はミュウのブースの前で耳を澄ませた。キーボードを叩く音が聞こえるので彼は中にいるようだ。
はいつものように目隠し用の衝立の前でミュウに呼びかける。
すると中から「はーい、どうぞ。もしかしてお昼?」という返事があったので、は彼の作業しているコンピュータの画面が見えない位置に立ち「そうです」と答えた。
目の前のミュウは丁度作業を終えたばかりのようである。

「丁度区切りが良かったんだ。さあ、ご飯食べよう」
「ええ、行きましょう」
「昼間の食堂は人が多いからテイクアウトにして休憩室で食べようか」
「そうですね」

 そして二人は食堂でテイクアウト用のメニューを頼み、再び五階に戻って来て休憩室の扉をくぐった。
朝弾いたピアノはやはり部屋に入って左側に置いてある。
けれどこのピアノが来る前はあそこには何があったのかには思い出せなかった。
恐らくラックでもあったのだろうと思いながらはスープの容器についている蓋を開ける。
今日のスープはクラムチャウダーだ。
はふとミュウが以前話したことを思い出す。

「…ミュウはいつも忙しそうですけど、ちゃんとご両親に連絡は取っているんですか?」
「実はあんまりしてないんだ。
 時々メッセージが届くんだけど、つい後回しにして返信を忘れちゃうんだよね」
「それはご両親が気の毒ですよ」

 が尋ねるとミュウは悪戯っ子がするように舌をぺろっと出して肩を竦めた。
大人になってもそんな無邪気さを携えている彼は本当に愛らしい人だとは思いつつ、自分のことは棚に上げてミュウに返事をするのだった。
 すると彼は急に真面目な顔を見せる。
はどきっとした。彼を不快にさせただろうかと思ったからだ。
けれどミュウの目は優しくを見つめるのだった。

「うん、反省はしてるんだけどね。どうしても私的なメッセージは優先度が低くて。
 …あとは甘えてるっていうのもあるんだ。ミカサを含めてあの家族は皆、優しいから。
 だから心のどこかで許してくれるって思い込んでる。
 多分、本当の両親よりも信頼してると思うよ」

 ミュウは離れた両親を思い返したのか、それとも自分を置いて行った実の両親のことを思い出したのか
少し遠い目をして宙を見つめていた。
 そんな彼はやはり一緒に過ごしたからか弟のミカサと少し似ていた。
ミカサもミュウやに対してだけ辛辣な言葉を使ったり敢えて不快な顔をして見せる。
それは彼の甘えの表現なのだと以前ミュウは言っていた。
 ミュウも同じなのだ。両親に対して返事をせずに心配させたりやきもきさせても
きっと両親は自分のことを嫌いにならないという信頼感があるのだろう。
そんな関係は素敵だとは思った。
自分は祖母のことをそんな風には決して思えないからだ。

「――あ、心配しないで。ボク、何とも思ってないから。
 両親に未練もないよ。幼い子どもを置いて別の土地に行っちゃった人たちだもん。
 そんな人のことを色々気にするのは馬鹿らしいなって」
「…気にしています。
 両親のことを許せていないでしょう、ミュウ」

 ミュウの心境を想像するだけで胸に苦いものがこみ上げそうになったは伏し目がちに口を開いた。
目には所在なさげにクラムチャウダーをかき混ぜ続ける自分の手とスプーンが映っている。

「やっぱり君には分かっちゃうか」
「私でなくても分かりますよ」
「…そうか、そうだね。
 だからミカサの家族はボクに酷く優しいんだと思う」

 そう言ってミュウは力ない笑みを浮かべた。
彼らの好意は嬉しいけれど困る、とでも言いたげな顔だとは思った。

「ボクが寂しくないように、ボクが実の親を怨まないようにって必死に愛情を注いでくれてるように思える。
 それは有り難いし嬉しいことだけど、でも、温かすぎて駄目なんだ。
 毎日が平穏すぎて、憎むことを放棄しそうになる」
「ミュウ、そんな憎むだなんて…」

 はつい口を挟んだがミュウは彼女に寂しげな瞳で軽く微笑みかける。
そんな彼の姿にはもう何も言えないと思った。

「子どもの頃のボクは実の親を怨むことで生きてた。
 ミカサやナナミと出会ってからも、時々酷く冷たい気持ちで世界を見つめる時があったんだ。
 そうでもしなきゃ、何のために生きてるか分からなかった。
 ――ミカサはね、そんなボクを知ってたよ。だから、ボクの傍にいるんだ。
 冷たい人形みたいなボクに僅かに残る人間らしさを失わせない為に、ミカサはボクの傍にいてくれるんだ。
 …ナナミが死んでからは尚更ね」

