し込んで、ゆっくり私を起き上がらせた。
「ソファで寝ると風邪を引くと言っただろう」
「いつの間にか寝ちゃってたのよ」
「眠いなら先に寝ていていいと連絡したのに……本当にお前と言う奴は」
クシャリと優しく頭を撫でる手の温かさ。
これまで以上にエドワードが愛しく思える。
私を愛しこの世界に再び作り出してくれた人、そして私をこの世界に繋ぎとめてくれる愛しい人。
この彼も元は一度は死んだ魂と人々の願いと祈りによって作られた存在なのだ。
そして世界の全ても人々の想いと願い、そして死した者の新たな魂の輝きによって作られている。
優しさに溢れたこの世界をリグレスは何と呼んでいたのだろう。
……リグレスがこの世界の核と言うならば――
――Regres――
そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。
〜エピローグ〜
「……あのね、エドワード」
「何だ?」
軽い夜食の後、薄めの紅茶を用意して彼に差し出し、隣に座る。
「――私が消えた時……どうだった?
悲しかった? それとも腹立たしかった?
私、何も言わずに消えてしまったから……」
そう言うと彼は当時を思い出したのか、表情を曇らせた。
「あの時はごめんね」
「……謝る必要はないだろう」
エドワードはそっと肩を抱き寄せてコツンと軽く頭をぶつける。
「あの時は――お前を失った直後は、喪失感に耐えきれずかなり荒れていたな。
お前の異変に気付けず、救えなかった自分に腹が立ったし、
いかにお前が私の全てだったかを思い知った」
彼は私の頭を抱えるように抱きしめて髪に隠れている耳にキスをする。
「バーン城に戻ってからの数日間、記憶がないくらい、廃人同然だったらしい。
カルトス様らの話を聞くと、ただ息をしているだけの無気力な生き物と化していたそうだ」
「エドワード……」
彼の背中に手を回した。
あの時の小さく肩を震わせていた彼を抱きしめることはできなかったけれど、今はいくらでもできる。
「――その後、皆に励まされてお前の最期の言葉を実行に移すことにした。
お前が好きだといったアーク国とバーン国を何としてでも守らねばと思ったのだ。
……そして、奇跡が二度起こった」
「…うん」
「しかし、大陸を守るよりもお前を生き返らせることの方が何故だか私には簡単に思えたのだ。
大陸を守りたいと思う以上に、お前を想う気持ちは強かったからな」
「……うん」
「それでも、お前が実際に目の前に現れて目を開けるまでは不安だった。
自分に都合のいい夢を見ているような気がしたのだ」
「……うん…」
無意識に温かい涙が頬を流れていく。
それに気付いたエドワードは優しく笑って涙を拭った。
「――夢じゃ…ないよね?」
「ああ、夢ではない」
互いの感触を確かめるように二人は唇を重ね合う。
「――。
お前がいるだけでこの世界がとても愛おしいものに変わる。
私の全て。私の魂を温めてくれる者――」
――愛している。
――介入を終了する――