Dream fantasia




 開演前、少しざわつく会場。
舞台袖に立つはオーケストラ用の椅子や楽器、そして自分が弾くピアノを見つめる。
彼女の手にはこれから演奏する曲の楽譜と、昔からお守りのように大事にしている楽譜が握られていた。

さん……」

オーケストラの団員たちが楽屋から続々と出て舞台袖に集まってくる中、上品ないでたちの婦人が声をかける。
振り向いたに彼女は深々と頭を下げた。
も同じ動作をした後、彼女の元へ歩み寄る。

「完成するのに4年、かかってしまいました。今日まで本当にお待たせしました。
 ――新堂くんも聴いてくれていたらいいのですけれど」
「きっと聴きに来てますよ」
「はい」

そう言うと婦人とは再びお辞儀をし、それぞれ踵を返して前に進んだ。
辺りにブザーの音が響く。
団員たちは所定の場所に行き、楽器の調整を始めた。
も光の当たる舞台へ踏み出す。

楽譜の準備をし、もう一つの古い楽譜は自分の座っている椅子の左側に置く。
その楽譜には“夢想幻想曲”という曲名と作曲者である新堂海しんどう うみの文字。
はタイトルの横にある彼が消した鉛筆の文字の跡にそっと触れた。
ぱっと見、他の者には分からないが、ここに何が書かれていたか今のにははっきりと分かる。

指にキスをして目を閉じ深呼吸。
その後、指揮者が台に上がり、会場は一瞬無音になった。



 第一楽章――機械仕掛けのピアニスト。

最初はピアノソロ。
感情の起伏のない演奏。しかしその指は華麗に素早く強く、そして緩やかに優しく音を奏でる。
酷くが苦労する部分がこの第一楽章だ。
しかし体を動かさぬよう、表情を変えぬように演奏する訓練を重ねた結果、は少しだけ彼に近づけた。
この第一楽章のような曲を得意としていた彼――新堂海に。


彼を知ったのは中学1年の夏。
ピアノのレッスンの曜日を変更すると、自分のすぐ後が彼のレッスンの時間だったのである。
レッスン開始時間より早く来ても遅く来ても特に怒られることはなく、自分の前にレッスンを受けている人がいても勝手に部屋に入ってソファに座り、
自分の番が来るのを待っていてよかったという比較的オープンで自由な個人のピアノ教室に通っていた為、彼はよくのレッスンが終わる少し前にやってくることが多かった。
きっと彼は真面目な人なのだろうとその時からは思っていた。
冬の寒い日などはレッスン開始時間の30分程前に来て、手を温めて指を解していたのを覚えている。

そうしてのレッスンが終了し、彼と入れ替わるようにソファへと戻って帰り支度を済ませ部屋を後にすると、玄関を出る頃には彼の演奏が聞こえてくるのだ。
の習っている先生はレッスンの開始すぐは指を解す為の練習曲を必ず弾かせる。
急に指を速く動かすことと、物語を感じないような曲を弾くのが苦手なはいつも練習曲に手間取っていた。
しかし聞こえてくる彼の演奏は自分とは全く違った。
最初から100%の力を出し切って楽譜の通りに正確に弾く彼。
もうウォームアップは必要ないとでも言うように、彼の指は滑らかでいて素早く鍵盤の上を移動する。

初めて彼の演奏を聞いた時、は思わず彼の技術の高さに玄関の前で棒立ちになった。
3歳からピアノを始めて約10年くらい経つにもかかわらず未だに自分の指をうまくコントロール出来ず、感情が先走ってしまうには
彼の正確で安定感のある演奏が自分の理想の演奏と重なったのである。

それからレッスンの日が楽しみになった。
彼の演奏を聴きながら、後ろ髪が引かれる思いで先生の家を離れる日々。
何故か緊張してろくに顔も見れずどんな顔をしているか覚えてもいないのに、彼の演奏や動く指、そして後姿ばかりがの頭の中でリフレインする。
そんな話を同級生にすると初恋だとからかわれた。その時は物凄い勢いで否定したが。

しかし、ある日のこと。一度だけ彼がレッスンに遅れてきて玄関前で鉢合わせしたことがある。
その時、初めて彼の顔をちゃんと真正面から見たが、演奏をそのまま形にしたような端整な顔をしていて一瞬腰が砕けそうになった。
少し鋭い目に細いシルバーの眼鏡がとてもよく似合っていて、いかにも冷静沈着の委員長というか生徒会長とかいうような雰囲気を醸し出していた。
それに華奢で色白なのでとても透明感があって、綺麗なガラス細工のような人だと思った。

