ふと気がつくと、真っ白な景色が360度広がる。
ここはいったいどこだろう。

――君を一番必要としている者のところに行くんだ。

レディネスが言っていたことを思い出す。

……そうだ、私はククルに会う為にここに来たのだ。

静かな水面に水滴が落ちたかのごとく、足元から見慣れた景色が波紋のように広がっていく。



 玄関のチャイムが鳴る。
1週間出張で家を開けていたククルが帰ってきた――畳んでいた洗濯物をその場に置いて、玄関へと急いだ。

「お帰りなさい!!」
「……ただいま……」

勢いよく扉を開けた先にいたククルは少し呆けたような表情で突っ立っている。

「大丈夫? 疲れてるみたいだけど……」
「いや……そういうわけじゃないんだけど…」

茫然したままぐるっと家の周囲を見回した後、ククルはふっと笑った。

「さっきまで頭の中が麻痺してたみたいな変な感覚だったんだ。
 帰り道もうろ覚えな感じでさ。
 とりあえず帰ってこれたんだけど、何かの病気なのかもって思ってたんだ。
 でも、お前の顔見た途端、目が覚めたようなスッキリした気分になったから驚いてさ」
「――ククル…っ」

近所の目も気にせず彼の胸に飛び込む。
鍛えられた背中にギュウっと腕を回した。
どうやら間一髪だったようだ。
もう少し後にククルと会っていたら、彼は完全に私と関わりのある記憶を失っていたかもしれない。
そう思うと酷く恐ろしくなる。

、どうしたんだよ?
 ……もしかして、寂しかったのか?」
「……ん…そうかも」

目元に滲んだ涙を覚られぬように彼の胸に頬を擦りつける。

「家を空けることが多くてごめん」
「ううん。無事に帰ってくるならいいのよ」
「ありがとな……」

暫く沈黙のまま、二人は抱きしめ合った。
服を通して伝わるククルの温もりや鼓動の音で、ククルだけでなく自分の存在もまた確かにこの世界にあることを実感する。

「――じゃあ、お茶でも飲んで一息入れよ?
 あ、お風呂が沸いてるから先に入ってもいいけど」
「ああ、風呂はまだいいや。向こうを出る前に入ってきたし。
 先に洗濯物置いてくる」
「いいよ、私がやるから。
 洗濯しようと思ってククルを待ってたの」
「そっか? じゃあ、頼む。
 俺は一足先にリビング行って寛いどくぜ」
「どうぞどうぞ、ご主人様」
「ははっ、元気になったな」

彼とそんなやりとりをして笑顔で洗濯機のある洗面所のドアを開ける。
するとそこには見慣れぬ光景が広がっていた。
思わず荷物を落とす。
ドアの向こうには辺り一面の真っ白な世界。

「……、どうした?
 俺の荷物、重かったから――っな……」

物音を聞きつけて慌ててやってきたククルもの目線の先を見て言葉を失う。
一体何が起こっているのか見当もつかず、脳はまともな答えを返そうとはしない。
しかし、ふとレディネスの言葉を思い出した。

今、こっちの世界は異次元のようになっていてね。
一歩、家の外に出ただけなのに全然違う土地へ行ってしまったり、
それどころか違う時代に繋がることもあって、とても危険なんだ。

彼の言葉を思い出すとなんとなくピンとくるものがあった。
ここは――時空の狭間だ。

「――介入者……見つけた」

心がざわつく。
誰かの声が聞こえた。

「――お姉ちゃん、こっちに来てよ」

誰かが自分を呼んでいる。
小学生くらいの女の子のような可愛らしい声だ。

「……誰か私を呼んでる……」
「嘘だろ? 俺は何も聞こえねぇぞ」

ククルは少し青ざめた顔でこちらを見た。
しかし、頭の中に直接呼びかけるような少女の声は止まらない。

「ククルはここにいて。
 絶対にこのドアを通っちゃダメよ」
「――っおい…!」

ちゃんと地面があるかどうかも分らなかったが、えいっと足を踏み出した。

――大丈夫、どこからが地面でどこからが空か分らないくらい360度真っ白な世界だけれど、
ドアを通り抜けた自分はちゃんと立っている。

「私は大丈夫だから心配しないで!
 寧ろククルがそこにいないと、私、戻ってこれないかもしれない」
「ちょ…何だって!? 
 あっ、待てっ…――!!」

ククルの戸惑う叫び声を背中に感じながらも、振り向かずに何となく声のする方向へ走り出す。
前に進んでいるかも分らないし、この先に何があるのかも分からないが、声は次第に大きく鮮明に聞こえてくる。