 ナナミのことを口にした瞬間、ミュウが今日一番悲しげな顔をしたようにには思えた。
自分にとってもミュウにとってもナナミの死は何かを悟り変わってしまう起点になっているのかもしれない。

「ミカサは本当に優しい子なんだよ」

 絞り出すようなミュウの声を聞き、は今すぐにでも頭を撫でてやりたいと思った。
今の彼は罪を告白している子どものようなか弱さが滲んでいるからだ。
けれどミュウは子どもではないし、会話と食事の途中でもあるので席を立つことも失礼だろうと思い直し、
は静かに頷いて彼に続きを促した。

「でも、今はちゃんと目的があって生きてるし、
 ボクの存在は無意味じゃない、寧ろこの世界にはボクが要ると思ってる。
 君はボクらに人間らしさを教わったってよく言うけど、ボクも君たちのおかげで人間でいられるんだ。
 …ボクは大丈夫。
 まだ実の親に対して黒くてドロドロした気持ちは残ってるけど、
 多分、実際に会ったらすんなり許しちゃうくらいには落ち着いてきてると思う。
 ――だから、
 ボクなんかの為に胸を痛めないで」

 先程まで子どものような精神的頼りなさを見せていたミュウが一気に実年齢に戻ってくる。
言葉通り現在、彼の心の波は落ち着いているようだった。
 は無意識に涙ぐんでいたことに気づいて慌ててミュウに見えないようにして涙を拭った。
再びミュウに視線を戻すと目が合った彼はにこりと微笑み、食事を再開する。
も敢えて何事もなかったように食事に戻った。
ミュウは自分が考えていたよりもずっと脆い心を持っていて、
けれどそれを冷静に受け止めることができる大人な精神力の持ち主なのだとはこの時、改めて実感したのだ。

「――ミュウ、今、貴方は幸せですか?」

 はこれだけは聞いておきたいと思った。
彼の実の両親やミカサら家族に対する複雑な気持ちは分かった。
そんな気持ちを抱えたままミュウはずっと生きていたのだ。
それでも自分の存在は無意味じゃないと思えるくらいに今の彼は自信を持って過ごしている。
けれど真に幸せでないのならは彼の為に何か力になりたいと切実に思ったのだ。

「え、今? …どうだろう。
 身近でナヲミが苦しんでるのを知ってるから、心から幸せとは言えないかもしれないけど…」

 ミュウはきょとんと首を傾げた後、一瞬考えて口を開いた。
その顔は先程のような真面目なものであり少し悲しげでもある。

「だけど、きっと幸せなんだと思う。
 …ナヲミと比較するのは悪いとは思うけど、でも、今のボクはやりたいことは何でもできるし。
 何よりたちが傍にいてくれるから」

 そう言った後、ミュウは何かを確認したようにしっかりと「うん」と言って頷いた。
そして穏やかな顔をに向ける。

「やっぱりボクは今、幸せなんだ」
「それならいいんです。
 …最近、貴方が疲れているように見えたからつい聞いてしまいました」

 ミュウの表情を見たは安堵して同じように彼に微笑み返した。
ミュウが幸せなら自分も幸せだと素直に思えていた。
今現在は一旦休みをもらっているが自分がナナミのALの製作を完成させるという目標に向かって毎日頑張っていたのも、
ナナミにもう一度会いたいというよりもミュウの願いを叶えたいという思いが強かったからだ。
にとってはミュウの存在が己の存在理由のようなものである。
それを彼女自身も重々理解していた。
 
「貴方が幸せだと思う理由の一つに私が入っていることをとても嬉しく思います」
「本当?それならボクも嬉しい。
 …ね、いつか全部上手くいってさ、皆で仲良くずっと一緒に過ごせたらいいのにね。
 ナヲミとナナミも含めた皆で」
「ええ、そうですね」

 が頷くとミュウは満足した様子で微笑み、残った食事を片付けていった。
もまた少し冷めてしまった料理に手を伸ばし食事を再開する。
ミュウを食事に誘った時の気分とはまるで違ってしまったが、それでも彼のことを深く知れたことは良いことだとは思った。
そして彼の深層を知るにつれてはますますミュウの力になりたいと考えるのだった。




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