それからは尚更彼のことが気になりつつも、これまでと同じような日が続いた。
会話することもなく、名前も年齢も知らない相手の演奏と手の動きに魅了される自分。
好きな曲が流れるような優しい曲や切ない短調の曲に偏っていく。
なのに彼の弾く練習曲が何よりも素敵な曲に聞こえてしまう。
彼に出会って約1年経った頃にはそんな自分の気持ちにはっきりと気づいていた。



 第二楽章――夢想のはじまり。

やや機械的だった曲調が雪解けするように柔らかくゆっくりなものへと変わっていく。
ハープとフルートの優しいハーモニーが会場に響き渡る。
するとそれまで上半身を殆ど動かさず、表情も変えずに演奏していたに変化が起こった。
少しずつ演奏に感情が広がる様はまるで蕾が開くよう。


彼の名前を知った時もこんな気持ちだった、とは思う。
個人の先生がレッスンしていることもあり生徒が少人数だったので、昔から発表会や演奏会は2年に1回あればいい方だった。
しかもその先生の企画する演奏会は少し変わっていて、キーボードと共演をしたり、皆で歌を歌ったり、異年齢で連弾したりと音楽そのものを楽しむことを目的としていた。
その為、自分の好きな曲を選曲できたし友達同士で連弾したりする生徒らもいた。

そんな演奏会を約半年後に開くと先生から聞いたのは中学3年生になる少し前の頃。
更には意外な提案をされたのだった。

「海くんと連弾してみない?」

海とはいったい誰だろう、と思いながら首を傾げる。
すると先生は「いつもちゃんの後にレッスン受けに来る彼よ」と言った。
その言葉に思わず固まる

「2人とも全くタイプが違うし、お互いいい刺激になると思うのよね」
「そうですか…? でも私……」

確実に自分が足を引っ張ることは目に見えている。
練習曲で先生と連弾したことはあるものの、それ以外の経験はない。
一人で弾くだけでも精一杯なのに、すぐ隣で弾くだけでなく曲によっては腕を交差させて演奏したりするのが持ち味である連弾をするなど、
高等な技術を持ち合わせていない自分には無理だと思った。

「大丈夫よ、ちゃん指名したのは海くんだし。
 それに今回の発表会はファンタジーをテーマにしようと思ってるんだけど、ちゃんの得意そうな曲を選んだから」
「はぁ……でも、彼が私を?」
「うん、そう。やっぱり全然弾き方が違うから気になったんじゃないの? それに学年も同じだしね」
「そうですか…」

彼が自分を連弾の相手に指名した――そのことが頭の中をぐるぐると回り、半ばぼんやりとした状態では連弾を承諾することになった。
そうしてその日のレッスン終了後、やってきた海くんこと新堂海に先生は連弾のことを話し、互いに自己紹介を済ませる。
制服から予想はついていたが彼は同じ校区にある私立中学校に通っていて、と同じく3歳からピアノをしているらしい。
しかし生まれたのは別の土地で、中学1年生の1学期途中からこちらに引越してきて今の学校に転入したそうだ。
そしてここでレッスンを受け始めた、と少し小さめな声で話をして、連絡先が書かれたメモ帳を渡された。

――その日は何だかずっと興奮してなかなか眠れなかった。
彼の名前を知ったこと、彼の声を聞けたこと、彼と話をしたこと、その日の日記には沢山の“初めて”が書かれている。

それから発表会まではレッスンの時間を少し延長することになった。
延ばした時間を彼との連弾の練習に当てるのだ。

そして主旋律のパートを弾くことになっただが、すぐ隣で彼の演奏を見聞きするようになって尚更彼のピアノの虜になっていった。
彼は普通の演奏も自分にしてみれば完璧に近いレベルだったし、練習も沢山しているのだろうが先生のアドバイスをすぐに聞き入れて演奏に反映することができる。
何もかもが自分と違っていた。
きっと神様は彼に音楽の才能をこれでもかという程に与えたのだろう、と思う。
それでも彼は自分の才能や実力に驕ることはなかった。