「――よく来たね、介入者のお姉ちゃん――」

突如、真後ろから聞こえた声で足が止まる。
急いで振り向いた先には、これまで走っていた白い世界ではなく、霧がかった花畑が広がっていた。
もう一度振り返ると、先に広がっていた白い景色も花畑に変わっている。
状況がまったく掴めずにグルグルと回って辺りを見回すが、どうにも見たことのない景色だ。

「お姉ちゃん、一人で来たの?」

霧の中から現れたのは白いワンピースを着た少女。

「ええ……彼をよく分らないところへ連れてきたくなくて」
「そう…お姉ちゃんってやっぱり救世主って言われてるだけ優しいんだ」
「優しい…のかな? どうだろう。
 そういう言葉では表せない気持ちが咄嗟に働いたのよ。
 それに彼が向こうの世界にいたら、もしここで私に何かあったとしても何としても戻ってやろうって気持ちになるだろうって思ったのも事実だし。
 ――それで、貴女はだあれ?」

頭の中は極めて混乱していたが努めて冷静さを保ちつつ、少女に優しく問いかける。
彼女は静かにその場にしゃがみ込むと足元に咲いている黄色い花を撫でた。

「――私はリグレス」

顔を上げずに少女は口を開く。

「リグレスちゃんね。
 貴女はどうしてここにいるの? ここはどこ?
 どうして私を知っているの?」

少女の隣に腰掛けて彼女の動作を眺めた。
彼女の長い睫毛が目線に合わせて微かに揺れる。

「ここははじまりの大陸」
「はじまりの大陸って……?」
「お姉ちゃん、知らないの?
 ……それもそうよね。
 普段は誰にも見えない大陸だからおとぎ話くらいしか出てこないもの」
「そんなおとぎ話の大陸にどうして私を呼んだの?」
「私がお姉ちゃんを呼んだのは……会ってみたかったから。
 この世界を変える最大の可能性を持つ存在であるお姉ちゃんにね」

少女は静かに瞳を閉じる。

「リグレスちゃん、貴女は一体……?」

そう言うと彼女はすっと立ち上がり、凍りつきそうな鋭い視線をこちらに向けた。

「この世界はね……私の為に作られたのよ、お姉ちゃん」
「貴女の…為に?」
「そう。
 私のお姉ちゃんがもうすぐ死ぬ私の為に作ったのがこの世界。
 私が死を恐れないように作ってくれた死後に暮らす世界」
「……だったらどうして貴女と無関係の私がこの世界にいるの?」
「それは色んな人の祈りと私のお姉ちゃんの祈りが一つになったから。
 最初はお姉ちゃんが作ってくれたこの小さな大陸一つしか存在しなかった。
 でも、不運にも死んでしまった人の冥福を祈る世界中の人たちの願いが次第に集まってきて、
 いつしかこのはじまりの大陸に植物という命が宿り始めたの。
 そうして少しずつ生物が増え、大陸が増え、結果、今のこの世界になった」

――この世界はそうやって死んでしまった人の魂と、その人を想う人の祈りで作られているの、と少女は寂しそうに続けた。

「私は夢を見ている状態でしか、この世界に来ることができない。
 私の為の世界の筈なのに、私がこの世界の核の一つである筈なのに……。
 なのに、お姉ちゃんは世界を超えてここにやってきた。
 そして次々と世界を変えていく……」

少女は悔しそうな表情を浮かべて涙を流し始めた。
青白い程であった頬や鼻が赤く浮かび上がる。

「……私は可能性が憎い。お姉ちゃんが憎い。
 どうして私にはもう死しかないのに、お姉ちゃんにはそんな力があるの?
 私はいずれこの世界の住人になるのに、これまで私はこの世界に干渉することもできなかった。
 ――死を目前とした今になって漸く干渉できるようになったけど、
 こんなのって不公平過ぎる……っ」

両手を目に当てて泣く少女は今にも消えてしまいそうな程、弱々しく肩を震わせる。

「……それに、この世界は良からぬ方向に変わっていってるの。
 介入者の数だけ、未来はは分岐していってる。
 それと同時に、同じようで違う世界が並行に存在しているわ。
 このはじまりの大陸はどの世界にも繋がってるみたいだけど……」

そう言うと、少女は歩いてどこかへ向かう。
慌てて彼女についていくと、霧の向こうに薄ら見えるのは大きな湖。
その水の中には沢山の惑星のようなものが漂って宇宙に似た空間が広がっていた。

「――こうなったのはお姉ちゃんみたいな介入者が原因よ。
 こんなんじゃ……死んだ私は一体どの世界に生まれてくるの?
 私、迷子になっちゃう……」
「リグレスちゃん……」

彼女が本当に恐れているのは死だと何となく分かった。
自分も死を目の当たりにした時、足元が崩れ落ちて真っ逆さまに落ちていくような不安に襲われた。
何もかもを恨めしく思えたし、途轍もなく未練が残った。

――それでも……この世界に戻ってこれた。

リグレスの話と自分の存在を突き詰めて考えると、という人間は改めて死んだのだということが分かる。
しかし、宝玉と皆の願いによって生き返ることができた。
元の世界ではなく、こちらの世界で。
それはこちらの世界だからこそのことだったのだ。
宝玉の力が万能だとしても、魔法の力が及ばない元の世界では生き返れない筈である。
それに死んでしまった自分の居場所はもうこの世界に移っていたから、皆の祈りでこの世界に“”として形を成せたのだろう。
そしてどんな魔法を用いても実質不可能な生き返りができたのも、
リグレスが言ったようにこの世界が人々の願いと祈りで作られたことに所以するのだ。

そうやって考えていくと、そもそも自分がこの世界にやってきた理由がなんとなく分かった気がする。
自分は入り口を通ってこちらの世界にやってきた。
しかしその入り口とこちらの世界での“魂の入れ物”は予め用意されていたのだ。
自分はゼロから作られたものではない。
だとするとそうさせた者が必ずいる筈である。

「――リグレスちゃん、私の言うことは全部推測でしかないんだけど聞いてもらえる?」

そう前置きして、彼女に向かって話し始める。

「私は誰かに呼ばれてこの世界に来た気がする。
 はっきりと名を呼ばれたわけじゃないし、指図されたわけでもない。
 ふと興味を惹かれて進んだ先にあったのがこの世界の入り口だった。
 ただの好奇心から始まったものだと思っていたけど、でも、今思えばこれは必然的なものだったのかもしれない。
 ……きっとその入り口は、この世界を良くしたいと願った人が作ったんだと思うの。
 もしかしたらリグレスちゃんのお姉さんかもしれないし、全く知らない人が作ったかもしれないけど、
 でも、祈りは届いて私のような介入者を呼び、この世界で形と成ったんだわ。
 だから私は今、ここにいるのよ」
「でも、世界は分岐してしまったのよ?
 いずれはバランスを失って全て壊れてしまうかもしれない」 
「大丈夫。今なら私、その並行した沢山の世界がどこにあるか分かるわ」

そう言って自分の胸に手を当てる。

「ここよ、人の心の中にあるのよ。
 この世界に介入する人たちや死んだ人を想う人たちの心の中に、この世界は存在しているのよ。
 そしてそれぞれの世界は違う未来へ向かって進むの、希望と祈りに包まれて。
 でもその想いの根本は同じ、“相手を想う気持ち”よ。
 だからこのはじまりの大陸は全ての世界に通じているんだわ」
「じゃあ、私が死んだらは全ての世界に生まれてくるの?」
「そうかもしれないし、貴女を想う人の心の中の世界にだけ存在するかもしれない。
 でも、存在しないことはあり得ないと思うわ。
 貴女にはこの世界を作る程に愛してくれる人がいるんだもの」
「それも……そうね…」

いつの間にか少女の涙は止まっていた。
ふと気がつくと、靄の隙間から光の筋がいくつも零れている。

「――お姉ちゃんはやっぱり救世主なんだね」
「ううん、本当の救世主は貴女のお姉さんかもしれないよ」
「……そうだね。
 でも……ありがとう、お姉ちゃん」

リグレスはそう言うと穏やかに笑った。






 ――うまくは説明できないけど、頭の中で何となく理解できたような気がする。

そんな風に漠然と思いながらリグレスと手を振って別れて踵を返すと、目の前に見慣れたドアが現れた。
そしてそのドアを開くと、心配そうにドアの前で佇んでいたククルと目が合う。