「新堂くんって将来の夢とかある? やっぱりピアニスト?」
「――そうだな。ピアニストになれたらいいと思う。さんは? ピアニストにならないの?」
「私もなりたいけど……でも無理だよ。新堂くんと同じ年数ピアノしてるのに全然指が思い通りに動かないし、感情ばっかり先走って正確さに欠けるし……」
「僕は君の方がピアニストに向いていると思うよ。僕のピアノには命が感じられないけど、君は違う。
 技術は練習さえすれば後からどうにでもなるよ。君ならきっと素晴らしい弾き手になる」

は当時の彼の表情を思い出す。
自分のすぐ左隣に座っていた彼はとても穏やかな顔をしていた。
こんな彼を見れたのも、彼が家に誘ってくれたからだった。

「暇な時、よければ練習に付き合ってほしい」と言われてから、部活に所属していなかったは毎日のように彼の家に行っていた。
先生の家では何となく互いに私語を慎んでいたが、彼がプライベートの練習を申し出てくれたことによっては彼の技術だけでなく、彼自身についても少しずつ知り始める。
会話は殆ど音楽やピアノに関することばかりだったけれど、彼がとても音楽とピアノを愛していることは、どの話をしていても感じ取ることができた。
普段は非常にクールな表情をしている彼が、それらの話をしている時は少しだけ表情を変える。

そんな彼の表情を見ながら話を聞くのがは好きだった。
真剣に楽譜を見つめる彼の横顔が好きだった。


突如、音が消えて、ギュルギュルギュルとバイオリンが螺旋を描くような演奏を始める。
その音は強さを増して昇っていく。
そしてバイオリンの音が消えると同時には指に全体重と全身全霊を込めて、バーンと激しく大きな音を響かせた。



 第三楽章――現実の世界。

ピアノの残響がなくなると、指揮者は一度大きく手を上げて勢いよく振り下ろす。
突然の嵐に襲われたかのような轟音が響き渡る会場。
ティンパニが低くて重い、しかし何か迫り来るような緊迫感を感じさせる音を響かせ、金管楽器は波のような強弱で音を鳴らし、
木管楽器は心細さを感じさせる不気味な風を演じる。
弦楽器は弦を指で弾き、崖から真っ逆さまに落ちていくような絶望的なメロディーを奏でていく。
そしては手を下に降ろして楽譜を追っていた。
目から涙を流しながら。


「――さん。宜しければあの子の日記、貰ってやってくださいませんか」

葬儀の翌日、彼の母親から薄い日記帳を受け取った時のことを思い出す。


彼の悲報を聞いたのは発表会の2か月程前、丁度梅雨が明ける頃のことだった。
ピアノの先生から電話を受けた時、全く先生の言葉の意味が分からず、どこか別の国、いや別の星の言葉のような感じがしたのを覚えている。
一体何が起こったのか、本当に彼はこの世界からいなくなってしまったのか、そんなことも考えられないくらいポカンとしていた。
そもそも先天性心疾患の心房中隔欠損症とか感染性心内膜炎による脳梗塞とか言われても当時の自分には分からなかった。
ただ、もう二度と彼には会えないということは頭の片隅で分かっていた。

それでもその事実を認めたくなくて、襲い来る悲しみを受け入れたくなくて、その日、は高熱を出して寝込み、彼の通夜には行かなかった。
しかし、両親やピアノの先生に「本当に最後の別れだから」「行かないと、絶対、後で後悔する」と説得されて翌日の葬式は行くことにしたのである。

写真の彼はいつものクールな表情ではなく、少しはにかんだような表情をしていた。
きっとあれが家族や友達に見せる彼の素顔なのだろう。
自分もあんな顔を稀に見ることがあって、そんな日はこちらが夜までご機嫌に過ごせていた。
だが、もう彼の穏やかな表情も、ピアノに向かう真剣で真っ直ぐな横顔も眼差しも見ることはできないのだ。
何より彼と並んでピアノを演奏することもできない。心を奪われた彼のピアノも聞けない。

の心の中には悲しみよりも先に、何故か怒りのようなものが湧き上がった。
神様や運命や、世界中のなにもかもが憎く感じた。
そんな中、会場内に聞き覚えのある曲が流れる。
ラヴェルの「マ・メール・ロワ」という組曲の中の“第1曲 眠れる森の美女のパヴァーヌ”という曲。