「――っ!!!」
「……ただいま」

先程とは逆にククルが飛びついてきた。
痛いと思う程に抱きしめられる。

「無暗に飛び出すなよ、心配するだろ!」
「うん、ごめん」
「しかも俺には追うなとか言うし」
「うん、ごめん。
 ……でもククルに残ってもらってて良かった」

もしククルがリグレスに会って、己は一度は死んでいると知ったら、どんな風に思っていただろう。
自分のように図太ければいいけれど、もしかするとショックを受けて落ち込んでしまうかもしれない。
そう考えると、残ってもらって良かったと思うのだった。

「……お前はそうかもしれないけどな。
 お前が駆けだした途端に景色が元の洗面所に戻っていったから、俺、本当に心配して……」
「ごめんね」

子どもを宥めるようにポンポンと優しく背中を叩く。
そんな感触に少しだけククルも落ち着きを取り戻したようだった。

「――で、結局どこに行ってたんだよ?」
「うーん……よく分かんないけど、この世界の中心…かな?」
「世界の中心?」
「うん。
 霧に包まれたお花畑で可愛い女の子とお話してきた」
「なんだそれ?
 ……で、その子がお前を呼んでたのか?」
「うん、そう」
「何で?」
「うーん、上手く説明できそうにないや。
 でも……怖かったり寂しかったりしたみたい」
「……そっか。
 お前は優しいからそういうのに縁があるんだろ」
「優しさよりも前向きな図太さを必要とされた感じかな?
 ――でも、その子。最後は笑ってたから多分、もう大丈夫だと思う。
 だから私も帰ってこれたんだと思うし」
「そうか。
 俺もよく分かんないけど、ここは色んなことが起こりうる場所だからな。
 何となく理論的には理解不能でも、主観的には理解できた…ような気がする」
「うん」
「――結局は俺もお前と同じだよ。無事に戻ってきてくれたらいい。
 が傍にいてくれたら……それでいい」
「…ん……ありがと、ククル」

強張っていたククルの腕から力が抜ける。
彼に包み込まれるように抱きしめられることが幸せ過ぎて涙が出そうだった。

自分をこの世界に繋ぎとめる存在――愛しい人、ククル。
しかし、彼だけでなくこの世界の全ても愛しく思えてきたのはリグレスのお陰だ。
温かい風、揺れる花、空を飛ぶ鳥たち――全ては人々の想いと願い、そして死した者の新たな魂の輝きによって作られた存在。
優しさに溢れたこの世界をリグレスは何と呼んでいたのだろう。

……リグレスがこの世界の核と言うならば――


――Regres――


そう名付けよう。
回帰世界――私の中に存在するただ一つの世界。












  〜エピローグ〜


 「……そう言えばさ、ククルってヒゲ伸ばしてるの?」
「えっ、あぁ、まぁ……」

出張から帰ってきた時から気になっていたこと。
ククルの顎にポツポツと不揃いに生えている無精ヒゲの存在。
ワイルドで雄々しいククルからは想像しにくいが、意外と彼は体毛が薄い。
しかし、無精ヒゲを生やしている彼の父親の影響か、ヒゲにとても関心があるようで
ヒゲが欲しい、と鏡を見ながら時々呟いていたのだった。
実質、彼にヒゲはとても似合わないと思うし、
自分としては愛する夫には出会ったときのようにいつまでもツルンとした顎でいて欲しいのだが。

「い、いやな、俺って童顔に近い顔立ちだからさ。
 依頼人から甘く見られたり、不安にさせたりすることがあって、それで……」

こちらの気持ちが完全に伝わっているようで、ククルは複雑そうな顔を浮かべている。

「いや……まぁ、仕事上、必要なら何も言わないけど」
「……似合ってないって言うんだろ」
「うん、まぁ……残念ながら」

そう言うと彼はバツが悪そうに頭をガシガシと掻いてみせる。

「――それにヒゲがあると…キスする時とか……痛そう…かな……とか思ったり」
「……そっか」

照れて目線を外したこちらを見たククルはクスッと笑う。

「じゃあ、剃るか」
「……うん」

笑顔で頷くと、ククルが微笑みながら頭を撫でた。
そしてゆっくり顔を近づける。

「だーめ。痛いもん」

敢えての寸止め。
彼の唇に蓋をするように両手で押さえる。

「……、ヒゲ剃ったら覚えてろ」

彼の強気な笑顔を今日も見れることがとても幸せだと思った。





















――介入を終了する――