これは発表会でが彼と一緒に弾く筈だった曲のうちの1つである。
静かでゆっくりとした優しいピアノの音が響くとの中の怒りは次第に収まり、抑えられていた悲しみがじわじわと込み上げてくる。
それでもは泣かなかった。
泣いてしまったら彼との思い出や彼への想いが全部涙となって流れ出て、全てが失われてしまいそうな気がしたから。



 第四楽章――魂をひとつにして。

嵐のような演奏は収まり、ピアノソロが始まる。
は第一楽章のメロディーを優しく情緒豊かに再現していく。


  ――僕は理想の音に出会った。
 彼女の演奏が耳に入ってきた瞬間、僕は草原の中に立っているような感覚に襲われたのだ。
 どこまでも広大で、美しい緑色の絨毯のようなその草原を走り抜けるイメージ。
 知らない曲だったものの、そんなリアルな想像ができてしまった彼女のピアノに僕は嫉妬すら覚える。
 自分で勝手な解釈をするよりも、楽譜に書かれている通りに弾くことこそが作曲者の求める完璧な形であり、
 それが一番その曲を美しく魅力的に演出する術だと自分では思ってはいるが、彼女の演奏にとても惹かれた。
 僕は感情をそのままピアノに乗せるのが怖いと思っている。感情に任せて鍵盤を弾くことが怖いのだ。
 しかし魂の感じられる演奏に出会うと、僕はその演者に憧れずにはいられない。
 僕にあのような演奏ができれば――と考えなくもない。
 それでも自重してしまうのは、今まで自分が貫いてきたスタイルを急に崩すのは何だか恥な様な気がするという妙なプライドからだろう。
 それから激しく興奮することがないように、近頃は特に自重するようになったこともあると思う。
 中学に入って突然、病気が見つかって、入学早々カテーテル治療で実績があるという病院近くの学校に転校する破目になり、家族にも迷惑をかけてしまって。
 これ以上、迷惑かけたくないし心配させたくもないから、自分でも気をつけてはいるのだけれど。
 だが、彼女の演奏を前にすると気持ちを抑えることができなくなる。
 どうしたらあんな風に弾けるのか、彼女は一体どんな人なのか、疑問は増えていくばかり。
 数分聴くだけでは満足できないこの気持ちは何なのだろうか。
 もっと聴きたい、他の曲も演奏して欲しいと思うこの気持ちは。
 病気だと分かったけれど不幸中の幸いは、この土地で彼女に出会えたことだ。


  彼女のことを考える時間が増えていく。
 それと同時に浮かんでくる旋律。
 それらを繋げて曲にすることにした。タイトルは夢想幻想曲。副題は〜に捧ぐ〜にしようと思う。
 彼女をイメージした曲にするつもりが、自分の気持ちを反映させたものになってしまった。
 しかし第2楽章しかないのはさすがにバランスが悪い気がするし、曲全体にまとまりがない。
 それでもきっとここから先も作る時が来るだろう。
 何故なら彼女への想いは日々強まるばかりなのだから。


  彼女と一緒に演奏することで得られる一体感が忘れられない。
 今の僕等は片翼しか持っていない鳥のようなものかもしれない。
 2人力を合わせることで漸く空へ羽ばたくことができるのだろう。
 いつか自分の力で飛べる日が来ることを祈りつつも、彼女と一緒に羽ばたく瞬間が楽しくて仕方がない。
 発表会が終わってからも、今のように会えたらいいのに。


彼が亡くなってから、は暫くピアノに触れずにいた。
ピアノを見ると彼を思い出してしまい、胸が苦しくなり息をするのも辛くなってしまうからである。
しかし、ピアノの先生から話を聞いた彼の母親が会いにきて「海の為にもピアノを続けてほしい」と言われ、未完成の“夢想幻想曲”の楽譜を渡されてからは、
はただピアノを続けるだけではなく、夢にすることすら諦めていたピアニストの道を遮二無二目指すことにしたのだった。

中学卒業の時点でピアニストを目指すなんて遅すぎると色んな人に言われたが、当時のピアノの先生は貴女のピアノはとても魅力的だから大丈夫だといつも励ましてくれていたし、
無理だと言う人には1%でも可能性があるなら努力と練習で1%ずつ可能性を上げていってやると言い返してやった。
家族には金銭的にも非常に苦労をかけることになったが、高校からは芸大卒の有名な先生にレッスンを受け、志望していた大学にも行かせてもらったし、卒業するまでに留学もさせてもらった。
中学の頃は敬遠していたコンクールも物怖じせず受けるようになり、国内外問わずコンクールのある所へ飛び回るようになった。
そして大学を卒業してからもコンサートを開いたり、コンクールを受け続けたりしていくうちに、
という名前が少しずつメディアに取り上げられるようになっていったのだった。


――そうして努力と挑戦を続けていった結果、24歳でフレデリック・ショパン国際ピアノコンクールで3位入賞するほどまでになっていた。
様々なコンクールに出て入賞していくには近年、一部で“コンクール荒らし”という肩書もついていたが、今回のコンクールでひと段落つけるつもりであった。
そんなはコンクール後、一躍有名になっていて驚いたものの、11月上旬に帰国すると一番に帰省して海の眠っているお墓と家に向かう。

「こんにちは。――先日はワルシャワにまで応援しに来てくださってありがとうございました」
「おかえりなさい、さん。もう沢山の人に言われただろうけど、銅メダル、おめでとうございます。
 あの演奏は本当に素晴らしかったですものね」
「ありがとうございます」

彼の母親との交流は彼が亡くなった後も続き、は成人してからも度々彼の家を訪れたり手紙のやり取りをしていた。
同じ夢を持ち、夢に向かって努力し続けるの姿に息子を重ねるのか、彼の家族は皆、彼女を応援し、支援してくれた。
今回のように外国のコンクールに足を運んでくれることもあった。

「今日はお願いに参りました」
「そんな、改まってどうかされたのですか?」

お茶を勧めると彼の母親は不思議そうな表情での顔を見つめる。
は鞄から楽譜を取り出した。

「新堂くんの“夢想幻想曲”の続きを書きたいと思っています。そしてそれをオーケストラ用に編曲させていただきたいのです」
「ああ、あの第2楽章まで書かれていた曲ですか?」

「はい。――ご家族の皆様にとりましては、彼の作った曲に他人が手を入れることは非常に苦痛なことと思います。
 しかし、私は……彼の曲を沢山の人に聞いてもらいたいし、演奏してもらいたいのです。
 音楽は……国境も世代も死すら越えて人々の中に残っていくものだから……」

楽譜を持つの目にうっすらと涙が浮かぶ。

「それに――私が彼と会えるのは、もう、音楽の中しかないんです」
さん……」
「今回のコンクールに入賞できたことで、私は漸く新堂くんの持っていたプライドや情熱と同じだけのものを得られたと確信しています。
 当時はまだ技術の面からもメンタル面も彼の翼には釣り合わなかったけれど、今、私は自信を持ってピアノを弾けるようになりました。
 今なら彼と一緒にどこまでも高く羽ばたける気がする……っ」

顔を覆いながら肩を震わせる彼女の隣に座ると、母親は優しく彼女を抱きしめた。

「ありがとう、さん。ずっとあの子を大切に想ってくれて。
 ――どうか貴女の手であの曲を完成させてやってください」


ピアノに少しずつ楽器の音が加わっていく。
それはまるで嵐で荒れて砂地になってしまったような大地を雨が潤し、温かい太陽の光が燦々と降り注ぐ中、どこかから種が飛んできて少しずつ草木の芽が萌えていくようである。
そして全ての楽器が揃った時、聴衆の瞼の裏には草原が広がっていた。

は自分が草原を駆け抜けている気持ちになりながら指を躍らせる。
緑の海を走り踊り飛び跳ねる少女は綿飴のようなふわふわとして頼りない片翼を持っていたけれど、その翼には夢や希望が沢山詰まっていて虹色に輝く光を放つ。

そんな彼女が出会ったのは、真っ直ぐ空を見つめて佇む片翼の少年。
彼の翼はガラスのように透明で繊細で、プリズムのように光を様々な色に見せていた。
すぐに2人は互いの翼に魅了され、相手そのものにも惹かれていく。

優しいメロディーを口ずさむ2人。
その音に溶け合うように2人は体を寄せ合い魂を一つにし、そして力強く空へと飛び立った。

どこまでも高く、どこまでも高く――っ!! 

は小さく呟く。
そして、高く高く螺旋を描きながら昇りつめた後、流れ星がすぅっと空に消えていくようには鍵盤から指を離し、腕を下ろした。



 演奏が終わった会場は、日本では珍しいスタンディングオベーションの嵐に包まれる。
そんな中、観客席にひとり座っていた海の母親は穏やかな表情で涙を流し、左手に持っていたパンフレットの文字を読み返した。


Dream fantasia
“Dream fantasia 〜海に捧ぐ〜”

原曲:夢想幻想曲
作曲:新堂海
編曲:


 永遠に、どこまでも――音楽さえあれば、私たちはいつでも彼に会うことができる。

 この曲が多くの人に愛され、多くの人の中で永遠に生き続けますように。


                                                







『リクエスト』と同様、SSとは呼べないような長さになってしまいました。すみません!!!
それからネタばれになってしまうので、死ネタという情報を作品の説明の欄に敢えて書いておりませんでした。
死ネタが苦手・嫌いな方は本当に申し訳ありませんでした。

連弾をしているシーンを描きたかったが為に設定など作っていったのですが、結局連弾シーン削除したという(;´▽`A``
もしかすると、音楽に全く興味のない方、寧ろ、音楽の道に進んでいる方、そして病をお持ちの方、ご家族の方などは、文章を読んだ時に不快感や違和感があるかもしれません。
それでもできるだけピアノなど習ったことのない人でも分かるような単語を選び、病やピアニスト関連について自分でできる範囲で調べて書きました。
でもピアニストはこんな簡単にはなれませんので、あしからず…。このヒロインさんは努力の天才だったと思ってください^^;
描写が拙いですが、少しでも音楽の可能性とか素晴らしさとかを改めて感じていただけたらなぁと。
いや、私なんかが書かなくても十分皆様分かってらっしゃると思いますが^^;

分かりやすく書きたかったのですが、現在の演奏に過去と大過去が入り組んだ話になってしまいまして
一度読んだだけでは意味不明な文章の並びになっているかもしれません。
ですが一生懸命考えたので^^; できれば耐えながら一度、最後まで読んでいただけたらと。
あと、あまりだらだらと書くと解説めいた文章になりそうだったので、海くんの死因やそれまでの流れを一切省きました。
恐れ入りますが、病気に関することが気になる方は単語で検索してみてください。
私に聞かれても医学的なことはネットなどに載っている知識しか持ち合わせておりませんので、お答えできません^^;
私が調べたところによると、心房中隔欠損症という先天性心疾患は原因が遺伝子的なレベルだとは分かっているものの、完全には解明されていない病らしいです。
そして病は心電図や心雑音の聴診などで幼い頃から発見できるそうなのですが、心臓の穴が小さいと成人になるまで発見できないこともあるそうです。
発見できないくらいなので日常生活に影響はそれほどでない方もいるそうですが、確実に心臓や肺に負担がかかっているので
将来は病になることもあるらしく、できるだけ心臓に負担がかからない小さな子どもの時に治療することが勧められているそうです。
(カテーテル治療ができる体の大きさなどもあるようなのであまりにも幼いお子さんは無理だと思いますが)
海くんは穴が小さかった為に発見が遅れて、中学2年の夏休みにカテーテル治療を受けるはずでしたが
手術前に熱を出し治りが遅かった為、3年の夏休みに延期することになり、3年の手術前に虫歯治療の際に菌に感染しそのまま感染性心内膜炎にかかって
壊疽した心臓の細胞が脳に流れ込み脳梗塞に至ってそのまま死亡してしまった、という経緯を私の頭の中では辿っております^^;
ネットなどでは、カテーテル治療が日本でも受けられるようになってからはそれまでの手術に比べると
ずっと危険性の低い手術(カテーテル治療)であり、子どもの頃に手術して術後は感染症などに気をつければ
普通の子どもと同じような生活に戻れると書いているものもありました。
それでもいい意味でも悪い意味でも、医学には100%はないと思うので、本当にまさかの死亡という感じで描いたつもりです。
本当は彼の母親が自分を責め、主人公が「誰にも責任はないです、誰も悪くなんてない」と慰めるシーンなども入れようかとも思ったのですが
これも文章の流れが分断されそうだったので削除しました。
主人公と海の母親はこんな風に支えたり支えられたりする世代を超えた友達というか仲間のような絆を持っているイメージです。

というわけで悲恋もの…というよりも音楽ものでしたが、ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました!!!


吉永裕 (2009.7.3)



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ちなみに 眠れる森の美女のパヴァーヌ は試聴できます↓
恐れ入りますが、新しくブラウザを開いてコピペしてください。(つまりはこのページから直接飛ばないでくださいということです^^;)
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